惑いの先に④
ぐらつき風に煽られてバタバタと揺れていた扉は、束の間そこにぶら下がっていたけれど、すぐに疾走する馬車の振動に耐え切れず外れ落ちる。
よりはっきりと聞こえるようになった外の音の中に、馬車を引く二頭の馬のものとは違う律動の蹄の音が聞こえた。
そして、更に。
「アンジェリカ!」
彼女を呼ばわる声。
次いで乗降口に姿を現したのは、馬上のブライアン。
彼は右手に銃を持ち、ほんの少しでも手綱さばきを誤れば一瞬にして弾き飛ばされてしまうだろうという距離で、馬車にピタリと並んで馬を走らせていた。
ブライアンは出会って以来見たことがない険しい顔をしていたけれど、それが、アンジェリカを認めると同時にパッと輝く。
「アンジェリカ、無事かい!?」
その姿を目にして、再びその声で名を呼ばれて、アンジェリカの全身が温かいもので満たされた。彼女は彼を見つめたまま、無言でこくりとうなずく。
ブライアンはチラリとアンジェリカの姿を目視した後、馬の速度を上げた。戸口から彼が消え、また、声だけが。
「馬車を停めろ!」
多分、御者に向けての言葉だろう。耳をすませば、ガブリエルの声も聞こえる。ブライアンとは反対の側を、併走しているようだ。
彼らが何度も警告する声がしたけれど、馬車の足は一向に緩まない。ウォーレスに目を遣ると、軽く首をかしげるようにして外に向けられているその顔は、薄っすらと笑んでいた。きっと、御者、いや、ウォーレスの配下の者は皆、彼の指示以外は耳に入れもしないのだろう。
目的地に着くまで、馬車は停まらない。この速度で無理に停めようとすれば、両親の二の舞だ。
だが、目的地に着いてしまったら、ウォーレスの手下が山ほど待ち構えている筈。身動きができないアンジェリカというお荷物を抱えていては、ガブリエルとブライアンだけで太刀打ちできるとは思えない。
確かに、今、この馬車を停めることができれば、ウォーレス・シェフィールドを捕らえることもできる。それができるのは、今しかない。
けれど、それが不可能だとすれば、最低限、この身が彼らの枷となることだけは回避したい。
(どうしよう。どうしたら……)
アンジェリカは外の様子に気を取られているウォーレスとディアドラを伏し目がちに窺いながら身じろぎをしてみる。完全ではないけれど、七割方、自由は戻ってきているような気がした。
彼女は、乗降口に目を走らせる。
馬車は速い。飛び降りたら、骨の一本や二本は折れるかもしれない。
(でも、死にはしない)
このままウォーレスに囚われてしまえば、肉体は生かされたとしても、心は殺されてしまう。それに、自分を取り戻すために、兄は――恐らくブライアンも、どんな危険でも冒すだろう。
それだけは、嫌だった。
(せめて、私が逃げるだけでも)
アンジェリカはグッと全身に力を込めて、身構える。
と、その時。
先に行っていたブライアンがまた姿を現した。
馬車の中を一瞥した緑の瞳と、視線が絡む。刹那、彼が彼女に向かって手を差し伸べ、声を張り上げた。
「おいで、アンジェリカ!」
たった二言の、短い、誘い。
それが耳に入ると同時に、彼女は一瞬たりとも迷うことなく動いていた。
わずかにふら付く足が許す限りに力を込めて、馬車の床を蹴る。
「アンジェリカ!?」
ウォーレスとディアドラの声が背中を追いかけて来て、服の裾が微かに引かれたような気がした。余裕綽々だった彼が初めて発した狼狽した声に、アンジェリカの胸がすく。
吹き付けてくる風に髪が乱れた。
刹那、ふわりと彼女の身体が宙に浮き、後方に流される。
(!)
