惑いの先に②
クッションに身を沈めたままのアンジェリカは、ウォーレスが放った言葉を噛み締める。
(父さまと母さまが追われたのは、報復ではなかった)
その目的はアンジェリカだったと、彼は言った。彼女を渡さなかったからだったのだと。
つまり、両親が命を落としたのは、アンジェリカのせいということで。
(私の……私を護ろうとしたせいで……)
記憶を取り戻し始めてから、薄々、アンジェリカはそう悟っていた。自分がいたから、両親は彼ら自身の身を守り切れなかったのではないかと。自分を守ろうとしたから、命を落としたのではないかと。
自分さえいなければ、父も母も死ななかったのではないか、と。
そして今、狙った張本人の口から、狙ったのはまさにアンジェリカであったのだと知らされた。
――つまりそれは、全てがアンジェリカのせいだということだ。
はっきりとそう自覚した刹那、頭に太い杭が打ち込まれたような衝撃が彼女を襲う。
それは、アンジェリカの中にある最後の壁を打ち砕くものだった。
吐き気を伴う強烈な頭痛が彼女を見舞い、そして急速に消失する。
脳の一部を常に覆っていた靄が晴れ、何もかもが清明になった。
思い出したのは、ハイヤーハムを出てしばらく歩いた、山道での光景。
行く手を塞ぐように並んだ二台の軽馬車と、その前に豪奢な箱馬車。足を止めたアンジェリカたちの後ろから音が近づいてきて、肩越しに振り返ってみると、三台の軽馬車が向かってきていた。軽馬車にはどれも四、五人の男たちが乗っていて、立ち止まったアンジェリカたちを取り囲むようにぞろぞろと降りてきた。
十歳のアンジェリカには、どの男も小山のように見えた。不安に駆られて母の服にしがみつくと、彼女はそっと引き寄せてくれた。そんな二人を庇うように父が一歩踏み出す中で、箱馬車の扉が開く。
中から降りてきたのは、黒髪黒目の中肉中背の男。父と、それほど年は変わらないように見えた。
その男がアンジェリカを指さして何かを言い、父が一瞬息を呑む。
間があったのはほんのわずかで、一転して父が怒りのみなぎる声で言い返した。
二人の遣り取りの内容をアンジェリカがあまり覚えていないのは、その当時彼女が良く理解できていなかったからだろうか。自分のことを何か言っているらしいことは解ったけれど、それだけだった。ただ、話の中身は良く解らなくても自分に向けられる見知らぬ男の黒い瞳が嫌で、アンジェリカは母の陰に身をひそめた。
男と言い合う父はとにかく怒っていて、穏やかな笑みを浮かべる彼しか見たことがなかったアンジェリカは、父の怒りにではなく、父が怒っているという状況に怯えていた。
やがて、黒髪の男がため息混じりにかぶりを振る。
それが指示であったかのように、アンジェリカたちを取り囲む男たちが動き出した。じりじりと人の壁が迫り、アンジェリカは一層強く母にしがみつく。母は彼女の手を取り、きつく握りしめた。
何が合図になったのかは、判らない。
父と母が同時に動き、アンジェリカも引きずられるようにして走り出した。
父が前方の男をあっという間に数人倒し、できた隙間を走り抜ける。その先にあった馬車に、アンジェリカは放り投げるように乗せられた。
馬のいななき、疾走する馬車。
アンジェリカは座席の下に縮こまって固く目を閉じていたけれども、すぐに男たちが追いかけてきたのが耳で判った。
その音が怖くて、いっそう小さく身を丸める。
そんな彼女に、母が何度も何度も繰り返した。
『大丈夫、あなたは渡さない』
『わたしたちが守ってあげる』
激しい、揺れ。
馬車が曲がる感覚。
馬の悲鳴と、父の小さな罵り声。
浮遊感の中で母が身体全てを使ってアンジェリカを抱き締め、その上から父が覆い被さる。
そこに込められているのは、何が何でも彼女を守ろうという、堅固な意志。
そして――
(そして、終わった)
馬車は崖下に落ち、父が死に、母が死んだ。
手に入れた、最後の欠片。
ようやく、自分の心が解かった気がする。
(私は、多分、心の奥底で私のせいで父さまと母さまが亡くなったことを知っていたんだ)
自分のせいで追われ、自分を護り抜いたせいで、二人は命を落とした。
たとえ記憶は封印してしまっても、その事実はアンジェリカの中から消え失せたわけではなかった。
そして、母が最期に遺した言葉は、「強くなれ」で。
それは、命を賭して護ってくれた人の最期の望みだったから、アンジェリカは強くなろうと思った。強くならなければならないと思った。
彼らがそうしたように、自分も人を守らなければならない。
彼らを死なせてしまった自分は、これ以上人に守られる存在であってはいけない。
彼らに報いるためには、そうしなければならない。
そんな枷は、両親の記憶が薄れるにつれて重みを増していった。
無意識下で縛られアンジェリカは今まで走り続けていたけれど、今、その足を止める。
そして、自問した。
(でも、これは、今の私のありようは、母さまが望んだものになっているのだろうか)
