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AさんとBさん  作者: ヨシキリモトカ
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AさんBさん、初めての朝

 AさんとBさん。初めての、朝。







 朝は早くに目が醒める。寝覚めはよい方だ。

 起きたら顔を洗って、すぐに寮を出る。近くの公園で太極拳という名目の老人体操をしている老人に混じりながら適当に身体を動かして、お腹が空いてきたら近くの店で粥に豆腐脳か小龍包をつけて食べる。

 それから大学に行って、授業。授業料は自分が働いた分もあるが、大半は兄が出稼ぎで頑張って稼いでくれた金だ。だから居眠りはしない。

 昼は屋台か、学食。北京はよい都市だ。大体どこでも、安価でたらふく食べることができる。観光地はまた別だが、路地を一つ離れれば地元向けの店が並び立つので、特に問題はなかった。

 午後からはまた授業で、時折実習科目も入る。全ての科目が終わると図書館で授業の復習をしてから二冊本を借りて帰る。自室は有難いことに一人なので、ゆっくり本を読んで、シャワーを浴びて、買い置きの食材で適当に夕食を作って食べる。そして早めに寝る。


 それがいつもの生活だ。

 同じことの繰り返しだが授業は勿論進んでゆくし、図書館の蔵書も多いから、飽きるということはない。

 今日もそんな一日が始まる。



 そう思っていたし、その筈だった。

 が。


 目が醒めて身体を起こし、


「……?」


 ここは何処だ。


 と思ったのは、生まれて初めての経験である。


 貧乏な家庭で育ったため、家は狭く、寝所も台所も殆ど繋がっていて何処で起きても大体同じ空間を目にしていた。

 誘拐などとは無縁だったし、無愛想で無口で薄汚れていたからか、農村にありがちな人身売買の類に巻き込まれたこともない。

 ちなみに一時期日本に住んでいて、最初の三日ほど、目覚めて驚いたことはある。最初のうちは狭くとも清潔な部屋、静かな夜が逆に気になってほとんど眠れなかったが、慣れれば凄まじく快適だったことを思いだす。

 中国では入浴はシャワーで済ますことが多いが、日本で教えてもらった湯船にゆっくりつかるという習慣もよかった。身体がぽかぽかと温まって、元々健康な身体の調子が更に良くなったくらいだった。

 二十年近く中国の味に慣れていた彼は、日本の味付けだけはやや物足りないと思ったが、元々食に関してはあまり拘らない質であるので、雑味のない日本食はすぐに美味だと感じるようになった。懐かしい、中国でタコの干物だと思っていたものは日本ではスルメという食べ物だったこと……。

 


 さて今はそれも関係ない。いわゆる現実逃避というやつだ。


 ここは何処だろう。


 辺りを見回す。高い天井、広い部屋。

 ごちゃりと調度が壁や棚にひしめき合っているのは、中国の家庭では一般的な方だが、それがいちいち上等だ。こんなものは、上流家庭でしかあり得ない。



「……」


 首を傾げる。これで三度目だ。

 そういえば、寝ている寝台の布団も柔らかい。

 ふわふわしていて、手触りもよい。

 おかげで熟睡していたのであろう、身体も軽いし、いつもよりすっきりしている。 

 明らかに寮ではない。

 己が置かれた状況についていけずに混乱していると、ベッドサイドの出窓に置いてある時計が目に入った。


 十時五分。


「……は?!」

 

 ぎょっと目を見開く。

 とっくに授業が始まっている時間だ。

 早く大学に行かなければ、とベッドから降りようとした瞬間。


「……うっ……」


 凄まじい重さが彼を襲った。

 重さ。具体的には、胃から腸にかけての、ずしりとした感覚。

 余り覚えのない、けれどなんとなく贅沢な……。

 

「……」


 そして、彼は漸く、思い出すという作業に入った。


 昨夜は、知り合ったばかりの男に連れられて夜の街で食事をした。お詫びに奢るというので、一体何のお詫びだったかよく分からなかったが彼が勧める餐庁に連れて行かれ、けれどメニューがどれもこれも普段食べているものの数倍から数十倍の値段で注文できず、男が頼んでくれたものを平らげた。ひたすら美味だった。何でも美味しく頂く方だが、感動するほど旨いものを食べたのは生まれて初めてだったかもしれない。


