この想いは③
そうして。
ブライアンが再訪を約束した日の、夜遅く。
猫の目亭から最後の客が去り、アンジェリカたちの後片付けも終わろうとしていた頃、扉の上につけられた鐘がカランコロンと鳴った。
思わず、ピクンとアンジェリカの背筋が伸びる。
「あ、ブライアン、いらっしゃい」
「やあ、コニー」
「もう火も消しちゃったから、お料理もできないよ?」
彼が何のために来たのかを知っているくせに、ニマニマしながらコニーが言った。アンジェリカが睨み付けても涼しげにそれを受け流している。
ブライアンの方はと言えばいつもと変わらぬ様子で、三日間アンジェリカをさんざん悩ませることになった台詞を残していったことなど、まるでなかったかのようだ。
(もしかして、やっぱり冗談だった?)
窺う眼差しでブライアンのことを見つめていると、目が合って、彼はニコリと笑みを返してきた。それもまたあまりに普段通りで、心中をさっぱり読み取らせない。
ブライアンはアンジェリカからコニーに眼を移し、そして言う。
「ありがとう。でも、今日は食事をしに来たわけじゃないんだ」
「そうなんだ? じゃ、片付けも終わったし、わたしは行くね。おやすみ、アンジー」
「あ、コニー――」
おざなりの遣り取りを交わした後、少々不自然ではなかろうかという唐突さで、コニーはさっさと食堂を出て行ってしまった。
沈黙。
アンジェリカは卓を拭くふりをしてブライアンに背中を向けていたけれど、そこに、ひしひしと彼の視線を感じていた。
彼女は、これまで様々な問題に対峙してきた。
難しかったものもあるし、簡単だったものもある。
けれど、今ほど向き合うことに躊躇したことはなかった。
(時間をかけたところで、仕方がない)
ブライアンという人は、物腰は柔らかいけれどもいったんこうと決めたことをごまかすことはしない。その上岩のように辛抱強いから、アンジェリカが黙り込んだままでいたらきっと朝までだって待つだろう。
アンジェリカは息を一つ吸い込み、吐き出す。一拍置いて、背後に立つ人へと振り返った。
「やあ、アンジェリカ」
屈託なくそう笑いかけられたら、アンジェリカも同じように返さないわけにはいかない。
「……こんばんは」
緊張をはらんだ声で彼女が応えると、ブライアンはゆっくりと歩み寄ってきた。
一歩、二歩、三歩。
手を伸ばせば、届く距離。
そこまで来て、彼は足を止めた。
そうして、ブライアンはジッとアンジェリカを見つめてくる。
残る二人の間の距離は、大股一歩分ほど。それだけあればそんなことはないはずだというのに、アンジェリカは、ブライアンの温もりが伝わってきたような気がして思わず後ずさってしまいそうになった。そこを何とか踏み止まって、彼を見返す。
目と目が合って、ブライアンはふと微笑んだ。
「あなたの言葉をもらいに来たよ」
もちろん、そうだろう。
アンジェリカは一瞬息を詰め、そして吸う。それを、言葉と共に吐き出した。
「私は、この三日間、ずっと考えていたんだ」
「うん」
「ものすごく、考えたんだ」
「うん」
「でも、まだよく解らない」
「そう」
解らないと言った彼女に、ブライアンは同じ調子で頷くだけだ。まるで、自分だけは答えを知っている難題を出す家庭教師か何かのように。
アンジェリカは、顎を上げてブライアンの目を見つめる。
「私には、やっぱり、『愛している』というものがどういうものなのかがよく解らない。ブライアンは、どうして私のことを『愛している』と認識しているんだ?」
「どうしてって……」
ブライアンは目をしばたたかせた。
彼が口をつぐんでいたのはほんの一瞬で、すぐにすらすらと淀みなく語り出す。
「そうだね、最初に惹かれたのはあなたの外見だったかもしれない」
「外見?」
「そう。あまりに綺麗で、まさに天使かと思ったよ。いわゆる、一目惚れって奴かな。チラリと見かけただけで頭の中に焼き付けられてしまった」
彼は過去を探るような眼差しになって、続ける。
「僕はあなたを探したんだ。どうしても、逢いたくて。そして、見つけた。見つけて、驚いたよ。再会した初っ端に、あなたは自分の倍以上はある男をやっつけたんだから」
「それは……幻滅したのでは……?」
「どうして?」
「どうしてって、あなたの周りにいる貴婦人は、そんなことはしないだろう」
「うん、しないね。だから、二度目惚れしたんだ」
ブライアンの返事に、アンジェリカは眉根を寄せる。
「それは、周りにいないから、目新しかっただけでは?」
「新鮮だったのは確かだね。凛としたあなたのことをなお一層綺麗だと思ったし。でも、同時に、あなたにそんなことをさせたくないとも思ったな。僕が、あなたのことを守れるようになりたいって」
