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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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惑う心⑤

 走ってくるアンジェリカに気付いたディアドラが、鉄格子の向こうで大きく手を振っている。ずいぶん泡を食った様子で、何かよほどの大ごとのようだ。


「アンジェリカ! 早く、早くここ開けて!」

 手のひらで頑丈な格子を叩くディアドラに急かされて、アンジェリカは閂に手をかける。それが外されると同時にディアドラは門を引き開け、グイとアンジェリカの腕を引っ張ってきた。


「ディアドラ、いったい何が……」

「ブライアンが怪我したの! 戻る途中で馬車に轢かれたんだって」

 まくし立てたディアドラの、必死の形相。

 一瞬、アンジェリカの頭の中が真っ白になった。


「――え? でも、つい、さっき……」

「ブライアン追っかけてたら、なんか人が集まってて。もう運ばれてっちゃってたからあたしは見てないんだけど、金髪で、虫の息で『アンジェリカ』って呼んだんだって。それって、ブライアンしか考えられないでしょ!? 地面に血がいっぱいあって……」

 一気にそう言ったディアドラが、大きく鼻をすする。

 その言葉は確かに全てアンジェリカの耳に入ってきたけれど、彼女の頭はどれ一つとして受け入れてくれていなかった。


「そんな、ばかな」

 つぶやいたきり、舌が凍る。

 白くなった頭は、うまく動き出してくれない。


(ちょっと、待って。ブライアンが、馬車に……?)


 今まで、アンジェリカはさまざまな問題を解決してきた。その中には、事故もあったし、火事もあった。いつだって彼女は、それら全てに素早く適切に対処できてきたはずだ。

 なのに、どうしてだろう。

 ディアドラの「ブライアンが馬車に轢かれた」という言葉でかつて目にしたことがある事故被害者のボロボロになった姿がパッと脳裏に浮かび、それにブライアンが重なった瞬間、何もできなくなった。

 今は、少しも動けない。呼吸すらままならないほどに、全身が凍り付いている。


(あの時の人は、結局、助からなかった)

 ひどい出血で、医者が到着するまでアンジェリカが応急処置を試みた。けれども、どんなに手を尽くしても、血という命の源が失われていくのを止めることができなかったのだ。

 その場に、ブライアンはいなかった。でも、後からその話をコニーから聞いたらしい彼は、しばらくの間、いつもよりも頻繁に顔を出してくれていた。特に何を言ったりしたりするわけでもなかったけれど、ふと気づくと彼の眼差しがあって、目が合うたびに微笑んでくれていた。


 そんなふうにしてくれた、ブライアンが。


 立ちすくむアンジェリカの鼓膜を、苛立たしげなディアドラの声が打つ。

「ほら、早く乗って!」

 急かす間もディアドラはアンジェリカの腕を引き続け、気付けば彼女が乗ってきた馬車のすぐそばまで来ていた。

「あ、ああ……」

 ディアドラの勢いに呑まれてそのまま馬車の中に押し込まれそうになって、ハタと兄のことを思い出す。

「兄さまにも、伝えないと」

 つぶやき身を翻したアンジェリカの腕を、ディアドラの手がグッと掴んだ。

「ディアドラ?」


「彼は、ダメ」


「……え?」

 アンジェリカは、彼女の手を、そして顔を見る。そこには、微笑みが浮かんでいた。

(どうして、笑う?)

 ついさっきまで、蒼白な顔でブライアンのことを案じていたのに?

 そう思った瞬間、アンジェリカはディアドラの手を振り払っていた。そして、数歩下がる。

 その違和感をきっかけに理性が戻り始めた彼女の頭の中に、わずかな疑念が浮かぶ。


「ブライアンは、本当に事故に遭ったのか?」

 アンジェリカの問いかけにディアドラは肩をすくめた。そして、フフッと笑う。

「勢いで乗り切れると思ったのに、残念」

 その返事が意味するところは、つまり――

「嘘、なのか?」

 問いかけるというよりも確かめる口調でそうつぶやき、また一歩、後ずさった。

 気付けばずいぶんと距離を取っていたけれど、ディアドラは動かない。動かないことが、より一層警戒心を掻き立てる。


「どうして、あんな嘘を?」

 ディアドラからも御者からも容易には捕まらない距離を置いてから、アンジェリカは顎を引いて彼女を睨みつけた。

 けれどディアドラは、そんなアンジェリカの不審の眼差しなどどこ吹く風という風情だ。

「ごめんなさいね。旦那様があなたをご所望だから」

「旦那様?」

 誰のことだとアンジェリカが眉をひそめたその時、ディアドラが腰のあたりから何かを取り出した。と思った瞬間、それをアンジェリカの足元めがけて投げつける。


 アンジェリカがとっさに一歩跳びのくのと、カシャン、とガラスが砕ける音が響くのとは、ほぼ同時のことだった。

 下を見ると、小瓶らしきものの残骸。そこから、ほんの一瞬煙のようなものが立ち上がる。すぐにそれは掻き消えたけれども、次いで甘い香りがアンジェリカの鼻腔をくすぐった。心地良い香りに、反射的にそれを吸い込んでしまう。


 しまった、と思った。


 けれど。


 煙と、香。

 ただ、それだけ。

 それだけで、何も変わらない。


(なんだ……?)

