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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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幕間・その五:大天使の危惧

 アンジェリカが眠りに落ちた後は、ブライアンとガブリエルの時間だ。


 安眠を妨げないようにと彼女が眠る場所から少し距離を取り、二人きりで向かい合う。

 といっても、のんびりと酒でも酌み交わし親交を深めようという訳ではない。


「敵を倒すには、相手の動きを読むこと、そしてこちらの動きを読まれないことが肝要だ」


「……」


「身体の動きは視線に現れる。狙おうとする場所を無意識に見てしまうものだ」


「……」


 ガブリエルはみぞおちを押さえてうずくまるブライアンの前に立ち、淡々と言葉を降らせるだけだ。多分、返事は期待していない。


 ブライアンがまさに地に額をこすりつけんばかりにしてガブリエルに鍛錬の相手を頼み込んだのは、旅を始めて四日目の夜だった。慣れぬ長時間の乗馬の疲れも取れ、アンジェリカが眠りに落ちた後にも彼が意識を保っていられるようになった頃。

 鍛えて欲しいと乞うたブラアインに、当然、ガブリエルは、何故自分が、と顔中に書いて答えてくれた。

 そこに懸命に追いすがり、どんなやり方でも良いから、と言ったブライアンにガブリエルが妙に嬉しげにキラリと目を光らせたのは、気のせいではなかったと思う。


 以来、無防備そのもののガブリエルに挑むのはもう何度目か。だがしかし、未だ彼には拳ひとつかすめることができていない。今も返り討ちでみぞおちに鋭い一撃を食らったところだ。


 今日の昼間の遣り取りでアンジェリカはさっぱり気づいていなかったことが立証されたが、この鍛錬という名のしごきは、彼女が眠りに沈む中、毎晩繰り返されている。

 普段のアンジェリカを見るにつけ、てっきり彼女は微かな気配にも反応して起きてしまうものだとブライアンは思っていたが、一緒に旅をしてそうではないことを知った。彼女は一たび眠りに落ちるとちょっとやそっとでは目覚めない。意外だったが、そんな彼女は実に可愛い。意外性のせいで、可愛らしさ五割増しだ。


 しかし、いくら眠りが深いとはいえ、ブライアンが悲鳴を上げたらさすがに起きてしまうだろう。

 なので、ガブリエルから反撃を受けるたび、こうやって声を殺して悶絶することになる。


(まあ、出せないってのもあるけど?)

 胸の内でそう呻き、ブライアンは奥歯を噛み締めた。

 そういう打ち方なのか、さして力が入っていないように見えるガブリエルの拳が当たった瞬間、息が詰まって呻き声すら漏らせなくなるのだ。


 ブライアンが浅い息を繰り返し、何とか呼吸も整い始めたところで、ガブリエルがそれまでとは少し違う声音を放つ。

「しかし、ボールドウィン伯爵は師としても優れているようだな」

「え?」

「貴様が彼の下で修練を始めてから、半年そこそこなのだろう? それにしては、身体ができている」


 ブライアンは、我が耳を疑った。


(これは、褒められているのか?)

 一瞬舞い上がったブライアンだが、待て待てと自分を鎮める。

(いや、褒めているのはボールドウィンのことなのか……?)

 ぐうたらだったブライアンをこの短期間で鍛え上げたことを称賛しているだけに過ぎないのかもしれない。


 きっとそうに違いない、と結論付けてからガブリエルを見上げると、彼は何やら難しい顔をしていた。

「ガブリエル?」

 やっぱりさっきのはブライアンのことも褒めていて、言ってしまってから言わなきゃ良かったと後悔しているのだろうか。


 別に褒めるなら褒めてくれたらいいのにと思いつつガブリエルを見つめていると、眉間にしわを寄せたまま、彼はブライアンに目を戻した。


「あの薬師をどう思う?」

「薬師?」

 唐突な話題転換に、ブライアンは何のことかと目をしばたたかせた。そしてすぐに納得顔になる。

「ああ、ディアドラのことか。魅力的な人だよね」

 小柄で華奢でそよいだ風にも倒されてしまいそうな風情のアンジェリカとは全く違って、ディアドラはスラリと長身で豊満な身体つきをしている。分厚い外套の上からでも高く盛り上がった胸は見て取れたし、ここまで運んできたときには抱えてもいたから、腰は驚くほどにくびれていることも知っている。


「笑顔が素敵だし、外套で隠れているけど、なかなか……」

 そこまで言って、周囲の気温がガクリと下がった気がした。


「ほぅ?」

 耳に届いた地の底を這うような短いその一言に、ブライアンの背筋に強い冷気が走る。

「そうか、貴様は彼女のような女性が好みなわけだ。では、アンジェリカなどまったく眼中にないのだな」

 ガブリエルは、鼻の先から見下ろすような冷ややかな眼差しをブライアンに投げつけながら、言った。その視線の冷たさもさることながら、台詞の内容に彼は泡を食う。

「え、ちょっと待ってよ、なんでそうなるんだい!?」

 思わず声を張り上げてしまって、ブライアンは慌てて口を両手で押さえた。振り返って焚火の方を窺ったが、女性二人はすやすやと眠ったままのようだ。


 ホッと安堵の息をついたブライアンに、この上なく鋭利な声が更に降り注ぐ。

「夕食の時も楽しそうに笑み交わしていたではないか。他の女性にうつつを抜かすような男にアンジェリカを委ねるわけにはいかんな」

「笑み交わしてっていったって、あんなの、普通だろ? 日常会話というか礼儀の範疇というか、別に深い意図なんて――」

 言いかけて、ブライアンはハタと気が付いた。

「もしかして、アンジェリカ気にしてた?」

 もしもそうなら、少し、ほんの少しばかり、嬉しいかもしれない。


 良くない期待に胸を弾ませたブライアンに返されたのは、侮蔑に満ちた眼差しだ。

「あの子は彼女のことは気にしていない。微塵も」

「そうだよね……」

 ブライアンはガクリと肩を落とす。アンジェリカが彼に焼きもちなど焼いてくれるはずがない。そんなことは判りきっていたけれど、期待してしまっただけに、落胆もひとしおだ。


