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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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惑いの先に③

 アンジェリカの怒りが、ウォーレスには解らないようだった。

 目を丸くしている彼をねめつけながら、アンジェリカは全身の力を振り絞って身を起こす。支えようと手を伸ばしてきたディアドラは、目で制した。


 もがきながら真っ直ぐに背筋を伸ばしたアンジェリカは、明瞭な声を出すべく腹に力を籠める。

「私は、貴様の玩具には、ならない」

「……玩具?」

 ウォーレスが眉をひそめた。そうして、芝居がかった仕草でかぶりを振る。

「とんでもない。玩具だなんて思っていませんよ。あなたは貴重な宝石のようなものです。これ以上はないというほど丁重に手入れをさせましょう」

「私は物ではない」

 奥歯を噛み締めるようにして返したアンジェリカに、彼は困惑の色をその眼に浮かべた。

「もちろんです。こんなに温かいのですから。『物』だなんて思うはずがないではないですか」

 言いながら、ウォーレスは指先でアンジェリカの頬を撫でた。ひんやりとしたその感触は、まるでナメクジでも這ったかのような不快感を彼女の肌に残す。


 嫌悪に目元をゆがめたアンジェリカに、彼は束の間小首をかしげ、次いで「ああ、そうか」という顔になった。

「もしかして、あなたを性的な対象とすることを警戒していますか? 大丈夫、それはありませんから安心してください。私は、ただ、あなたを愛でたいだけですよ。美しい絵画や彫像に対してそうするようにね。あなたが望むなら、触れもしません」

 その証のように、ウォーレスは広げた両手をパッと上げて見せる。そうして、それでいいでしょう? と言わんばかり首を傾げた彼を、アンジェリカはまじまじと見返した。


 やはり、何一つ伝わっていないのだ、この男には。


「私は、その、物扱いが、嫌だと言っている」

 無駄な足掻きと知りつつ一言一言区切るように繰り返しても、彼はいっそう困惑の色を濃くしただけだった。

「では、触れた方がいいと?」

「違う」

「ならば、どうしたらお気に召すのですか」

 まるで、なんてわがままなんだとでも言いたげなウォーレスに、アンジェリカは唇を引き結んだ。確かに彼と同じ言語を使っているのに、まるでそんな感じがしない。


「私は、血が通った人間だ。私には私自身の意志がある。私は、貴様の所有物になどならない」

「申し訳ないが、その点に関してあなたに選択権はないのですよ」

 肩をすくめながらの、謝罪の言葉。

 だが、ウォーレスの眼、声、仕草、そのどこをとっても『申し訳なさ』などない。


 この男と理解し合うことは不可能なのではないかと、アンジェリカは思った。

 根本的なところが、何か違う気がする。


「私は、貴様とは行かない」

 アンジェリカはもう一度きっぱりとそう断言した。そんな彼女に、ウォーレスは幼子を眺めるような眼差しを向ける。

「そうは言っても、あなたにはどうしようもできないでしょう? おとなしく私に従うしかありませんよ。選べるとしたら、自ら従うか、無理やり従わせられるか、その二択です」

「どちらも断る」

「アンジェリカ」

 やんわりとした口調で、ウォーレスが彼女の名を呼ぶ。だが、その眼からは笑みが消えていた。常に優位を気取って余裕綽々だった彼に、多少の苛立ちを抱かせることには、成功したのかもしれない。


 アンジェリカは、口をつぐんで偽りの温もりが消えたその目を見返す。

 確かに、今のアンジェリカには彼に抗う術がなかった。彼女独りでは、たとえこの身が力を取り戻したとしても、この男から逃れることはできないかもしれない。


(でも、私は独りじゃない)

 アンジェリカは目を閉じ、脳裏に浮かぶ人たちのことを想った。


(私には、兄さまが――ブライアンが、いる)


