惑いの先に①
かなりの速さで走っているはずの馬車は、よほど良い造りをしているのか、ほとんど揺れを感じさせることがなかった。座席は柔らかすぎず、硬すぎず。程よい感じに乗り手の身体を受け止める。
そんな快適な馬車の中、両側を大きなクッションで支えられて、後ろ手に拘束されたアンジェリカは満悦至極を隠そうともしないウォーレス・シェフィールドと対峙していた。その隣には膝の上に両手を揃えたディアドラが座っていて、アンジェリカと目が合うとまるで親友か何かのようにニコリと微笑む。
「この先に川があってね、そこに船を待機させているんですよ。外洋に出たらその手も解いてあげますからね」
優しげにそう言ったウォーレスを、アンジェリカは無言でねめつける。そんな彼女のはらわたは、まさに煮えくり返っていた。うっかり口を開いたら、喉から怒りの炎が噴き出しそうだ。
性懲りもなく手を出してきたウォーレスに、何食わぬ顔で座っているディアドラに、そして誰より、こんな事態を招いた自分自身に、腹が立つ。
けれど、怒り心頭に発した彼女の眼差しでさえ、ウォーレスは嬉しそうに受け止める。
「どうだい、ディアドラ。彼女はまさに生ける芸術品だよ。いや、まさに神の業だね」
「ええ、旦那様、本当に」
目の前の主従の遣り取りは、アンジェリカの心情など完全に無視している。
ディアドラにかがされた痺れ薬はそう長く効くものではなかったようで、アンジェリカの身体は次第に力を取り戻しつつあった。痺れは残るもののようやく動くようになった舌で罵詈雑言を浴びせてやりたいが、今はむっつりと口をつぐんでおく。
そうしながら、背中にある手をそっと動かした。
けれど。
(……外れない)
縛られているのは重ね合わせた左右の親指だけだというのに、どうこじってもビクともしない。
ムッと微かに眉間にしわを寄せると、うっとりとした面持ちで彼女を眺めていたウォーレスがふと微笑んだ。
「あまりやると、傷が付いてしまうじゃないですか。柔らかな紐にしておきましたけれど、無理はしないで欲しいですね」
薄っぺらい労りの言葉を吐く彼を、アンジェリカはそれまで以上の眼力で睨みつけた。けれど、悔しいことこの上ないが、この拘束は解けそうにない。
手を縛られたままで逃げ出せる可能性は、あるだろうか。
アンジェリカは自問した。
もちろん、可能性は、ある。
だが、それは限りなく低い。
(ブライアンたちは、いつ、私がいないことに気付くだろう)
ウォーレスが言う川まで、あとどれくらいなのか。
いくら自由に動けるようになったとしても、縛られたままでは、走る馬車から飛び降りるわけにいかない。
そして、もしも、船に乗せられてしまったら――
アンジェリカは奥歯を噛み締める。
兄からは色々なことを教わったけれども、大洋を行く船から逃げ出すことはそこに含まれていなかった。沖に出られたら泳いで岸に戻るなんて不可能だし、小舟を漕ぐ方法も知らない。
(ブライアン――兄さま)
孤児院から離れるにつれ募る焦燥を無表情という仮面の下に隠して、アンジェリカは彼らを呼んだ。
けれど、当然、彼らが応えてくれるはずもなく。
突如彼女は、虚空に投げ出されたかのような感覚に襲われる。
多分、それは、心細さというもの。
そんなものを覚えた自分に、アンジェリカは愕然とする。
こんな気持ち、今まで感じたことがなかったのに。
旅に出てからずっとブライアンや兄と一緒にいたから、二人がいることが当然と思ってしまうようになったのだろうか。二人がいないことで、不安に駆られるようになってしまったのだろうか。
(いやだ)
アンジェリカは、胸の中でかぶりを振った。
(そんなの、ダメだ)
独りで立つことができなくなるだなんて。
誰かの支えがなければ、立つことができなくなるだなんて。
胸の中に湧いた弱気の虫を、アンジェリカは憎んだ。
たとえブライアンとガブリエルがこの場にいたとしても、それにすがってはいけないのだ。
(自分で、何とかしないと)
誰に頼るわけにもいかない。
この手で、対処しなければ。
アンジェリカは、きつく奥歯を噛み締めて自分を戒めた。そして、考える。
唯一にして最後の機会は、馬車から船に移されるときか。
