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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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エピローグ:そして、二人で歩き出す

 アンジェリカたちがロンディウムに戻ってから、三日が過ぎた。

 彼女が留守にしていた間に溜め込まれていた雑事も片付き、ようやく、ひと息つけるようになったところだ。

 昼食時の喧騒も過ぎ去り、アンジェリカとコニーは遅めの賄いを摂っていた。この三日間、少しの時間があればアンジェリカは外のことを処理しに行っていたから、こうやって二人きりで食べるのも、王都に帰ってきてから初めてだ。


 昼休憩でトッド夫妻は上の階に引き取っており、店内にはアンジェリカたちだけ。

 いつもなら、どうやって咀嚼しているのだろうと首をかしげるほどに良くしゃべるコニーが、今日は一言も発していない。

 どうしたのだろうと内心首を傾げつつ、アンジェリカも自分の食事を口に運ぶ。


 黙々と食事を進めていたコニーがアンジェリカよりもだいぶ早く最後のひと口を食べ終え、皿をわきによける。アンジェリカが視線を上げると目が合って、彼女はニッコリと笑顔になった。


「で、ほぼ一ヶ月ブライアンと一緒にいたわけだけど、何か進展あった?」

 卓の上に肘をつき、身を乗り出すようにして訊いてきたコニーの目は、何だかやけにキラキラと輝いている。


 アンジェリカは口の中にあるものをモグモグゴクンと呑み込み、彼女を見つめ返した。

「進展?」

「そう、進展。ブライアンとの関係っていうかさぁ。まあ、ガブリエルも一緒だったんだから、ブライアンもたいしたことはできなかったと思うけど?」

 そう言って、背もたれにもたれてコニーは肩をすくめた。その口調にはどことなくブライアンを侮っているような雰囲気があって、アンジェリカはムッと眉間にしわを寄せる。


「そんなことはない、彼はとても色々してくれた」

「え、ホント?」

 コニーが、バッと再び前のめりになった。

「ナニ? ナニしてきたの、ブライアンってば?」

 ずいぶんと彼女の鼻息が荒い。

 何をそんなに興奮しているのかと思いながら、アンジェリカは答える。


「たくさん助けてもらった」

「助けて?」

「そう。だから、私も考え方を変えることにしたんだ。今まで、一人でことを解決しようとしてきたけれど、これからは人の助けを積極的に得て――」


「ちょっと待って、わたしが聴きたいのはそういうことじゃない」

 スパッと遮られ、アンジェリカは眉をひそめた。

「コニー?」

「そういうんじゃなくて、ほら、もっとさぁ」

 コニーはじれったそうにしているけれど、彼女が言わんとしていることがさっぱり判らないアンジェリカはもっとじれったい。


「すまない、コニーが何を言いたいのか、全然判らない」

 首をかしげてそう言えば、コニーは髪を掻きむしらんばかりになった。

「だから! ブライアンって、客観的に見ればイイ男でしょ?」

「ああ、そうだな」

 確かに、いい人だ。

 うなずくアンジェリカに、コニーが勢いづく。と、そこで、扉の上についているベルがカランと鳴った。

「だったらさ、ブライアンのこと恋人にとかって、考えたことないの?」

 誰かが入って来たな、と思いつつアンジェリカは振り返る前にコニーに答える。


「それはないな」


 途端、コニーが固まった。けれど、その眼はアンジェリカではなく彼女の背後に注がれている。


「コニー? どうかした?」

「え……あ――ッと、なんか、その、ごめんね、ブライアン。あ、そうだ。わたし、食器洗ってくるから」

 そう言って、彼女はまだ食べ終えていないアンジェリカの皿も持って、そそくさと厨房の方へ行ってしまった。


(ブライアン?)