 拍子抜けしたアンジェリカが眉をひそめた、刹那。


「!?」


 ガクリと、膝から――いや、全身から、力が抜けた。手を突いて身体を起こそうとしても、その手も動かない。意識はこれ以上ないというほど清明だというのに、指先をぴくつかせることすらできなかった。

 為す術もなく硬い地面に横たわるアンジェリカに、口と鼻を布で覆ったディアドラが歩み寄ってくる。

 しゃがみ込んで顔を寄せてくるディアドラの暗い緑の瞳を、アンジェリカは唯一自由になる目で、睨みつけた。

「効果てきめんでしょう? あ、薬師っていうのは、本当なのよ」

 宥めるようにそう言ったディアドラが手を伸ばしてきたけれど、それを避けることも振り払うこともできなかった。彼女はそっと指先でアンジェリカの頬を撫で、微笑む。

「怒っていても綺麗だなんて。旦那様が欲しがるのも当然ね」

「だ……な……」

 旦那様というのは何者だ。

 そう問い詰めたくても、舌も思うように動かせない。けれどディアドラはまともに発することができないアンジェリカの声を、きちんと聞き届けたらしい。

「旦那様? ああ、ほら、あの方よ。お人好しのあなたと違って、お兄様はちょっとばかしあたしのことを疑ってたみたいだったけど、残念だったわねぇ」

 そう言いながら彼女は立ち上がり、スッと横に避ける。

 妨害する者のいなくなったアンジェリカの視界に、再び馬車が戻ってきた。その戸口から、一人の男が姿を見せる。


 アンジェリカは、目をみはった。


「ウォ……」

 ウォーレス・シェフィールド。

 かつて、王都ロンディウムで少女をかどわかし、アンジェリカを捉えようとした男。

 そして、十年前の両親の死に関わっていると目されている、男。


「やあ、久しぶり、アンジェリカ。ああ、可哀想に、そんな地べたに転がされて」

 馬車から降り立ったその男は砂利を踏む音すらさせずにアンジェリカのもとへやってくると、身を屈めて彼女の身体の下に腕を挿し入れた。そうして、壊れやすい貴重な宝物でもあるかのように、そっと、抱き上げる。


「は……な……」

 放せ。

 ウォーレスはたったの一言すら口にできないアンジェリカに優しげな笑みを向け、その額に口付けた。

 再び顔を上げた彼は、至極満足そうなディアドラに向ける。

「ああ、この銀糸のような髪、紫水晶のような瞳。どうだい、ディアドラ。宝石でできた人形のようだろう、アンジェリカは?」

「はい、本当に」

 腕に抱いたものが意思持つ存在であることなど忘れ去っているらしいウォーレスがうっとりとした眼差しで放った問いに、ディアドラは満面の笑みでうなずいた。

「十年前に初めて目にしたときから、ずっと欲しくてたまらなかったんだ。正直、ちょっと諦めそうになったよ。それがこうやって腕の中にあるとは……感慨ひとしおだな」

 ウォーレスはそう言って、またアンジェリカの銀髪の滑らかさを味わうように唇を寄せた。そんな彼を、ディアドラがたしなめる。

「旦那様、取り敢えず、早くここを離れた方が良いのでは。彼女の兄が来てしまいますよ」

「ああ、そうだね。彼もあんな顔をして結構な腕前だからなぁ。よし、では行くか。少しの間、窮屈な思いをさせるけど、すまないね」

 心底から申し訳なさそうな謝罪の言葉は、アンジェリカに向けられたものだ。

 けれど、当然、そんなものを受け入れられるわけがない。


 アンジェリカはぎらつく菫色の瞳で目の前の黒い瞳を射抜く。

 しかし、刃のようなその眼でさえ、ウォーレスはこの上なく嬉しそうな笑みで受け止めた。


 この身体が動きさえすれば、すぐにでも叩きのめしてやるのに。


 二人の遣り取りにアンジェリカのはらわたは煮えくり返るようだったけれども、眼差し以外にその怒りを吐き出すこともできず、ただただ無抵抗に運ばれるしかなかった。


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