AさんとBさん、食堂にて。
AさんとBさん。食堂にて。
出会いは、食堂だった。
「ここ、空いてますか?」
「見てわからないか」
目の前には、先程注文した担々麺と水餃子、ザーサイのスープ。
それらを黙々とかっ込んでいる己の視界に、焼き串の載った皿が現れる。勿論皿は勝手に降ってくるものではないから、誰かが運んできたものに違いない。
が、そんなことはどうでもよかったので食事を続けた。
「え、あ、あの……」
戸惑ったような声が降ってくるが、気にせずに餃子を口に入れる。
餃子はにらと卵入りで、個人的にはアタリだ。普段は大学近くの屋台を利用するが、行きがけに休みであることを確認した。今日は頭を洗った後の髪が凍りつくほど寒いので屋台の焼き小龍包をたらふく食べたかったのだが仕方がない。その隣にかき氷の屋台はあったが、かき氷にはまだ少し早いと思う。あるいは、遅いと思う。遅すぎるのも早すぎるのも、同じ事だと思った。
学食は調理人が当番制で、日によって味が違うし量もまちまちなのであまり利用はしない。そもそも、今のように授業の時間を外せば問題ないが、通常の昼休みなどに訪れれば余りの混雑に食いっぱぐれることだってあるのだ。
「もしもし……?」
担々麺は少し外れだ。ラー油の層が1センチもある。おかげで味が全く分からない。むしろ、痛い。先に餃子を平らげておいてよかった。問題はスープだが、もともと味精(味の素)の香りしかしないので大丈夫だろう。
「あの、ちょっと!」
「……」
流石に無視出来ない声量になってきたので、スープを啜りながら顔を上げる。目の前には、人がいた。
赤い。白い。青い?
「……」
湯気で曇るので外していた眼鏡をかける。
と、相手がはっきり見えた。
「ああ、やっと目が合った……」
心底困り果てて溜息を吐くその人間は、声からも分かっていたが、男だった。
年はたぶん同じくらい。箇所によって長さの違う髪は暗めの茶色で、所によって肩まで届いていた。うっとうしいので切ればいいと思ったが、さすがに初対面の人間に言うのははばかられた。
白のインナーに、猩々緋のジャケット。先程視界に入った青は、ジャケットの模様だ。
記憶が確かならば、時折同じ教室で授業を受けている男のはずだ。普段は取り巻きも多いようだが、何故か今日は一人だった。理由は大体分かっている。
「前、空いていますね。座ってもいいですか?」
「そこは俺の席じゃない」
「はい、ここは公共の場ですからね。では、座ります」
男は目の前に座って、焼き串をかじり始めた。肌は色白で、線が細い。
豚肉の焼き串がとてつもなく似合わなかった。
と、そんなことはどうでもよいので、もう一度眼鏡を外してスープをすする。
案の定、味精の味が強い。餃子は人によって味が違うのに、スープだけは誰が作っても大抵同じ味だ。
「少し、話をしても?」
「罰ゲームか」
面倒くさいので、単刀直入に切り出した。
「え?」
「俺に話しかけてくる人間は大抵、罰ゲームだ」
「……」
図星らしく、男は何とも言えない顔をした。
どうやら己は、賭に使われることが多い。それに気付いたのは大学に入って二年目の夏だ。
しかも、悪い意味で。
麻雀に負けた。飲み勝負で負けた。試験の点数で負けた。
別に種類はどうでもいいが、とにかく賭が行われると、罰ゲームに「あいつに話しかける」というルールになっている。
原因も分かっている。
己には友達がいない。滅多に話さない。
付き合いが苦手。むしろ人が苦手。
目つきが悪い。たまに開けば口も悪い。
上げればきりがないが、そういった性質上、友達という名前だけの付き合いすら、殆どしたことがなかった。
故郷の農村にいたころですらその状態だったというのに、都会に出て大学に入るとその傾向は益々顕著になった。
普通語(標準語)は練習したつもりだが、やはりイントネーションが僅かに違う。長く話せば発音について言外に、あるいはあからさまに馬鹿にされるので益々無口になっていった。
髪は時々散髪に行っているしちゃんと洗うので清潔だが、それでも周りに比べれば多分、こういうのが野暮ったいということになるのだろう。
金がないので冬物と夏物合わせても服は数着しかない。
洗濯はしているが故郷にいた頃から着ているので、色鮮やかな服を好む首都の人間からは、さぞ薄暗く見えることだろう。大学は全寮制で、入学当初はルームメイトがいたが家の事情とやらで退学して、寮でも一人になった。おかげさまで思う存分読書や勉強に集中出来て喜んだほどだ。
積極的に友人を作ろうともしなかった。友人というものがどういうものかよくわからないし、どんないいことがあるのか、あるいは悪いことがあるのか、面倒なのか、そんなものもさっぱりわからなかった。
こんな形で、明らかに田舎の戸籍しか持っていないと丸わかりだったから、当然誰からも話しかけられなかった。
だから大学生活も残り一年半というこんな時期になっても、友人どころか知人もおらず、覚えたのは学院と系の教授の名前くらいだ。
「そうですね、罰ゲームです。だから私はあなたと話さなければなりません」
「……」
顔を上げた。眉を寄せながら眼鏡をかける。
こういう「罰ゲーム」にやってくる人間は、決まって厭そうな顔をして、一言二言勝手に話して去っていくだけだというのに。
タネまで認めて、何故居座っているのだろう。
「話に付き合ってくれますか?」
「付き合う義務はない」
「ですよね。でも飲み勝負に負けたのは私でして。ほら、あそこで見張られているんです」