 一人残されたアンジェリカは、コニーが口にしたその名に振り返る。

 確かに、そこには彼がいた。

 アンジェリカと同様、ブライアンも色々とすることが溜まっていたのだろう、ロンディウムに戻った日、猫の目亭の前で別れてから、彼がここに来たのは初めてだ。


「久しぶり、ブライアン。家の方は片付いたか?」

 椅子から立ち上がり、ブライアンに向き直ってそう訊ねたけれども、彼からの返事はない。というより、彼は戸口から二歩ほど進んだところで固まっている。


「ブライアン?」

 どうしたのだろうと眉をひそめて呼びかけると、彼は一つ二つ瞬きをした。金縛りからは解放されたらしい。が、その表情はまだ強張っていた。


 アンジェリカは彼の下に行き、うつむき加減の彼の顔を覗き込む。身長差があるので、やりやすい。

「大丈夫か、ブライアン? 疲れている?」

 案じる彼女をブライアンは無言で見つめ返し、そしてヘラッと笑った。

「うん、大丈夫。疲れてはないよ、疲れては……」


 口から発する言葉とは裏腹に、声も表情も、どこからどう見ても疲れ切っているとしか思えない。


「でも、顔色も優れないし」

「いや、身体は問題ないから。全然」

 そうは言ってもいつものように笑っていないブライアンは違和感満載で、なんというか、望ましくない。

「問題はないのにそんな顔をしているのはおかしいと思う」

 更に追求し、アンジェリカはジッとブライアンを見つめる。と、アンジェリカのその視線から逃れようとするかのように彼の目が泳ぎ、次いで、天を仰いだ。


「ブライアン?」

 呼んでも、反応がない。

 彼はしばらくそうしていたかと思うと、不意に勢いよく頭を戻してきた。そして妙に切羽詰まった――鬼気迫るといってもいいような眼差しを、アンジェリカに注ぐ。


「アンジェリカ」


 気合が満ち満ちた声で呼ばれて、彼女は目をしばたたかせる。アンジェリカが答えるより先に、ブライアンがまた口を開いた。

「その、あの時あなたが言ったことって、どのくらい記憶に残っているのかな」

 まるで、その質問に対するアンジェリカの答えで彼の人生が決まると言わんばかりの声音だ。そのあまりの真剣さに、彼女は首をかしげて繰り返す。

「あの時?」

「そう、ほら、馬車から飛び下りて、僕の腕の中で……」

 不安そうな眼差しで窺ってくるブライアンに、アンジェリカは束の間考え、うなずく。

「ああ。恐らく、口にしたことはほとんど記憶にあると思う」

 ディアドラの薬のせいでかなり変な気分にはなっていたものの、眠りに落ちてしまうまでは割と記憶はしっかりしている。


 アンジェリカの返答に、ブライアンはまるで氷が張った湖に踏み出すような面持ちになった。

「えっと、じゃあ、僕に対してつれない態度を取っていた理由っていうのは?」

「覚えている」

「これからは僕とか他の者の手を借りると言ったのは?」

「覚えている」

「そばにいてくれてありがとうって、言ってくれたのは?」

「覚えている」

 立て続けに問いを投げてよこしたブライアンは、そこで束の間口ごもった。言おうかどうしようか迷うような素振りを見せてから、彼は続ける。

 まさに恐る恐るという風情で。


「――じゃあ、ね、じゃあ、僕に、ずっと傍にいて欲しい、と言ってくれたことは……?」

 アンジェリカは記憶を手繰った。


(どうだろう、それは言葉にしただろうか)


 すぐに返事をすることができなかったからか、ブライアンの肩が下がった。まるで関節が外れたかのようだ。あまりの落胆ぶりに、思わずアンジェリカは彼に手を伸ばす。

 ブライアンの腕に触れ、覗き込むようにして彼と目を合わした。

「すまない、ブライアン。それは覚えていない」

 正直にそう告げると、ブライアンは小さく息を呑み、そして吐き出した。


「そっか……そう……覚えていないんだ……」

 更に低くなった彼の肩を見つめながら、アンジェリカは続ける。

「でも、そう思っていることは事実だ」

 その瞬間、今度は、カクンとブライアンの顎が落ちた。


「え?」


 自分が耳にしたことが信じられないという顔の彼に、アンジェリカは再び告げる。

「私は、ブライアンに傍にいて欲しい。ずっと」

 彼女の言葉が彼の頭の中をグルグル回転しているのが目に見えるようだ。

 多分それが三回くらい廻ったあたりで、ブライアンが瞬きをする。

「えっと、アンジェリカ。あなたは今、僕と一生一緒にいたいって……?」

 一生とは言っていないけれども、意味としてはその通りであることには違いない。

 うなずいたアンジェリカに、ブライアンの顔がみるみる輝き出す。まるで、特大の骨付き肉をもらった犬さながらに。


 本当に、ブライアンの心の中は透けて見えるようだ。


 その輝く顔のまま、彼はアンジェリカの左手を両手で包み込んできた。そちらに気を取られた彼女だったけれど、柔らかな声で名を呼ばれてまた顔を上げる。


「アンジェリカ」

 ブライアンは真摯な輝きを放つ新緑の瞳で彼女を真っ直ぐに見つめてきた。視線を絡め合わせてからたっぷり呼吸三回分ほどの間を置いて、彼は続ける。


「あなたがそう言ってくれるのなら、僕にひとつ提案があるんだ」

「提案? どんな?」

 アンジェリカは小首をかしげた。ブライアンの望みなら、可能な限り、応じたい。

 彼はアンジェリカと目を合わせたまま包み込んでいた彼女の手をさらに持ち上げ、恭しいと言ってもいいような仕草で、その指の背に口付けた。

 普段あまりアンジェリカに触れようとしないブライアンのらしくない唐突な行動に、彼女は大きくひとつ瞬きをする。

 そんなアンジェリカを真っ直ぐに見つめて、ブライアンは口を開いた。


「僕の妻になってくれないかな」


 アンジェリカは、また、瞬きをした。


(――……妻……?)


