同じじゃない
ある日の午後、猫の目亭で、ブライアンはブラッド・デッカーとかち合った。
というよりも、アンジェリカとデッカーが何やら言い合っているところに鉢合わせたと言った方が正しい。
猫の目亭の扉を開けてブライアンが真っ先に探すのはアンジェリカの姿だ。いつものように、まるで光を放っているかのようにすぐさま目に飛び込んできた彼女に、今日は余計なものもくっついていた。デッカーという、余計なものが。
もう昼食時も終わりかけで、その三人以外に人の姿はない。
アンジェリカは入り口に背を向けていて、ブライアンに気付いていなかった。扉の上に付けられているベルの音は聞こえているはずだ。それにも振り返らないということは、よほど大事な話をしているということか。
ブライアンはやけに近い距離間の二人を横目で見ながら席に着く。
その二人の間に、相変わらず甘さというものは微塵も感じられない。
が、なんというか、とても、『対等』だ。
それが、いつだってブライアンの心に引っかかる。
アンジェリカは、デッカーに見せる顔を、ブライアンには見せない。
同じように、彼女にはブライアンだけに見せる顔もあるということを、今ではよく解っている――解っているが、やはり嫉妬を禁じ得ないのだ。
それからさほど間を置かずに話し合いは終わったらしく、アンジェリカがデッカーに背を向けた。と、ようやく彼女の目がブライアンに向く。
アンジェリカはデッカーをそこに残して彼のもとにやってきた。少々、ブライアンの胸がすく。
「いらっしゃい」
彼女の態度は給仕そのものだ。
だが、しかし。
(他の客に対するのとは、ちょっと違う、よな?)
他の客よりも少しばかり表情が柔らかく、声は温かい――と思いたい。
そんなことを考えつつ、ブライアンは注文を伝える。
「いつものを頼むよ」
いつもの、とは、主人おススメの日替わり定食だ。
「今日はいい肉が入っている」
「それは楽しみだ」
ブライアンがそう答えると、アンジェリカは微かに口元をほころばせた。最近頻繁に見せてくれるようになった、柔らかな表情だ。
(ほら、こういうのは、『特別』だろう?)
きっとデッカーには与えていない、ブライアンだけのものだ。
注文を厨房に伝えに行くアンジェリカの背中を見守ってからブライアンは鞄を開けて、中から午後に議会で行う演説の原稿を取り出した。と、最後の確認で軽く目を通す彼の向かいの椅子が、音を立てる
なんだろう、と目を上げると、そこに座っていたのはデッカーだった。
「……やあ」
ブライアンは原稿を置き、デッカーに笑いかける。だが、彼はにこりともしなかった。
いつも生真面目な顔が、今日は仏頂面と言ってもいいほどだ。
しばらく、ブライアンの顔を睨み付けるように見据えた後。
「アンジェリカのことを、どうするつもりですか」
前置きなく、デッカーが切り出した。
「どうって?」
「本気ですか」
ブライアンは真っ直ぐに見つめてくるデッカーの眼差しを、同じように真っ直ぐ、見つめ返した。
「もちろん、これ以上はないというほど、本気だよ」
デッカーの眉間の溝が、わずかに深くなった。
「二人の間にある、様々な隔たりについては、考えましたか」
「ああ」
デッカーは唇を引き結び、微かに目をすがめた。
短いとは言えない時間、そうしてから。
彼は立ち上がった。
その動きを見守っていたブライアンを、デッカーが見下ろす。
「彼女を傷付けることだけは、しないで欲しい」
それは、静かな声での懇請だった。
彼は鋭い眼差しを投げかけ、ブライアンの返事を待たずに踵を返す。
「そうだね、それは僕も一番望まないことだよ」
扉の向こうに消えようとしている広い背中に向けて、ブライアンはそうつぶやいた。
その声が消えるかどうかというところで、彼の前に料理を乗せた盆が置かれる。見上げると、アンジェリカが不思議そうな顔をしていた。
「何を望まないんだ?」
「アンジェリカ。……おいしそうだね」
にっこり笑ってそう答えると、アンジェリカはムッと眉根を寄せる。
「ブラッドと話をしていたみたいだが」
「ああ、うん。ちょっと将来についてね」
「ブラッドと?」
「そう」
また、にっこり。
「……」
アンジェリカは納得がいっていなそうだったが、それ以上の追及は諦めたらしい。
「冷めないうちに食べて」
そう残して離れていこうとしたアンジェリカの手を、ブライアンは何か考えるよりも先に捉えていた。
アンジェリカが、自分を捕まえているブライアンの手を見つめ、それから彼の顔を見つめる。
「ブライアン?」
いぶかしげな彼女に、ブライアンは取り敢えず思い付いたことを口にする。
「えっと……デッカーはいい奴だよね」
「? ああ。そうだな、いい男だ」
いい男。
何だか、耳に馴染んだ言葉だ。
ブライアンは何かモヤモヤとしたものを胸に抱く。
「デッカーは、イイ男?」
「ああ」
コクリとうなずくアンジェリカ。
「僕も、イイ人、なんだよね?」
それは、これまで散々彼女から聞かされたブライアンへの評価だ。
(デッカーも僕も『イイ人』ってことは、二人とも同列だっていうことなのか?)
