頼れる天使は独立独歩②
「あなたはこんなところに入り浸っていてもいいのか?」
種類や銘柄はよくわからない、だが、とにかく『酒』ではある猫の目亭自慢の飲み物を持ってきてくれたアンジェリカが、それをブライアンの前に置きながら言った。
彼女の眼差しにはいつもの一割増し程度で冷やかさが滲んでいるように見えないこともないが、ブライアンは笑顔と共に礼を返す。
「ありがとう」
アンジェリカは一瞬間を置いて、また続けた。
「貴族は、夜は毎晩と言っていいほど何かの集まりがあるのだろう? それに出なくてもいいのか?」
貴族の生活とは全く無関係だろう彼女にそんなことを言われて、ブライアンはグラスを口に運びかけていた手を止める。
確かに、上流階級の者の多くは、夕から始まる舞踏会やら何やらに精を出す。建前上は『社交の為』ではあるのだが、実際は飲んで踊ってさして意味のない会話を繰り広げているだけだ。その中でそれぞれ家名に相応しい結婚相手をみつけ、跡継ぎをもうけ、社会構造を維持していく為のもの。
ブライアンとてその枠組みにはめ込まれている一人なのだが、まあ、焦らずともよいだろう。放っておけば、そのうち両親がしびれを切らして適当な相手を見繕ってくるだろうだから。
眉根を寄せている彼女に、ブライアンは頷く。
「いいんだよ、別に出なくちゃいけないものではないからね。そう、大したものでもないし」
「しかし、それなら、他にすることはあるだろう。ほとんど一日、ここにいるじゃないか」
今度ははっきり呆れ混じりの声でアンジェリカが指摘した。
「他にすることなんて――」
ブライアンは笑いかけ、ふと眉をひそめる。例のボヤ騒ぎから昼だけでなく夜も足を運ぶようになったのだが。
「ああ、すまない。もしかして迷惑だった?」
猫の目亭は仕事の合間で食べに来る人が多いらしく、客の回転が速い。延々居座り続けるブライアンは場所取りなのかもしれない。
「別に、迷惑、というわけではないが……」
彼の懸念を、アンジェリカは一応否定してくれた。が、その後がある。
「あなたは毎日、時間を無駄にしていないか? ここで何もしていないだろう。貴族は別に仕事をする必要はないらしいが、それなりに何かすることがあるのではないのか?」
言われて、ブライアンは目をしばたたかせる。それからヘラリと笑った。
「特にないよ。領地の管理は任せている人がいるし、僕が下手に手を出したら邪魔ってものだよ。屋敷の中は執事が完璧に取り仕切ってくれているしね。それより、君のことが心配なんだ。ほら、三日前あんなこともあったし」
「あんなこと? ……ああ、壁が焦げたことか。だから、ああいうことは良くあることだと言っただろう。別に気にする必要はないし、そもそも、あなたが私のことを心配する必要などない。第一、あなたがいて何がどうなるわけでもなかろう」
相変わらず、天使はズバズバ容赦がない。
「まあ、そうなんだけど……僕が見ていない所で何かあったらと思うと気が休まらないんだよ」
取って置きの微笑みと共にそう答えたが、アンジェリカの冷ややかな眼差しは全く変わらない。と思ったら、何故かため息をつかれた。
「あなたには、何かあなたがするべきことがあるはずだ。こんなところで無為に時間を浪費する他に」
重ねて言われて、ブライアンはまたヘラッと笑みを返す。
「だから、そんなのないって。唯一僕の義務はと言えば、ラザフォード家の跡継ぎを作ることだし。まあ、それは追々ね」
半分冗談、半分本気でそう答えれば、返ってきたのは沈黙だ。
「……それは、『あなたが』するべきことではないだろう」
「え?」
ブライアンは目をしばたたかせた。そんな彼に、アンジェリカは静謐な菫色の眼差しを真っ直ぐに向けてくる。
「それは『ラザフォード家の跡継ぎ』がするべきことであって、『ブライアン・ラザフォード』がするべきことではないだろう。あなたという個人が為したいこと、為すべきことは何かないのか?」
凛とした声、眼差し。類稀なその色と逃げを赦さないその鋭さに、ブライアンは縫い留められる。
「え……僕、が……?」
しどろもどろに口ごもったブライアンをアンジェリカは一瞬たりとも揺らがぬ視線で貫いたまま、また口を開いた。
「あなたがここにいたいと望んでいるのなら、それならそれで良い。そこに何か『意志』があるのなら。だが、他にすることもないから、というのなら、もう来ないで欲しい」
感情を露わにすることなく静かに突きつけられた言葉は、激昂した声よりも鋭くブライアンに突き刺さった。
「僕は、ここにいたいと思うから来ているんだよ?」
「それは、何故? 何の為に?」
何の為。
――君に、逢う為。
では、それはどうしてだろう。
ブライアンは、そこで行き止まりにぶち当たった。
自分でもよく解からないのだから、当然、アンジェリカに答えを返せるわけがない。
彼はふらりと立ち上がる。
「また――」
来るよ。
そう言いかけて、舌を止めた。
自分にそれが許されるのか判らなくなったからだ。
ブライアンはアンジェリカを見つめた。
銀色の髪、菫色の瞳。
毎日目にしていてもまだ現実のものとは思えないほど可憐で優美なその姿。
彼よりも遥かに華奢で小柄なはずなのに、背筋をピンと伸ばして立つ彼女は、決して『小さく』は見えない。
彼女を見ていると、無性に胸の奥が熱くなる。炎で炙られるようにジリジリとして、息が詰まる。
きっと、単純に、その美しさに感動を覚えるからだ。素晴らしい芸術品を見た時と、同じように。
――だが、果たして外見の美だけの問題なのだろうか。
ならば、美女が描かれた絵画でも構わないはず。麗しく妖艶な美女を写した絵画彫刻はあちらこちらに溢れている。ただ美しいものを愛でたいだけならば、日替わりで、様々な『絶世の美女』を楽しむことだってできる。
(それなのに、どうして、僕はここに通うのだろう)
「ラザフォードさん?」
銀の鈴が転がるような声で呼ばれた彼の名前が、よそよそしく響く。何故か、その呼び方に、ブライアンの胸はチクリと痛んだ。
彼を見上げてくる菫色の瞳が、微かに困惑の色を帯びた。
髪と同じ銀色をしたけぶるような睫毛が、はためく。
「あなたに、来て欲しくないというわけではないんだ。あなたが鬱陶しいとか邪魔だとか、そういうわけではない。ただ――」
「うん、いいんだ、アンジェリカ」
それ以上アンジェリカの言葉を耳にしたら余計に頭の中が混乱しそうで、ブライアンは強張る笑顔でごまかしながら彼女を遮った。
「ラザ――」
「今日は帰るよ」
また来るとは、言えなかった。来られるかどうか、判らなかったから。
店内の喧騒を遠い世界のもののように耳に入れながら、ブライアンは出口へと向かう。扉に手をかけたところで未練がましく振り返ると、彼が座っていた机、さっきと一歩たりとも変わらぬ位置に佇むアンジェリカが、ジッと彼を見つめていた。