 何か、訊き間違えたのだろうか。話の流れとして、非常にそぐわない単語を耳にした気がするが。

 身じろぎ一つしないアンジェリカに、ブライアンの輝きがやや落ちる。


「えっと……アンジェリカ?」

 彼女は無言で彼を見返した。

 黙ったまままじまじと見つめるアンジェリカに、ブライアンの目の中に焦りのようなものがよぎった。


「えっと、その、ほら、アレだよ」

 彼は口ごもり、そして、ハタと何かを思いついたようだ。

「あのさ、ウォーレン・シェフィールドは、人のものには興味がないと言ったんだよね?」

 ようやくブライアンが答えられることを言ってくれた。

 アンジェリカがこくりとうなずくと、彼は少し勢いを増して、続ける。

「ほら、だったら、あなたが僕の妻になったら、もう狙われないじゃないか。そうでもしないと、いつまで経っても安心できないだろう?」

 その後も、ブライアンは安全のためだとかなんとか、言い足している。


 そんな彼を、アンジェリカは口をつぐんだままジッと見つめ続けた。すると、次第に声が落ちていく。


 ブライアンが完全に沈黙するのを待って、アンジェリカは口を開いた。

「結婚とは、そんな理由でするものではないだろう」

 咎めるように、諭すように、彼女は言った。なんだか、ブライアンに裏切られたような心持で。


 仲睦まじい両親やトッド夫妻を見ていたから、夫婦の絆とは、愛情と尊敬とで結ばれるべきだとアンジェリカは思っている。夫婦というのは、出逢いと別れを繰り返す男女の間柄の中で、際立って貴重で特別な関係であるのだと。

 ブライアンはアンジェリカに対して好意は抱いてくれていると思うけれど、いわゆる恋愛感情は抱いていないはずだ。彼女に対する彼の態度は、街中でよく見かける『恋人に対する男性のもの』とは明らかに違う。もっとも、それは彼女の方も同じで、ブライアンのことは大切な存在だとは思うけれども、愛しているかと言われたら、判らないとしか答えようがない。そもそも、彼女には愛というのがどういうものなのかがピンとこなかった。


 そんな二人が結婚なんてするべきではないし、アンジェリカを守るためなどという理由では、彼女はともかく、ブライアンは幸せになれないだろう。それは、アンジェリカには許容できない。