そう言って、ブライアンは微笑んだ。
「誰かに対してそんなふうに思ったのは、初めてだったんだ。僕はどうしようもない男で、今まで付き合ってきたじょ――人たちとの関係も、何かしてもらって当たり前、僕が楽しければそれでいい、それだけが大事って奴だった。それで良いと思っていたんだよ」
ブライアンの手が伸び、アンジェリカの銀髪をひと房取る。
「あなたを知れば知るほど、自分に満足できなくなった。僕は、あなたに誇れる男になりたかったんだ。あなたの隣に立てる男に、立つことが許される男になりたくなった。他の女性に対してそんなことを思ったことはなかったのに、あなたには、『スゴイ』と思われたかった――だから、柄にもなく頑張ってみたんだ。僕は昔の自分よりも今の自分の方が遥かに好きだし、この僕にしてくれたのは、アンジェリカ、あなたなんだ」
穏やかな眼差しでそう告げると、ブライアン腰を屈め、手にしたアンジェリカの髪にそっと口付けた。
アンジェリカは、伏せられた彼の金色の睫毛を見るともなしに見て、自分の中にある思いを口にする。
「コニーは、好きな人を独り占めにしたいらしい。ボールドウィン夫人は伯爵の為に何でもしてあげたくなる、と。セレスティア様は、好きな人には笑顔でいて欲しいとおっしゃっていた」
ポツリポツリと、一つ一つを確かめるように語るアンジェリカを、ブライアンが見つめている。その緑柱石のような目を見返しながら、彼女は小さく息を吸い込んだ。
「コニーの気持ちもボールドウィン夫人の気持ちもセレスティア様の気持ちも、私の中にあると思う」
多分、ブライアンがアンジェリカに対して抱いているのと同じ思いも。
アンジェリカと出逢ってブライアンが変わったというならば、彼女もそうだ。
アンジェリカも、以前とは違う彼女になった。
ある部分では弱く。
ある部分では、強く。
――ある種の強さは手放してしまったかもしれないけれど、また別の強さを手に入れたような気がする。
そしてアンジェリカは、変わってしまった今の自分を存外気に入っていた。
「これらの気持ちが『愛している』ということならば、私の中にあるこれも、『愛』なのだろうか。ブライアンもそう思う?」
そうだと、ブライアンの口から言って欲しかった。それは愛だと、彼に断言して欲しかった。そうすれば、間違いのない明確な答えを彼に返せると思った。
けれど、ブライアンは、しばしアンジェリカを見つめてからそっと首を振る。
「あなたの気持ちはあなたのものだよ。僕には決められない」
静かにそう告げ、彼はそれきり口をつぐんでしまった。そうして、包み込むような穏やかな眼差しだけをアンジェリカに注いでくる。
その視線をひしひしと感じながら、アンジェリカは唇を噛む。
「私は……私のこの想いは……」
言葉を探り、目蓋を半ば下げる。次いで再びそれを上げ、真っ直ぐにブライアンを見返した。
「私の中にあるこの想いも、多分、愛なのだと思う」
そう告げた瞬間、ブライアンの口からゆるゆると息が吐き出された。彼はアンジェリカの髪を手放し、両手を握り締める。
しばらくそうしていてから、ためらいがちに問いかけてくる。
「あなたのことを、抱き締めてもいいかな」
もちろん、アンジェリカに否という返事はない。
彼女がコクリと頭を縦に振ると、ブライアンは最後の一歩の距離を詰め、彼女の目のまえに立った。そうして、じれったくなるほどゆっくりと上げた両手を、アンジェリカの背中に回す。最初は触れ合うくらいだったけれども、次第にブライアンの腕に力がこもっていき、いつしかアンジェリカは彼の胸にピタリと全身を押し付けていた。
ずいぶんと速いように思われるブライアンの鼓動が、頬に感じられる。それに耳を傾けているアンジェリカの中に、ふわりと一言浮いてきた。
(幸せだ)
と、まるでそれが伝わったかのように、頭の上から声がする。
「幸せ過ぎて、死にそう」
それはすんなり耳から心へ受け入れたが、続く言葉にアンジェリカはピクリと反応する。
「もう、いつ死んでもいい」
彼女は窮屈な中で精一杯首を反らせ、ブライアンを見上げる。
「死なれたら、困る。これから先もずっと傍にいてくれるのだろう?」
至極真面目な、至極真剣な気持ちからの言葉だったというのに、彼は一つ二つ瞬きをしてからヘラリと笑った。
「ああ、うん、そうだね。これからもずっとね」
ブライアンはそう言うとアンジェリカの後ろ頭に片方の手を添え、もう片方の腕を彼女の腰に回して、全身で彼女の身体を包み込む。その腕には、それまで以上の力が込められていて。
少しばかり苦しいなと思いつつ、けれども解放はされたくなくて、アンジェリカは彼の胸に頬を寄せ、その腕に身を委ねた。




