頼れる天使は独立独歩①
どうしたら彼女の微笑みを目にすることができるのか。
現在ブライアンの頭の中の大部分を占めているのは、それだ。そのことに頭の八割を使いつつ、彼の日々は過ぎていく。
ブライアンは、基本的に女性というものは放っておいても彼の前では笑顔になるものだと思っていた。例外は妹のセレスティアくらいだ。彼女が兄であるブライアン――いや、彼に限らず男性全体に対して――微笑むときは、通常、あまり好ましくない感情を抱いているときであることが多い。
だが、その妹を除けば、三十年以上生きてきて、ブライアンは笑顔以外の女性をあまり見た記憶がない。笑顔でなければ、可愛らしく唇を尖らせて拗ねてみせたりとか。それさえもちょっとした駆け引きのようなもので、彼が甘い言葉と共に微笑みを浮かべれば、必ず相手は笑い返してくるものだったのだが。
ここ数週間で、彼は、その認識は普遍のものではないのだということを思い知りつつある。
(どうしてなのだろう)
彼の天使は、ほんのちらりとも笑顔を見せてくれない。
ブライアンが一番求めているのはもちろん笑顔なのだが、笑う笑わない以前に、アンジェリカは、とにかく表情が変わらない人だ。
怒っているのか喜んでいるのか、悲しんでいるのかはしゃいでいるのか。
何があっても全く感情を表出してくれないのだ。
そもそも、ブライアンが日参していることを、いったい、彼女はどう感じているのか。
大喜びで迎えてくれているわけではないということは、薄々判る。
しかし、少なくとも、嫌がってはいないはず――と思いたい。
一応食事もしていく『客』だから、他の者と変わらない対応をしてくれてはいるのだが、あまりに変わりがないから、これまたどう感じているのかさっぱり読み取れないのだ。
不快な思いも表に出してくれないということがこれほどもどかしいものだとは、ブライアンは知らなかった。
いっそ、嫌な顔をしてくれた方がまだマシなのかもしれない。
若干自虐混じりにそんなふうにも思ってしまう。
「彼女の気持ちがさっぱり解からないんだ」
考えあぐねて先日ついコニーにそう愚痴ったら、彼女は得意げに笑って言った。
「ふふん。わたしたちはちゃんと解かるけどね」
と。
『わたしたち』とは、彼女と、彼女の両親、トッドとポーリーンのことで、小さなころからアンジェリカと共に過ごしている彼らには、造作なくその心の動きを読み取ることができるらしい。
実に羨ましい。
生まれてこの方これほど切実に一人の人の笑顔を求めたことはないというのに、ブライアンの笑顔はもとより、花を贈っても効果なし、贈り物はそもそも受け取ってもらえず。
これ以上、何をどうしたら良いのだろう。
ため息をつきつつ、ブライアンは猫の目亭への道を急ぐ。
食堂に近付くにつれ、その辺りが何やらやけにざわついていることに彼は気が付いた。見れば、店の入り口辺りに人が群がっている。
「なんだ?」
また、アンジェリカが酔っ払いを相手に大立ち回りでも演じているのだろうか。
初めて猫の目亭を訪れてから、すでに二回、彼の目の前でその光景が繰り広げられた。そしてコニーによれば、他にも五回、ブライアンが不在の時にいざこざがあったらしい。どうも彼女は、猫の目亭の中だけでなく、近所の居酒屋などで揉め事があった時にも仲裁に駆り出されるようなのだ。
それを聞かされた時、アンジェリカになんでそんなことを引き受けてしまうのかと嘆いたら、サラリと「頼まれるから」と答えられて、ブライアンは返す言葉を見つけられなかった。
アンジェリカにそんなことをして欲しくはないけれど、ブライアンに彼女の行動に対してどうこう言える権利などないのだ。
結局、目の前で起きた時には為す術もなく見守り、彼女を見ていられない時には何か起きていないだろうかとやきもきする羽目に陥っている。
そして、また、このざわめき。
(こんな騒ぎなのだから、よほどの大事なのではないのか?)
