惑う心④
ブライアンの姿が門扉の向こうに消えた後も、アンジェリカはそこから目を離すことができなかった。
自分が口走ったこと、ブライアンの反応、それがグルグルと頭の中を回っている気がする。
思考も身体も固まったままの彼女に、不意に背後から声がかかる。
「アンジェリカ? 起きてる?」
予期せぬその声に、アンジェリカはビクッと肩を跳ね上げ振り返った。そこにいたのは、ディアドラだ。
その姿を目にして、アンジェリカは呆然と瞬きをする。
一緒に門をくぐってから出て行っていないのだから、もちろん、ディアドラはずっとここにいたはずだ。けれど、その存在をすっかり忘れていたアンジェリカは、少なからず動揺する。
返事ができずにいる彼女に、ディアドラは唇を尖らせて窺う眼差しを向けてきた。
「あのさ、あなたとブライアンって、本当におトモダチなの?」
唐突な問いに、アンジェリカはほとんど反射のようにうなずく。
「そうだ」
返事が速すぎたせいか、ディアドラは微かに目をすがめた。
「ふぅん」
疑わしげにジッとアンジェリカを見つめた後、ふいに彼女はニッコリと笑う。
「じゃあ、特別な人っていう訳じゃないのね?」
晴れやかな笑みと共にディアドラにそう返されて、今度はアンジェリカの方が首をかしげた。
「友人は特別だろう?」
アンジェリカにとって、友人と思える人は今までコニーだけだった。トッド夫妻も友人かもしれないけれども、育ててもらったこともあって、友人と呼ぶのはおこがましいような気がする。
コニーは友人で、特別で大切な人だ。
ブライアンのことも特別で大切だから、友人だ。アンジェリカがそう言うと、彼は微妙に複雑な顔をするけれど、拒否はしない。だから、友人でいいはずだ。
アンジェリカは女性で、ブライアンは男性で、周りにいる多くの男女は恋人とかそういうものになったりするようだが、通常、それはあまり長続きしない関係だ。長くてもほんの数年で別れ、また別の相手と結ばれる者たちを、幾組も見てきた。
でも、友人は違う。友人ならば、ずっと一緒にいられる。
だから、ブライアンは友人だ――友人であって欲しい。
そんなふうに自分の中で分析するアンジェリカを、ディアドラはしげしげと見つめている。
そして、また、にっこりと笑った。
「自覚はないのね……良かった」
(良かった?)
その一言は何に向けてのものなのだろう。
眉根を寄せたアンジェリカに、ディアドラが肩をすくめる。
「彼ってすごくイイ男じゃない? その上、お金持ちだし、伯爵様の跡取りだし。あたし、ちょっといいなと思ってたんだ」
なんとなく、取ってつけたような台詞だ。その口調もそうなのだが、内容にも、アンジェリカはふと違和感を覚えた。けれど、何に対してなのかが判らない。
(何だろう)
内心で首をかしげるアンジェリカが答えを見出す間もなく、ディアドラはヒラヒラと手を振った。
「何でもない。じゃあね、あたしは帰るわ。あ、まだブライアンに追いつけるかな。いい宿教えておいてあげるわね」
一方的にそう残し、彼女は軽い足取りで走り去っていく。
色々と突き付けられて半ば呆然としていたアンジェリカは、ガチャンと門扉が閉まる音で我に返った。彼女は、ほ、と小さく息をつき、門まで行って閂をかける。
この短い時間の間にあった遣り取りで、何だか頭が飽和状態だ。
アンジェリカはもう一度小さくため息をついて、冷たい格子に額を押し当てた。
しばらくそうしておいてから、顔を上げる。振り返って、建物を、そして庭を見渡した。
そもそも一人になったのは、記憶を新たにするためだ。それをしなければ。
アンジェリカは自分にそう言い聞かせて気持ちを切り替えると、目に入る光景一つ一つを確かめる。
この前庭は、遊ぶ場所ではなかった気がする。確か、裏の方に遊具などがあったはず。
ぼんやりとした記憶をもとに、アンジェリカは歩き出した。ここのところずっと兄やブライアンと一緒にいたから、一人になれたことになんとなくホッとする。
外から見た通り、敷地内はかなり広い。塀までも距離があるから、多分、小さいころにはその高さに気付かなかったのだろう。
ゆっくりとした足取りで見えるものを確かめながら歩いていても、あまり蘇ってくるものはない。