 キッとブライアンを見上げたアンジェリカに、束の間、彼の目が泳ぐ。


 ブライアンは何かを言いかけ、口を閉じ、また開いた。そうして、何やら決死の覚悟という風情で、言葉を吐き出す。

「じゃあ、じゃあ、さ。僕があなたを愛しているからだと言ったら、どうかな? 僕が、あなたに傍にいて欲しいからだと、言ったら?」

 声はためらいがちでも、彼のその眼差しは真剣そのもののように見えた。けれどきっと、それはアンジェリカを説得したいが故の台詞に違いない。


「ブライアン、そういう――」

 ことは軽々しく言ってはいけない、アンジェリカは、そう続けようとした。


 が。


 突如ブライアンの背後から手が伸びてきて、金髪の頭を鷲摑みにする。

「ヒッ!? 痛ッ!? 痛、痛い!?」

 その手の指の関節の白さとブライアンが挙げた悲鳴で、それは単に彼の頭の上に置かれているというだけではないということが見て取れた。


 ブライアンの頭を締め付けているその手の持ち主は、もちろん――

「兄さま。いったい、いつ入ってこられたのですか?」

 扉が開く音も、その上のベルが鳴る音も、聞こえなかった。


 ブライアンの陰から顔を覗かせたガブリエルは、今もブライアンに悲鳴を上げさせているとは思えないほど朗らかに、アンジェリカにニコリと笑いかける。

「少し前からかな。そう、彼が妻――とかなんとかいう言葉を口にしたあたり」

「い、痛いって!」

 またひときわ高く声を上げたブライアンの耳元で、笑顔のまま、ガブリエルが囁く。

「いい度胸をしているな? アンジェリカを手に入れたければ、まずは私を乗り越えろと言っておいただろう?」

 それはひそひそとした小さな声であったけれども、静かな店内ではアンジェリカの耳にも届く。


「お言葉ですが、兄さま。彼を友人とするのに兄さまの許可が必要だとは思いません」

「「友人?」」

 その瞬間、ブライアンとガブリエルの声が綺麗に重なった。

 前者は悲痛な、後者は喜ばしげな響きを持って。


 ガブリエルはまじまじとアンジェリカを見つめ、そして、パッとブライアンを手放した。へなへなとその場にへたり込んだ彼に一瞥をくれることもなく、彼女に微笑む。

「よかろう、では、今すぐ試してやろうではないか――彼を君の友人として認めるために」

 言うなり、ガブリエルはブライアンの襟首をつかんで外に引きずっていこうとする。

「兄さま、私の話を――」

 呼び止めるアンジェリカに、ガブリエルは肩越しに振り返ってかぶりを振ってよこした。

「ここは譲れないよ。私に勝てない程度では、君を守ることなどできないからね。友人として、傍にいるならば、君を守れるくらいでなければ」

 友人として、のところにやけに力を入れてそう言うと、彼は戸口に向かって歩き出す。


「兄さま、お待ちを」

 ガブリエルが再び振り返る。

「兄さまと彼とでは、力の差があり過ぎます」

 ブライアンは、確かに強くなった。けれど、流石にガブリエル相手では到底勝ち目はない。どうしてか、兄はブライアンのことをあまり好きではないようだし、彼を負かして、それを理由にアンジェリカと会うことさえも禁じかねない。


 アンジェリカは、真っ直ぐに兄を見つめる。

 彼女に向けるそのおもてに浮かんでいるのは柔らかな笑みでも、ガブリエルの意志は決して柔らかくない。彼が描いた線を緩めることはないだろう。

 アンジェリカは束の間思案し、口を開く。


「私は、ブライアンから、一人で成し遂げられないことは誰かの力を借りたらいいのだと教わりました。確かに、その通りだと思います。だから私はブライアンの力を借りようと思いましたし、私もブライアンに力を貸したいと思います」

「アンジェリカ、君は……」

 わずかに見開かれたその目には、微かとはいえ驚きの光があった。

 アンジェリカは彼を真っ直ぐに見返し、言葉を継ぐ。

「兄さまが問題にしているのは、私を守り切れるかということですよね? ですが、私はブライアン一人に戦わせるつもりはありません。でしたら、ブライアン一人では敵わない相手でも、私が共に戦うことで勝てるなら、それでいいと思います」


 ガブリエルの眼が、ブライアンに、そしてアンジェリカに向けられる。彼は妹の中に何かを見出したように、きらりとその目を光らせた。


「なるほどな、一理ある。判った、では、君の加勢を良しとしよう。だが、手加減は一切なしだからな」

 そう言ってガブリエルはブライアンの襟首を手放すと、先に立って店を出て行く。


 静けさを取り戻した店内で、アンジェリカはまだ床に尻餅をついているブライアンの下へ行き、手を差し伸べた。

「さあ行こう、ブライアン」


 彼はその手とアンジェリカの顔との間で目を行き来させる。そうして、小さく吐息をこぼした。

「こんなはずでは……」

 それは小さなつぶやきで、アンジェリカははっきりと聞き取ることができなかった。


「ブライアン、今、何て?」

 問い返した彼女に、ブライアンはかぶりを振る。

「いや、何でもないよ。まあ、明らかに、前進はしているんだし。いつかは目的地に辿り着くさ」

「何の話?」

 小首をかしげたアンジェリカに、ブライアンが金の花が咲くような笑みを投げかける。


「私とあなたの、未来の話だよ」


 そう言って彼はアンジェリカの手を取り立ち上がった。

「さあ、それじゃあ難攻不落の鉄壁に挑みに行くとするか――二人で、一緒に」

 首をかしげるようにしておどけた口調で誘うブライアンを、アンジェリカは瞬きを一つして見返す。


 そうして、頷いた。


「ああ、行こう」


 ふわりと、込み上げるようにして浮かんできた、笑顔と共に。


 刹那大きく息を呑んだブライアンの手を引いて、アンジェリカは外で待つ兄の下へと駆け出した。


 ――ブライアンがアンジェリカの友人としてガブリエルの信を得られるのは、まだもう少し先の話。

ひとまず、本編はおしまいです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

そのうち、SSを追加する予定です。

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