惑う心①
だいぶ葉が落ちた森を抜けた後は一転視界がひらけ、目の前にはなだらかな起伏を見せる平原が広がった。ところどころに樹が群生しているのが遠目に見て取れたけれども、それはもう『森』とは違う。『林』ですらない。
建物が立ち並ぶ王都でも、岩山続きのノールス地方でもお目にかかれない広い視野に、アンジェリカは馬上で小さく息を呑んだ。
それを感じ取って、アンジェリカの後ろでディアドラが笑う。馬への負担を考えて、飛び入り参加の彼女はアンジェリカに同乗していた。
「ここから先は、もうずっとこんな感じだよ」
ディアドラの言葉に、アンジェリカは目をしばたたかせる。
「何だかすごい」
思わず、ため息がこぼれた。
馬の背の上で視点がいつもよりも高いことも相まって、とても、世界が広く感じられる。
王都からハイヤーハムまではかなりの駆け足だったけれども、ハイヤーハムからはゆっくりめの――とはいえ、のんびりと、とはいかないが――移動になっていた。
その上、今朝からはあまり馬には乗り付けていないらしいディアドラも同行しているため、常歩に気を持った程度の速さしか出していない。そうなると多少は風景に目を遣る余裕もあって、アンジェリカは手綱を握ったままグルリと見渡した。
時期がらさすがに緑は乏しいものの、同じ褐色でも、岩山とは違ってどこか柔らかな印象だ。多分、枯れているとはいえ、草が生えているのだろう。
遠くへ視線を送っていたアンジェリカは、ふと目をすがめた。
(……あれは?)
よく見れば、緩やかに隆起する丘には、点々と何か白っぽいものがウロウロしている。モコモコとした塊に脚がついているようにしか見えないけれども、明らかに何かの生き物だ。
アンジェリカが知っている動物といえば、馬、そして犬猫鼠くらいで、そのどれとも違う。
何だろうと思いつつアンジェリカがジッとその方向を見つめていると、ブライアンが隣にやってきた。
「何を見ているんだい?」
彼は彼女に視線を合わせて首をかしげる。
アンジェリカは見ていたものを指さした。
「あれは何?」
「あれ? ああ、そうか、コールスウェルにいたことがあったとしても、街中から出たことがなかったなら見たことがないよね。あれが羊だよ」
「羊」
「そう。サウェル地方は羊毛と牧畜、農業が盛んだから。前に言わなかったっけ? 僕のところの領地の特産品だって」
あれが。
羊という動物の毛皮が毛糸になるということは知っているけれど、あのモコモコの塊がどうやって糸になるのだろう。
アンジェリカには想像もできなくて、馬を進めながらも羊たちから目を離すことができなかった。と、少し笑いを含んだブライアンの声が、続けて教えてくれる。
「おとなしい生き物だから、近寄っても大丈夫だ。触ることもできるけど――まあ、あまりお勧めはしないな」
「何故?」
「アンジェリカはフカフカな手触りを想像してるだろう? でも、何ヶ月も野ざらしになってるわけだし、実際はごわごわしてて、ちょっと汚い」
「そうよねぇ。まあ、奥の方は結構綺麗だけど、ダニとかはいるしね」
ブライアンの言葉に、ディアドラも頷いた。
二人から同じ意見をもらい、アンジェリカは微妙にがっかりした気分になる。多分、彼が言う通り、フワフワと柔らかな、雲か何かを思わせるような感触を想像していたせいだろう。
彼女の顔を見て、ブライアンがクスリと笑う。
「刈って洗った後の羊毛を、いつか触らせてあげる。それは確かに気持ちいいよ。きっとあなたの期待通りだと思う。毛刈りの時期は初夏だから、ちょっと先になるけど。ああ、そうだ、子羊でもいいかな。すごく可愛いから」
そう言って、どう? とブライアンが首をかしげて目で問いかけてくる。
アンジェリカも、そうできればいいのに、と思う。
思っても、ここまで来ることはきっともう二度とないだろうから、子羊は無理だ。けれど、羊毛はちょっと触ってみたい。
その気持ちを声には出していないはずだったけれども、アンジェリカを覗き込んでブライアンが嬉しそうに顔をほころばせる。
「じゃあ、来年にね」
「ありがとう」
うなずいたアンジェリカに、ブライアンが微笑んだ。
そこに、ディアドラの声が。
「二人って、すごく仲良いのね。どういう関係なの?」
彼女はアンジェリカの後ろにいるのでその表情を見ることはできないが、不思議がっているのはその声の調子から伝わってきた。確かに、服装は質素でも物腰は明らかに上流階級の人間であるブライアンといかにも平民なアンジェリカが一緒にいるのは、奇妙な状況だろう。訊ねたくなるのももっともだ。
けれど、この質問は、以前にもガブリエルから受けたことがあるし、答えも決まっている。
「え、あ……」
「友人だ」
ブライアンが迷ったように口ごもるのに被さるようにして、アンジェリカは自信を持ってすっぱりと答えた。
「ふぅん?」
ディアドラの相槌。
そして。
「そうなの?」
また、背後から声がした。けれど、どうやらそれはアンジェリカではなくブライアンに向けられたものだったようで、隣を歩く彼が仕掛けが壊れた操り人形のようにコクリとうなずいた。
「うん……そうなんだ……」
続く、はは、と力のない笑い。
見れば、その笑い声にそぐった表情だ。
この類の話題になると、ブライアンはいつもこういう顔になる気がする。
(以前にも同じような遣り取りをしたときには、友人でいいのだと言っていたのに)
しかし、あの時も微妙に面白くなさそうで、今も納得がいっているとは程遠い顔だ。
(だったら、どう答えればいいというんだ?)
今後の為にもブライアンに確認しようとした矢先、少し先を行っていたガブリエルが呼びかけてきた。
「そろそろ、ディアドラも馬に慣れてきたんじゃないか? このままだと夕までにコールスウェルに入れないから、少し足を速めたいのだが」
その言葉に、アンジェリカは反射的に空に目を走らせた。
確かに、昨晩早くに休んだ分、今日は夜が明けると同時に動き始めたのだけれども、陽はもう真上に来ようとしている。日も短くなっている時期だし、コールスウェルに着く前に暗くなってしまうかもしれない。
「ディアドラ、大丈夫か?」
「えっと……多分、大丈夫だと思うわ」
若干心許ないその返事と共に、彼女はアンジェリカの腰に回した腕に力を込めた。
「できるだけ揺らさないようにするから」
「お願いね」
アンジェリカは肩越しにディアドラを振り返って、小さくうなずいた。
そこでふと、先ほどの疑問があやふやになっていたことを思い出す。
馬に合図を出す前にアンジェリカはチラリとブライアンに目を走らせたけれど、見えたのは、すらりと伸びた彼の背中だけだった。