建物の正面から横に回り、しばらくすると本館とは別の構造物が見えてきた。
それは木で作られていて、本館の二階、もしくは三階分ほどの高さで、梯子で上に登れるようになっている。
(これ……)
梯子の真下に立って、アンジェリカは仰ぎ見た。
これには、見覚えがある。
束の間思案してから、彼女はスカートをたくし上げて軽く縛ると、梯子に手をかけ登り始めた。
上まで行ってみると、結構な高さがあった。手すりにつかまって身を乗り出すと庭のかなりの部分を目視でき、加えて、塀の向こうまで見渡せる。
来るときには気付かなかったけれども、この孤児院は街中よりも高いところにあるようだ。ここからだと街並みも一望できる。
アンジェリカは手すりに手を乗せ、食い入るようにその光景に見入った。
次第にむくむくと湧いてくる、記憶。
(そうだ、ここから、眺めていたんだ)
庭で遊ぶ他の子がかけてくる誘いにも首を振り、毎日この場所で、街から誰かが……兄が迎えに来てくれないかと、期待を込めて塀の外を見つめていた。
結局、現れたのはトッド夫妻だったけれども。
はるばるここまで迎えに来てくれた夫妻は、涙をにじませながらアンジェリカを抱き締めて、「迎えに来たよ」と言ってくれた。
その時の、嬉しさと、ほんの少しの寂しさ。
自分が帰る場所はもう両親の下ではないのだと、アンジェリカはその瞬間に実感したのだと思う。
きっとそれまでは、彼らの死を本当には受け入れていなかったのだろう。
遠い過去を思っていたアンジェリカの頭は、いつしか、『今』に戻り始める。
『ブライアンに嫌われたくない』
ふいに耳の中に蘇った己が放った台詞に、グッと息が詰まった。
どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。
たとえ本当のことでも、自分がそんなことを口にするとは、思ってもみなかった。
あの思いが胸の中にあったことは、否定しない。言葉にしたら、確かに実感した。
けれど、胸の中にあることとそれを吐露することとは、まったく別の話だ。自分があんな弱音を吐くなんて、アンジェリカには信じられなかった。
(そう、アレは弱音だ)
紛れもない、弱音だ。
そんなものを、この口が吐き出すとは。
いっそ、二度と開かないように縫い付けてやりたくなる。
(でも、ブライアンには、そういうところがあるんだ)
独り言ち、アンジェリカは唇を噛んだ。
彼は、アンジェリカの弱いところを引き出してしまう。時々、本当に時々、彼に寄り掛かってしまいたくなる。
――きっと、それが彼女を不安にさせ、彼に対して嫌な態度を取らせるのだ。
同じ友人でも、コニーにはそんなところはない。彼女はアンジェリカが守ってあげる存在で、支えてあげる存在だ。彼女といると、アンジェリカは安心できた。
そこでふと生まれる、疑問。
では、何故、同じ『友人』で、違うところがあるのだろう。
ブライアンは友人で、友人には嫌われたくない。
もちろん、そうだ。
(でも、コニーに対してそんなふうに思ったことが、あった……?)
頭の片隅で、そんな声が囁いた。それは、どこかディアドラのものに似ていて。
「あったに、決まってる」
つい、声に出た。
何だか言い訳がましく聞こえたその声に、アンジェリカはムッと眉間にしわを寄せる。
頼る気にはならなくても、嫌われたくないとは、きっとコニーに対してだって思っている。
そうに、決まっている。
だって、コニーもブライアンも、同じ『友人』なのだから。
と、そこで、ずいぶんな勢いでこちらに向かってくる一台の馬車が目に入ってきた。箱型馬車だけれども、御者の隣に女性が乗っているのが見て取れる。
そして、その女性は――
「ディアドラ?」
たった今去っていったばかりの彼女が、あんな勢いでどうしたというのか。
首を傾げたアンジェリカだったけれども、ディアドラが孤児院に用があるとは思えない。戻ってきたのは、アンジェリカたちの為だろう。もしかしたら、ブライアンは中に乗っているのかもしれない。
いずれにせよ、門を開けてあげる必要があるだろう。
アンジェリカは些細な疑問は全て胸の奥へと押しやって、物見台を下りて門へと急ぎ戻った。