アンジェリカは地面に叩き付けられる衝撃に備えて奥歯を噛み締めた。
が、次の瞬間力強い腕が彼女をすくい、引き上げる。胴の辺りに巻き付き痛いほどに締め付けてくるそれに、彼女はとっさにしがみついた。
疾走から急停止を強いられ、ブライアンの馬がいななき、棒立ちになる。飛び跳ねる衝撃で、アンジェリカは舌を噛みそうになった。
けれど、どんなに馬が暴れようとも、ブライアンはアンジェリカを離さない。自らの胸に押し付けるようにして、しっかりと腕の中に引き込んでくれた。
彼は片手と脚だけで猛る馬をいなし、あっという間に落ち着かせる。
ウォーレスの馬車はアンジェリカが飛び出した瞬間、ほんの少しだけ速度を落としたけれども、またすぐに盛り返した。
音立てて走り去る馬車の乗降口から、ウォーレスが半身を覗かせる。その顔には、呆れたような表情があった。事実、そうなのだろう。疾走する馬車から飛び出そうなど、無謀もいいところなのだから。
「まったく、なんてことを……まあ、いい。どうやら無事なようですね。良かったですよ」
そこで彼は片手を振って。
「残念ですが、今日はここまで。アンジェリカ、また会いましょう」
悔しがる様子など欠片も見せずに軽い口調で再び会う約束を告げたウォーレスを乗せ、馬車はみるみる遠ざかっていく。それを見送り、ブライアンが何かを小さく毒づいた。いつものんびりとした調子を崩さない彼の強い口調に、思わずアンジェリカは目を丸くする。
目をしばたたかせた彼女に気付いて、ブライアンが苦笑を浮かべた。
「僕だって、こういう時は怒るんだよ」
そう言って、彼は銃をしまい、空いた手で乱れたアンジェリカの髪をそっと撫でつけてくれた。まるで、触れたら彼女が消えてしまうと思っているかのように、そっと。
その仕草に、アンジェリカのみぞおちの辺りがキュッと縮まったような気がした。
(何だろう、ディアドラの薬のせい?)
眉をひそめて胸の中で首を傾げたところで、馬のいななきが。
「アンジェリカ、無事かい!?」
そう呼びかける声がして、そちらの方に目を向けると、馬車の反対側にいたガブリエルが馬首を翻して駆け寄ってきた。
「なんて無茶をするんだ! 怪我は!?」
ブライアンの腕の中にいるアンジェリカの全身にサッと目を走らせながら、ガブリエルが問いかける。
「私はなんともありません。彼がちゃんと受け止めてくれました」
「まったく……」
ガブリエルは眉を片方持ち上げてアンジェリカを見る。そうしてため息を一つこぼしてから、またすぐに馬の首を巡らせた。
「兄さま?」
呼びかけたアンジェリカに、彼は肩越しに振り返る。その間にも、もう馬は歩を進め始めていた。
「私は彼を追う」
「でも、一人では――」
「無理はしないよ。じゃあ、また後で」
それだけ残して彼は馬の腹を蹴り、駆け出していってしまった。
あっという間に小さくなっていく兄の背中を見送って、アンジェリカは小さく息をつく。
「彼は、私を捕まえるために仲間が待機していると言っていたのに」
彼女の呟きに、ブライアンが笑った。
「大丈夫さ。彼も言っていただろう、無理はしないと」
そこで彼は真顔になる。
「でも、アンジェリカは本当に大丈夫? 怪我は? 何もされなかった?」
前髪が触れ合いそうな距離にある彼女を案じる気持ちだけが満ちたその眼差しを、アンジェリカは見返した。返事もせずにじっと見つめる彼女に、ブライアンが眉をひそめる。
「アンジェリカ? やっぱり、どこか怪我した? 気分が悪い?」
心配そうに表情を曇らせた彼に、アンジェリカ瞬きを一つした。返事をしようと口を開いたところで、あくびが漏れる。ふいに頭がふわふわとして、強い眠気が込み上げてきた。
(そうか、さっきの薬……)
ディアドラが飲まそうとしていた、丸薬。
吐き出そうと身構えていたのに、口の中に押し込まれたちょうどその時に銃声が聞こえたからつい呑み込んでしまったことを、アンジェリカは今更ながらに思い出す。
必死にその眠さに抗っていると、一転、やけに気分が高揚してきた。
今なら、何でも言えそうだ。というより、胸の中のことを全部吐き出してしまいたいという衝動に駆られる。
――明らかに不自然な、常の彼女なら有り得ない、衝動。
それは薬のせいなのかもしれないけれど、それでも構わなかった。
アンジェリカは、ブライアンに、言いたいこと、言わなければならないことがあるのだから。
「ブライアン」
名を呼び、彼女は案じる眼差しを注いでくるブライアンの上着の襟を、ギュッと握り締めた。