 寮の門限を過ぎてしまったので男の家に行くことになって(断ったはずなのだがなぜだか気がついたら男の家の前にいた)、そうすると男の母親が何故か喜んで、深夜だというのに更なる食事でもてなしてくれて、出されたものがこれまた非常に美味でなるべく食べたが、なるべくというが殆ど食べたが、食べているうちに気が遠くなってきて……。


「早上好」

「……っ!」


 突然部屋の戸が開いて、例の男が顔を出した。

 昨日は妙に赤い色のジャケットだったが、部屋着なのだろうか、黒いシャツに灰色のカーディガンというくつろいだ出で立ちだった。地味だが、なんとなくこちらの方がよいと思った。


「大丈夫ですか?」

「……何が」

「食べ過ぎで倒れた人は初めて見ました」

「……」


 顔を引きつらせる。

 やはり、そうだったのか。


「具合は如何ですか?」

「……見ての通りだ」

「昨日は母が盛り上がってしまってすみません。あなたもまた食べるものだから、……止めればよかったですね」

「……出されたものは食べねば失礼だ」

 

 中国では食べきれないほどの量を出してもてなし、食べる方も満足するほどの量を食べたという意思表示で食事を残す、そんな習慣があったが、そういったものも最近は廃れてきている。

 出されたものは、きちんと食べたほうが気持ちがいい。

 貧しい農村で育った彼は食べ物を残すということに非常に抵抗を感じるたちだった。

 

「あれだけ食べてもまだ入るのかと」

「流石に難しかった」

「けれど、母のために気を遣って下さったのですね、ありがとうございます。私はまだあなたのことをよく知らないので、気持ちよく食べる人だなとほのぼの思っていました」


 ほのぼのではなく、はらはら見守って欲しかった。


 そういえば、彼の母は「友人を連れてくるなんて珍しい」といっていた。友人ではないと言おうとしたが彼女があまりに嬉しそうだったのでつい黙ってしまった。

 この男には連れは多そうだが、どういうことなのだろうか。だが興味はないのでその点には触れないことにした。この男は只の他人だ。罰ゲームで己に話しかけてきただけの。


「授業……」

「大学には休むと連絡を入れました」

「……」


 顔を上げる。


「動けないでしょう? 大丈夫、ノートは取って貰っていますから、後でコピーしましょう」

「今からでも」

「大学に着くころには昼の授業です。あなたは朝の授業のほうが大事なのでは?」

「……」 

 

 確かに、今日の午後の授業は既に単位が確定している科目だ。というのも、出席するだけでよい科目で、既に出席数は確保できているからだ。それでも、授業料のことがあるので一応は真面目に出ていた。


「出席も頼んでいますので問題なく」

「は……?」

「勿論あなたの分も」

「……よけ」

「余計とは言わせません。出席日数は大事でしょう? それにあなたなら、ノートのコピーでも授業内容は理解できますよね?」


 ベッドに手をついて男は顔を寄せてくる。端整な顔立ちが迫ってきて、思わず身を引いてしまった。

 笑顔だ。

 だが何故、笑顔なのだ。

 否、笑顔は不思議ではない、何故。

 何故と思う己が、何故。


「……」


 そんなことは分かっている己の頭脳の出来と限界くらい。

 当然の如く知っている。

 

 出席日数、授業内容について、大事な学科のこと。

 だがこの男が己とは全く関係ないこのおとこがなぜしって--


「お昼までには回復しそうですか? 母に粥を作って貰いますが、食べられそうですか?」

「……」


 生まれてこの方、警戒などしたことがない。


 しかも、相手は笑顔だ。

 満面で優しげで。

 柔らかく温もりすら感じる。



「……」


 だから頷くことしかできなかった。


  

 この揺らめきを警鐘を自覚することができなかった故に。 

 









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