酔っ払いの一人や二人程度では、周りの人間はのんびり見物しているのが関の山だ。
あんなふうに外に集まるところなど、未だ見たことがない。
不安が込み上げブライアンは駆け足で店に向かう。
店の前の人だかりは結構な代物で、壁になっていて外側からは中を覗き込むことができない。
「これは、なんの騒ぎ、なんだ?」
走ったのは一区画程度でも着いた時には息が切れていて、彼は店の外に群がる人々を捕まえ途切れ途切れに問いかけた。
相手は軽い口調で答えを寄越す。
「ああ、ちょっとしたボヤ騒ぎだよ」
「ボヤ? 火事!?」
仰天したブライアンは、慌てて人を掻き分け店の中へと向かう。
「アンジェリカ!?」
中へと飛び込み、大声で呼ばわった。店内には客の姿も彼女の姿もなく、代わりに微かな焦げ臭さが漂っている。それに気付いた瞬間、走っているとき以上にブライアンの心臓がバクバクと激しく打った。
「アンジェリカ!」
と、奥の厨房から銀色の輝きが。
「アンジェリカ、君、無事だったんだね!」
「どうした、大声で……騒々しい」
可憐な菫色の瞳でムッと睨み付けながらのその声口調は、いつもと何ら変わるところはない。
その様子にホッと胸を撫で下ろしながらブライアンは急いでアンジェリカの前に駆け寄ると、彼女の頭のてっぺんからつま先まで何度か視線を往復させる。
頬には煤が付いているけれど、火傷らしきものはない。
手足も無事そうだ。
一度下まで下げた目線を上に持って行きかけ、途中でハッと銀髪の先に目を留めた。
右側の毛先が指の関節一つ分ほど焦げている。
「何ということだ」
呆然としながらブライアンは手を伸ばし、痛ましくも茶色に縮れたその部分を掬い取った。パラパラと崩れ落ちていくさまを、為す術もなく見つめる。
女性の髪が、こんなにも美しいアンジェリカの髪が、こんなふうに損なわれてしまうだなんて。
家宝の宝石が傷付いた時――いや、それ以上の衝撃だ。ブライアンは言葉もなくわずかに不揃いになった部分を凝視する。
そんな彼にかけられたのは、淡々といぶかしむ声だ。
「……大丈夫か?」
ブライアンは顔を上げ、アンジェリカをまじまじと見つめた。
それはこちらの台詞だと声を大にして言いたい。
彼はやきもきしながら彼女に訊ねる。
「怪我は? 痛むところはないのかい?」
たったそれだけの台詞を吐き出している間にも、心配のあまりに意識が遠のきそうになる。彼女の身体に一つでも傷がついていようものなら、本気で気を失ってしまいそうだ。
だが、狼狽しきったブライアンをアンジェリカは眉をひそめて見返してきた。
「少し火が強すぎて壁が軽く焦げたくらいだ。大したことはない」
「そうは言っても火事だろう!?」
「料理屋にはよくあることだ」
「よく!? こんなことがしょっちゅうあるのかい!?」
「ある。日常茶飯事だ」
彼女が、そんなに頻繁に危険にさらされているなんて。不安要素は酔っ払いだけではなかったらしい。
呆然としているブライアンに、アンジェリカはこともなげに続ける。
「あなたの屋敷でも、このくらいのことは起きているのではないのか?」
「いや、ない。少なくとも、僕は聞いたことがない」
「それはあなたの耳に届いていないだけだろう」
アンジェリカは微かに首をかしげてそう言った。
ブライアンは返事に詰まる。屋敷の中のことなど気にしたことがなかったから、本当にそういうことがなかったと言い切ることができなかったのだ。
彼が二の句を継げずにいると、厨房からひょこりとコニーが顔を出した。
「アンジー、まだ? 早くしないと遅くなっちゃうよ」
「ああ、すまない。すぐに行く」
とアンジェリカは肩越しにコニーに答え、次いでブライアンに目を向ける。
「とにかく、大したことはなかったのだから、もう少し外で待っていて欲しい。片づけたら店は開けるから」
そんな素っ気ない言葉と共に、ブライアンはさっさと外へ追い出されてしまった。
なんだか、釈然としない。彼女は完全に平常運転だ。
怖かったとすがりついてくるアンジェリカを想像していたわけではないが、少しくらいは不安を吐露したり彼に頼るなどしたりしてもいいのではないだろうか。
すごすごと店から出てきたブライアンに、野次馬の一人が呆れたように声をかけてくる。
「ちょっと兄ちゃん、邪魔しちゃダメだろ」
「邪魔……」
今まで彼に対して当てられたことのないその言葉を、呆然と繰り返した。途端、その場の者が揃って深々と頷く。
「ああ。アンジェリカがいるんだからさぁ、余計な手出しは必要ないんだって」
「そうそう、あの子はたいていのことはこなしちまうからね」
「下手な男より頼りになるんだよなぁ。あんちゃんみたいなヘロッとした奴じゃ、猫の手にもならないよ」
口々に言われても、ブライアンは「ああそうなのか」と頷くことなどできない。
「だが、アンジェリカは女性だろう。支えて、守ってあげなければ」
一瞬の沈黙。
一同は互いに顔を見合わせる。
そして爆笑。
「女性って、あんた、アンジェリカはアンジェリカだから」
「そうそう」
納得いかない。
ブライアンは眉をしかめた。
女性は非力なのだから皆守られるべきなのに。
ムウと唇を引き結んだ彼の肩が、ポンと叩かれた。
「ま、兄ちゃんもしばらく見てりゃ判ってくるよ」
また、一同が示し合わせたように頷いた。
忌憚のない意見を言えば、アンジェリカが危険な目に遭っているのをのんびりと眺めていられるようにはなりたくないと、ブライアンは心底から思った。