それはとても望ましくないことのような気がする。
「僕とデッカーは同じ、か」
無意識のうちに胸の中の不満が口に出てしまっていたらしい。だが、そのつぶやきを聞きつけたアンジェリカは、彼以上に眉根を寄せて何やら考え込んでいる。
「アンジェリカ?」
呼びかけると、彼女は難しい顔のままブライアンに目を向けた。
「同じではないな」
「え?」
「ブライアンとブラッドは、同じではないな」
「どういう意味だい?」
眉をひそめて問いかけると、しばらく黙り込んだ後、アンジェリカは言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話し始める。
「二人とも友人だと思うのだけれども、何かが違う」
「どう違うの?」
不安半分、期待半分でブライアンは水を向けた。
「別に、ブラッドに傍にいて欲しいとは思わない。頼りになるし、いい同志だと思うけれど、特に用がなければ会う必要は感じない」
期待の方に、針が触れる。
「つまり、僕には用がなくても会いたいと思うってこと?」
問いかけると、アンジェリカは困惑したように幾度か瞬きをした。
「そう……そう言われれば、そうだな」
どうしてだろう、と言わんばかりの顔だ。
ブライアンはじんわりと込み上げてきた喜びを噛み締める。だが、彼女の内省はそこで終わらなかった。
「それに、ブラッドには触られても何も感じない」
淡々と告げられたその台詞に、ブライアンは目をしばたたかせる。
「それって僕に触られるのが嫌だってこと?」
「違う。別に、どちらからも、触られて嫌なわけではない。でも、ブラッドには何も感じないから」
「つまり……?」
「ブライアンだと、触られるとなんとなくここの辺りが温かくなる気がする」
そう答えて、アンジェリカは自分の胸の辺りを手で示した。
ブライアンは胸の中で彼女の台詞を反芻する。
触れられるのは、嫌じゃない。
(ていうか、それって、嫌じゃないどころか……)
七割方の確信を持って、ブライアンは両手を伸ばしてアンジェリカの手を取った。
「これは、嫌じゃない?」
彼女がかぶりを振る。
ブライアンはその手を引き寄せ、唇に寄せる。繊細な指の節に口付けてから、問う。
「これも、嫌じゃない?」
また、同じ反応が。
彼の胸中にある秤の針は完全に期待の方に振り切って、否応なしに高鳴った。声を潜めて、囁くように訊ねる。
「じゃあ、抱き締めるのは……?」
「それも、嫌ではない……ブライアン?」
静かに立ち上がったブライアンを、アンジェリカは小首をかしげて見上げてきた。彼は繊手をもう一度唇に触れさせながら、問いかける。
「今、抱き締めてもいいかな?」
「今?」
ほんの少し戸惑いがちに、アンジェリカが繰り返した。そんな彼女に、ブライアンは深く頷く。
「そう、今」
しばしの沈黙。
そして。
「わかった」
「……いいの?」
「構わない」
ブライアンを真っ直ぐに見つめ、アンジェリカが同意した。
まるで任務か何かでの承諾のようだが、構わない。
彼は両腕を伸ばしてアンジェリカを引き寄せる。
腕の中に包み込んだ彼女の背中に広げた両手を当てて、華奢な身体を自分の胸に寄り添わせた。さらにその手をゆっくりと滑らせ、片手ですっぽり包み込めてしまううなじと、優美な曲線を描く腰に落ち着かせる。
ブライアンの腕の中で、アンジェリカが小さな吐息を漏らした。
嫌悪ではなく、寛ぎの、吐息だ。
それを胸元に感じながら、ブライアンはしみじみと思った。
(今すぐ死んでもいい)
というよりも、すでに死んで天国に来てしまっているのかもしれない。
そう思ってしまうほどの、心地良さだった。
ブライアンは、つややかな銀の髪が流れる頭に、頬を寄せる。信じられないほど滑らかな感触と、鼻腔をくすぐる甘い花の香。自ずと彼の腕に力がこもっても、アンジェリカはしなやかにその身を委ねてくれている。
――至福の時は、厨房から出てきたコニーが頓狂な声を上げるまで、続いたのだった。




