惑う心③
「じゃあ、行ってくるから」
門番の男に案内されて馬を厩に入れた後、ガブリエルは男と一緒に建物の中に入っていった。
それを見送った後、ブライアンは軽く首をかしげるようにしてアンジェリカを見下ろしてくる。
「アンジェリカは庭を見るのかい? 建物の中はいいの?」
問われて、彼女はこくりとうなずく。そうして、庭に目を遣りながら答えた。
「少し、一人になりたい。中には子どもたちがいるだろうから」
こうやって十年前に過ごして場所に佇んでいると、自分の中のどこか一部分が、その時間に戻っていくような気がする。それをもっと、確かなものにしたい。それには、『今』の人は傍に居て欲しくなかった。
気もそぞろにそう答えたアンジェリカに、ブライアンは目をしばたたかせる。
「一人……えっと、僕も一緒にいていい?」
ためらいがちの申し出に、彼女はわずかな間を置いただけで、かぶりを振った。
「すまない、一人で見て回りたいから」
「そっか……うん、判った。じゃあ僕は街の方に戻って宿でも探してこようかな。またここに戻ってくるから、ガブリエルにもそう伝えておいてよ」
口早にそう言って、ブライアンは門扉の方へと踵を返す。
彼のその様子が、チクリとアンジェリカの胸を刺した。
「ブライアン……?」
呟くように名を呼んだけれども、彼は振り向かない。
アンジェリカに見えるのは彼の背中だけだ。どんな顔をしているのかは、判らない。けれども、わずかに落ちたその肩に、アンジェリカの胸がまた疼く。
ふいに、今までのことが脳裏によみがえった――旅を始めてから、彼に対して嫌な態度ばかり取ってきたことが。
今のは単に一人になりたかっただけで、他意はない。
けれど、果たしてブライアンはそう受け止めただろうか。
アンジェリカが何を言おうと、どんな態度を取ろうと、そのたびにブライアンは大らかに受け止めてくれた。今度もきっとそうしてくれるだろう。
――けれど、いつまでも彼の心の広さに甘えているわけにはいかない。
せめて、言葉にできる範囲のことだけでも、伝えよう。
アンジェリカはそう自分に言い聞かせる。
「ブライアン」
先ほどよりも大きな声で呼びかけると、門扉の前まで行っていた彼は不自然なほどの速さでパッと振り返った。
(さっきのは、聞こえていなかっただけ、か?)
聞こえていないふりをされたわけではなかったことに、アンジェリカは不思議なほどにホッとする。
ホッとしたことに、眉をひそめた。
と、そんな彼女にはまるで気付いたふうもなく、ブライアンはこちらに向き直る。
「何だい?」
アンジェリカの言葉を待つブライアンの眼差しは、期待に満ち満ちている。彼がどういう返事を望んでいるかが判っているだけに、また、アンジェリカの心臓が細い針でチクチクと刺されるような感覚に包まれた。
「その、一人になりたいというのは単純に一人になりたいというだけであって、ブライアンといたくないという訳ではないから」
「え、あ、そっか。……うん」
やはり、彼の期待にはそぐわないことを、アンジェリカは口にしたらしい。フワフワとした柔らかな金髪が、心なしかしおれて見える。
どうしよう、ここでやめておくべきか。
束の間迷って、アンジェリカはまた口を開いた。
「ブライアン、私は、あなたといると心地良い。それは本当だ。落ち着くし、傍に居て欲しいと思う」
その瞬間、ブライアンの全身が光を放ったように見えた。
「アンジェリカ――」
戻ってこようとしたブライアンを、片手を上げて制止する。
「けれど、時々、あなたといると、無性にイライラする。今まで変な態度を取ってしまっていたのは、その為だ」
刹那、ピタリと、指の先まで凍り付いてしまったかのように、彼が固まった。
アンジェリカは急いで残りを続ける。
「でもそれは、あなたのせいじゃない。問題は、私の中にあるのだと思う」
そう、ブライアンは、一緒にいて心地良いと思わせてくれるだけだ。何一つ、アンジェリカに対して嫌なことなどしやしない。
けれど、せっかく彼が心地良さを与えてくれても、アンジェリカの中にある何かが、それを受け取ることを良しとしない。心の奥にある何かが、彼が与えてくれる心地良さを拒んでいる。
それは、けっして、ブライアンのせいではないのだ。
だからこそアンジェリカは早くその『何か』を解き明かしたいと思う。このままではいたくないと、彼に対してもっと違うふうに接するようになりたいと、切に望んでいる。
どうなりたいかは、自分でもまだ判っていないけれども。
アンジェリカの言葉をきっと一言一句漏らさず聞き届けているに違いないブライアンは、微動だにしない。何も言わず、彼女をジッと見つめている。
――彼があまりに動かないから、アンジェリカは不安に襲われた。
「……怒った?」
おずおずと投げた問いに、ブライアンが目をしばたたかせる。
「怒る? いや、まさか。何で?」
彼は心底からそう思っているようだった。
アンジェリカは目を伏せ、答える。
「私は、理不尽なことを言っているから」
すぐには、応えはなかった。そして彼が立ち去る気配もない。
けれど、視線だけは感じていた。真っ直ぐに注がれている、視線を。
チクチクと刺さってくるようなそれに負けて、アンジェリカはそろりと顔を上げる。
目が合っても、ブライアンはほんの少しも揺らがなかった。いつものように緩い笑みを返してくることもなく、ジッと彼女を見つめている。
と、その手がピクリと動いた。
半ばまで持ち上げられたそれはほんの一瞬だけ止まり、また、動く。
ためらいがちに上げたその手の指の背で、ブライアンはそっとアンジェリカの頬に触れた。
ほんの、ひと撫で。
それだけでまた手を下ろし、彼はアンジェリカを見つめたたまま、微笑む。
「これだけは覚えておいて、アンジェリカ。僕は、あなたが何を言おうが何をしようが、僕があなたに対して怒ったりあなたのことを疎んじたりすることはないよ」
そう言ったブライアンの新緑色の眼の中には真摯な光だけがあって、その輝きに、アンジェリカの中の何かがホロリと崩れたような気がした。
その瞬間。
「私は、ブライアンに嫌われたくない」
考えるより先に、口からそんな言葉が零れ落ちた。
(私は、今、何を……?)
脳みそが静止状態になる。
「え――?」
固まったアンジェリカの前で、ブライアンが瞬きを一つする。
言うつもりも、言うと思ってもいなかったことを言ってしまって呆然としているアンジェリカの目を、彼が覗き込んできた。そうやってしっかりと目を合わせた後、ふと微笑む。それは、ほとんど苦笑と言ってもいいような微笑みで。
「あなたを嫌いになるなんて、不可能だ。僕は絶対に、あなたを嫌いになんてなれないよ」
ブライアンは囁くような声でそう言って、一歩後ずさる。そして、あと一歩。アンジェリカを見つめながら数歩離れ、そして、踵を返す。
そうしてスタスタと大股で門の前まで行った後、ブライアンは半分だけ振り返った。
「じゃあ、行ってくるから。僕が出たら閂を頼むよ」
固まったままのアンジェリカにそれだけ言って、彼女の答えは待たずに門を押し開いて行ってしまった。