ふと、兄の言葉を思い出す。
与えたかったのは、アンジェリカ自身の身を守るための力であった、と。
誰かの身を護ることまでは、望んでいなかった、と。
(私は、人を制する力を手に入れた。自分一人の足で立ち、自分一人の手で人を守る力を)
けれど、これは、母が望んだ『強さ』だったのだろうか。
――きっと、そうではない。
全ての記憶を取り戻した今なら、判る。
母は、そして父は、アンジェリカにただ誰にも侵されることなく生きていって欲しかっただけなのだ。そのための強さを手に入れて欲しい、と。
彼らは、アンジェリカが笑っていることを、何よりも望んでくれていた人たちだったのだから。今だって、同じことを望むはず。
それなのにアンジェリカは、自分を守ってくれた両親が目の前で死んでいくことへの罪悪感で、認知を歪めてしまった。母の最期の言葉を、歪めて胸に刻んでしまった。
(私は、愚かだ)
唇を噛んでクッションに顔を押し付けたアンジェリカの耳に、ため息が届く。ゆるりと目だけを上げれば、小さくかぶりを振るウォーレスがいた。
「本当にね、しまった、と思ったのですよ。急いで崖の下に行ってみたのですが、その時にはもうあなたの母上は獣に喰われていましてね。皆で探してみましたがあなたは見つからず、同じ腹の中に入ってしまったのかと、非常に残念な思いに駆られました」
彼が放った台詞に、アンジェリカは現実に引き戻された。彼女と目が合うと、親しい間柄でもあるかのようにウォーレスは微笑み、続ける。
「とはいえやっぱり諦めきれなかったので、それから半年以上も方々探してみたのですよ。あなたのような外見をしていたら、存在しているならばすぐに見つかるはずなのにさっぱりでしたから、やはり失われてしまったのかと諦めたのですけれどもね。去年、ロンディウムの下町であなたを見つけた時は、天の采配だと思いましたよ。あの街は面白みがないのであまり好きではなかったのですが、たまには足を運んでみるものですよね」
感慨深げに言葉を吐き出し続けているのは、黒髪黒目の特徴のない男――ウォーレス・シェフィールド。
あの時、アンジェリカたちの行く手を遮った男。
まるで玩具でも欲しがるかのようにアンジェリカを欲しがり、父を激怒させた男。
そして、その結果、両親を死なせた男。
(もう、間違えない)
確かに、父と母はアンジェリカを守って命を落としたのだけれども、彼女が死なせたわけではない。彼らが亡くなったのはアンジェリカのせいではなく、この男のせいなのだ。
「だが、何故……」
自分の何が、そうさせたのか。手に入れるためにあそこまでさせるほどの何が、自分にあったのか。
つぶやきは、ウォーレスの耳にも届いたらしい。軽く首を傾げ、にっこりと笑って、アンジェリカの疑問に答える。
「ご両親が演奏している中で、あなたが客の間を回っていたでしょう? あの様がまるで自動人形のようにとても愛らしくてね」
絶句。
アンジェリカはしばらく二の句を継げなかった。
「……――それだけ、なのか?」
ようやく出せたのは、その二言。
低い声での彼女の問いに、ウォーレスは至極当然、という風情でうなずく。
「ご両親が応じてくれさえいればねぇ。お二人とも、命を無駄にせずに済んだのですよ。おとなしくあなたを寄越せば、何も問題はなかったのに」
まるで、父と母の方にこそ非があると言わんばかりだ。
奥歯を噛み締め未だ自由になり切っていない身の内でふつふつと怒りを滾らせるアンジェリカの心中など、ウォーレスは全く気付いていない。
「東の方の薬で成長を止めるものがありましてね、あの時のあなたがあまりに可愛らしかったので、手に入れたら使おうと思っていたのですよ。でも――」
言葉を切り、ウォーレスは身を乗り出してアンジェリカの方に手を伸ばしてくる。睨み付ける彼女をものともせずに銀髪をひと房摘まんで、口元に寄せた。
「今のこの姿を見ると、そうしなくて良かったと思います」
しみじみとこぼした彼はそこでふと口をつぐみ、しげしげとアンジェリカを見つめてくる。
「ですが……そうですね、しばらくはこうやっておとなしくなっていてもらった方が、いいかもしれませんね。自由が利くと色々と厄介そうだ。まずは特製の鳥籠を用意しないと、放し飼いにはできそうにないですからね。どうかな、ディアドラ、できるかい?」
話を振られ、ひっそりと座っていた彼女は嬉しそうに首肯した。
「はい、旦那様」
ウォーレスはディアドラに「いい子だ」という風情の笑みを向け、そのままアンジェリカにまた目を戻す。
「十年越しでようやく手に入れたんです。大事にしますよ」
とことん、骨の髄まで独りよがりな物言いだった。
そして、アンジェリカに向けられる眼差しには、偽りの慈愛が満ち溢れていて。
底の知れないその黒い瞳を睨み据え、アンジェリカは端的な答えを投げ付ける。
すなわち――
「ふざ、けるな」
彼女の心の中にある全てを込めたその一言に、ウォーレスは心外そうに目をしばたたかせた。