「……」
男は声を潜めて、視線だけで学食の外を見やった。つられて振り向こうとすれば、
「あっ、見たらだめです。あなたが蹴られますよ」
「別にいい」
と言って、入り口を見る。案の定、数名の学生達と目が合った。
見覚えがあるようなないような。多分同じ教室で授業を受けているのだろうが、名前はさっぱりわからない。
どうやら己は、嫌われ者の類に入るらしい。席が決まっていない授業では大抵、前後左右の席は空いている。廊下を歩いていて人にぶつかられるのもしょっちゅうだ。
「よくありません。あなたが蹴られることは、本意ではありませんから」
「……関係ない」
「うーん、違うな、上手く伝わりませんね」
男は悩むように目を閉じて、眉を寄せた。
食べ終えた串を銜えて、上下にふよふよ泳がせている。
暫く考えても何も出てこないらしいので、もう一度眼鏡を外して麺を食べ始めた。
すっかり冷めていたが、やはり辛い。
麺の器は洗ってあるのかそのまま使っているのか、汚れているので汁は飲まなかった。
再び男が話し出した頃には、昼食は全て腹の中に収まっていた。
「あなたにばれているならば、もうこの罰ゲームは意味がありません」
「そうだな」
「……あなたは怒らないんですか? 他人に罰ゲームの対象にされているんですよ」
「別に」
もう五十八回目だと言ったら、男は流石に呆れたようだ。
「彼らに言って罰ゲームを変えさせましょう」
「そうか」
「嬉しいですか?」
「別に」
「そうですか。でも、あなたに対しては、やめさせます。彼らにとっても、あなたにばれていることは、面白くないでしょうから」
「だろうな」
正直なところ、少し安堵した。
多分一つも傷ついていなかった、し怒る怒らないという境地はもうとっくに通り過ぎていたが、いちいち、大事な食事中に話しかけてこられるのは面倒極まりなかったからだ。それに気分の悪さだけはどうしても生じてしまう。
「ほかの誰にもしないことだ」
「そうさせましょう」
「……」
多分笑っているのだろうが、自分は顔を上げなかったし、あげたところで裸眼なのだからよく見えないはずだ。
「私に感謝しますか?」
「しない」
あとは、この男だ。
この男さえ何処かに行けば、ゲームは終わる。そして、二度と始まらない。それはいいことだ。
周りに誰もいない、誰も来ない、もとの環境に。
静かな生活に戻るだけだ。その事実はほんの僅かに己を慰めた。
「……」
先ほどまでよく動いていた口はふと動きを止めて、男は突然顔を覗き込んできた。
「……?」
「わたしを見てください。……眼鏡、かけてください」
言われて初めて、ずっと俯いていたことに気が付いた。
麺を食べるために外していた眼鏡をかけ、渋々顔を上げる。
「怒らない、といいましたね。でも傷付いては、いましたよね」
まっすぐ切り込まれて、目を見開いた。
「……なっ、……」
「私はそんなに長いこと、あなたが罰ゲームの対象であることを知らなかった」
その声色があまりにも申し訳なさそうだったので。
思わず。
「……だから、……?」
疑問系で返してしまった。
「! 初めて何かを問うてくれましたね!」
すると男はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに笑った。
笑うと思いの外、幼く見える。
流暢で丁寧な普通語が不似合いなほどだ。
「変なゲームに付き合わせてしまって申し訳ないと思っています」
「そうか」
「だから私はあなたにお詫びをしたい」
「いらない」
「何でも先に否定するのは癖ですか? 私は気にしませんが。夜、食べに行きましょう。奢ります」
食べにいく、奢りと言われて一瞬揺らぎかけたが、すぐに首を振った。
今日は授業がみっちり詰まっている。授業が終わると、すぐに寮の門限だ。図書館に行く暇さえ、あるかどうか。
「大丈夫、私は寮生ではないので」
「?」
「家、近所なんです」
「……」
大学は基本的には全寮制だ。
たとえ近所のものであろうと、寮に入る事になっている。
それだけでも驚くべき事なのに、それを免除されて、なお。
「……」
記憶が確かならば、ここは一等地だ。
市内でも有数の権力者か、金持ちしか住んでいないはず。アホみたいに豪華な建物ばかりが連なる地帯なのだ。
「私の家に泊まるということにすれば、大丈夫です」
「……」
「ね? 決まりです。美味しいお店に案内しますから」
「いや、でも……」
「私はあなたに興味があります」
「な……?」
きっぱり放たれた言葉、今度こそ声を失った。
そんなこと言われたのは初めてだ。
男はこちらをじっと見つめてきた。
笑顔の奥で、けれど目は真摯な光をたたえている。
「あなたは、面白そうです」
「そんなことは……」
「ゲームの対象とか、そういうものではないですよ。念のため」
「……」
「私と、友達になりましょう」
「嫌だ」
きっぱり言うと、男は笑った。
なんだか嬉しそうなのがよくわからない。
「言うと思いました、けれど、わたしはあなたと友達になりたい。まずは知人から始めましょう。私の名前は……」
男と話すこの数分間、自分にとっては数ヶ月分の会話であった。
会話に疲労し始めていた脳に、男の言葉は衝撃だった。
衝撃過ぎて、頭が真っ白になった。
白い脳内に色が戻り始めた頃には既に男の姿はなく、携帯番号と思しき数字の羅列が書かれたメモ用紙が一枚、てのひらの中にあった。
ぽつりと、呟く。
「……俺は、携帯を、持っていないんだが……」