 アンジェリカは、ずっと、強くなりたいと願っていた。


 それは独りで立ち、独りで戦えるということ。

『強い』というのは、そういうことを言うのだと思っていた。


 でも、そう信じて得たこの力は、けっして『強い』ものではなかったのだ。

 独りでも戦える、そう思っていたのは、単なる驕りに過ぎない。


(もしも本当に私が強いのならば、今、こんなことにはなっていない)

 他の誰かどころか、自分自身すら護れないような事態には。

 アンジェリカは強いのではなく、強いと『思っていた』に過ぎないのだ。


 彼女は、もう一度胸の中で繰り返す。


(私は、強くない)


 その『強くない自分』には、助けてくれる人が必要だった。

 目を閉じれば、脳裏には容易にその人たちの姿が浮かぶ。


(ブライアンと兄さまは、絶対に来てくれる)

 たとえ今はアンジェリカのことを見失ったとしても、彼らは絶対に諦めないだろう。


 少し前までは、誰かの助けを求めるなど、頭の片隅にもよぎらなかった。

 手を差し伸べられても、はねつけた。

 人に頼ることへの抵抗が、常に胸の真ん中にしこりのようにわだかまっていた。


 まだ、完全にそれが消え失せたわけではない。

 けれど、助けを必要としないことは強さの表れかもしれないけど、助けを受け入れられないことは、弱さの表れでもあるのだ。


(その弱さを、認めよう)

 アンジェリカは静かにその考えを受け入れた。それと同時に、スッと頭の中が冷える。


「私は、あなたとは行かない」

 再び繰り返したアンジェリカに、ウォーレス一瞬完全に表情を消し、次いでやんわりと苦笑を浮かべた。

「頑固ですねぇ、そうは言っても、まだろくに動くこともできないではないですか。……まあ、でも、そろそろ、効果も切れてきたのかな。ディアドラ、彼女にはもう少しおとなしくしておいてもらおうか。そうだな、しばらく眠っておいてもらった方がいいかもしれない」

「はい、旦那様」

 ウォーレスの言葉に従順にうなずいたディアドラが、腰につけた鞄に手をやった。彼女はそこから包みを取り出す。開いたそれから出てきたのは、小さな丸薬だった。


 ディアドラは手のひらにのせたそれを差し出し、小首をかしげる。

「これ、飲んでもらいたいのだけど……」

「そう言われて従うわけがないだろう」

 むっつりと答えたアンジェリカに、ディアドラが片手を頬にあてて小さく吐息をこぼす。

「そうよねぇ。じゃあ、仕方がないわね」

 言うなり、彼女はアンジェリカに手を伸ばしてきた。顎を掴んだ繊細なその手が、巧みに口を開かせる。歯を食いしばって抗おうとしても、何をどうしているのか、彼女の努力は叶わない。


 薬が口内にねじ込まれ、舌がその苦みを感じた、その時。


 突如響いた、轟音。


「銃声?」

 ウォーレスが眉をひそめた。


 間髪を容れずに今度は二回、同じ音――銃声が。それに合わせて扉が振動する。

 少し間が空いて、また、三回。

 そのたびに、扉が揺れる。

 耳を澄ませば、疾走する馬車の音に紛れて馬の蹄の音が余分に聞こえてきた。

 どうやら、並走しながら外の誰かが銃で蝶番を壊そうとしているらしい。その狙いは、かなり正確なようだ。


(ブライアン?)

 確か、体術よりも拳銃の方が得意だと、それは誉められたのだと、彼が言っていた記憶がある。

 きっと、彼だ。


(やっぱり、来てくれた)

 胸の中でつぶやいたアンジェリカは、「信じていた」という言葉も出ないほど、ブライアンがそうしてくれることをほんの少しも疑っていなかったことに気づく。

 信じよう、と自分に言い聞かせる前に、自然と胸の奥には彼に対する確かな信頼が育っていたのだ。

 ――彼を支えに思う心と共に。


「やれやれ、乱暴なことをしますねぇ」

 ウォーレスがそうぼやいた瞬間、大きく扉がぐらつき、音高く開かれた。


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