せめてそれまでに薬が完全に切れてくれていることを彼女は願った。今はまだ、背筋を真っ直ぐに伸ばしていることすら難しい。
そんなアンジェリカの心などつゆ知らず、ウォーレスはゆったりと背もたれに身を預け、両手を膝の上で組む。
「十年前とこの間と、二度もしくじりましたからね。今回は少々回りくどい手を使いました」
楽しい思い出話をしているかのような口調に、無視を決め込むつもりだったアンジェリカはつい反応してしまう。
「十年、前?」
「ええ。あの時はご両親にしてやられました。本当は、あなたがロンディウムを出た時に捕まえてしまおうかと思っていたのですけどね、あなたのお兄さんがどれほどの力をお持ちなのか、判らなかったので。十年前の二の舞はごめんでしたからね、今度はちゃんと見極めてからにしておこうかと」
「今だって、兄のことなど、知りや、しないだろう」
そっぽを向きながら返したアンジェリカに、ウォーレスは肩をすくめた。
「ならず者六人相手に、まるで赤子をあやしているようでしたね。さすが、あなたのお兄さんだ」
さりげなく吐かれたその台詞に、アンジェリカは眉根を寄せた。思わずウォーレスに目がいってしまう。
「え?」
「ほら、ハイヤーハムの手前の切通で。彼らももう少し奮闘してくれるかと思ったら、全然でしたね」
「見ていたのか?」
「ええ。ですから、ちょっと一芝居打ったのですよ。力業であなたを奪おうとすれば、ご両親と同じことになりかねないなと思って」
「一芝居」
繰り返したアンジェリカの目が、自然とディアドラに向く。声に出さなくても彼女が問いたいことが伝わったのか、ディアドラはうなずいた。
「だましてごめんなさいね? でも、本当にあんなところに薬草が生えてるわけないでしょ?」
謝罪の言葉を口にしながら、全然悪びれたふうはない。
そんなディアドラの横で、ウォーレスが続ける。
「あなたのご両親を相手にしたときは失敗しましたから、今回はかなり慎重にね、事を運んでみました。いや、ご褒美が先にあると思えば、待つというのも楽しいものですね」
クツクツと笑うウォーレスは、本当にこの状況を楽しんでいるようだった。けれど、アンジェリカにそんな彼の態度に憤ることはなかった。正確には、その余裕がなかったのだ。
「やはり、あなたが私の父と母を……?」
アンジェリカの低い声に、ウォーレスは軽く首をかしげる。
「ああ、彼らが亡くなられたのは、とても残念なことでした」
簡単なお悔やみ。
全くの、他人事の口調で。
「白々しい。あなたが、やったのだろうが」
怒りで軋む声でそう指摘したアンジェリカに、しかし、彼はどことなく困ったような顔になる。
「死なせるつもりはありませんでしたよ」
「何を、ふざけたことを! 貴石の取引を潰された、腹いせだろうが!」
今度こそ声を張り上げ糾弾したアンジェリカの前で、ウォーレスは心底から「心外な」という顔になる。
「まさか。まあ、あの仕事を失ったことは残念ではありますが、そんなことにいちいち目くじら立てませんよ。第一、私は殺生は嫌いです。必要がなければ人様を傷つけたりはしません」
「だが、現にあなたが殺した!」
まだ充分に回復していないままカッと座席から腰を浮かしかけてふらつき、体勢を崩したアンジェリカは横のクッションに倒れ込む。柔らかな緩衝材に半身を沈めたまま、彼女は目の前の男を睨みつけた。
そんなアンジェリカの射殺さんばかりの眼差しを受け、ウォーレスは悲しげに首を振る。
「ですから、死なせる気はこれっぽっちもなかったのですよ。穏便にあなたを渡してくれさえすればね、何の問題もありませんでした」
まるで、両親に非があるような、言い草。
けれど、アンジェリカが聞き留めたのは、彼らを責めているかのようなウォーレスの台詞ではなかった。
彼女の胸を、チクリと刺したのは。
「……私……?」
呆然とつぶやいたアンジェリカの目に、ウォーレスのうなずきが映る。そして、続く言葉。
「ええ。私は自分が法を犯しているという自覚がありますから、それを邪魔されたからと言って報復などという八つ当たりはしませんよ。第一、そんなの、美しくないではないですか」
そう言ったウォーレスの目は真摯といってもいいほどで、怒りに狂うアンジェリカにさえ、彼の言葉が真実であるということが伝わってきた。