 思わず地面にのの字を書きそうになった彼に、わずかな間をおいてガブリエルが続ける。

「――だが、貴様のことは気にしている」


「え?」

 耳を疑い、ブライアンは眉をひそめた。今、とてつもなく奇妙な台詞を聞いたような気がする。

 幻聴か、もしくは願望かもしれないと自分を宥めた彼だったが、しかし、ガブリエルはどこか考え込むような眼差しで続ける。


「あの子は前とは変わった」

 その言葉はブライアンにというよりもガブリエル自身に聞かせているような風情だった。束の間迷って、ブライアンはためらいがちに声をかける。

「記憶が戻ったからじゃないのかい?」

 戻りきってはいないとはいえ、それはアンジェリカにとってとても大きな変化のはずだ。

 だが、ガブリエルは即座にかぶりを振る。

「それ以前からだ」

「それ以前?」

「ああ。旅が始まってから――あるいは、旅に出る前から」

 確かに、アンジェリカと出逢ってから、じわじわとブライアンと接するときの彼女の雰囲気は柔らかくなってきているが、それは彼に対する変化だけではなかったということなのだろうか。

 その変化は自分に打ち解けてきてくれたからだと思っていたブライアンは、少々、いや、かなり、がっかりする。


 そんな彼を冷ややかに一瞥して、ガブリエルは面白くなさそうな声で言う。

「アンジェリカは、今まで、トッド一家と私以外、誰も近付けようとはしなかった」

「はい?」

「誰にでも手を差し伸べるが、誰の手も望まない。そんなあの子が、この旅への貴様の同行を望んだのだ。そのことにどれだけ私が衝撃を受けたか、解かるか!?」

 押し殺してはいるものの、腹立たしいこと極まりないという気持ちがありありと伝わってくる声でそう言ったガブリエルは、ブライアンの胸倉をつかみ上げんばかりの形相だった。秀麗な容貌なだけに、鬼気迫るものがある。


「えぇっと……」

 何をどう答えても縊り殺されそうな気がして、ブライアンは曖昧に言葉を濁した。と、それが正解だったのか、しばし彼を睨んだ後に深々と一息ついて、ガブリエルが表向きだけは平常運転に戻る。


「いいか、あの子は変わった。そしてあの子を変えたのは貴様だ。その責任は取れ。もしもあの子を悲しませるようなことがあれば、この手でその首を落としに行く」

 月明かりでギラリと光ったその眼は、真剣この上ない。きっと、一滴ひとしずくでもアンジェリカに涙を落とさせるようなことがあれば、ブライアンは翌朝にはこの世からおさらばしていることだろう。

 だが、それは、何もガブリエルが手を下すからではない。

 ブライアン自身、彼女を悲しませるようなことがあれば自分を赦しはしないからだ。


 彼は立ち上がり、ガブリエルと目の高さを等しくさせた。

 そうして、きっぱりと断言する。

「そんなことには、ならないよ。僕が彼女を傷つけるなんて、絶対にない」


 ブライアンの宣言に、ガブリエルは無言のままだった。唇を結んだまま、ブライアンの胸を切り開いてその奥にあるものを全て暴き出してしまうような眼差しを、注いでくる。

 その眼差しを、ブライアンは顔を上げて受け止めた。


 男二人はしばし睨み合う。

 互いにほんの僅かばかりも視線をゆるがせることなく、短くはない時が流れた。


 不意に、ガブリエルが小さく息をつく。

「……あの子は、まだ何か抱えている。何かが、あの子を苦しめている」

 彼は微かに目をすがめてブライアンを見た。

「貴様のせいかと、思っていたが、そうではないようだ」

「僕のせい?」

「ああ。旅を始めてしばらくの間は、貴様との距離感に戸惑っているのかと思っていた。それも確かにあるが、その奥に、何かがある」


「それは……」

 もしかしたら、戻り切っていない記憶のせいかもしれない。

 そう言いかけて、ブライアンは口をつぐんだ。

 多分、アンジェリカはそのことをガブリエルには伝えていない。彼女が打ち明けてくれたことを、勝手に話してしまうわけにはいかない。


 そんなふうに不自然に言葉を切ったブライアンをしばし見つめ、ガブリエルが焚火の方へ――アンジェリカが眠る方へと眼を送った。

「……全てが明らかになった時には、あの子はもっと苦しむのだろう」

 ガブリエルの呟きは、アンジェリカが何かを秘しているということに、いや、秘していることの中身さえ、知っているかのような口調だった。


(いや、気が付かないわけがない、か)

 ブライアンは内心で苦笑する。

 もしかすると、目の前のこの男はアンジェリカも気付いていないようなことも、もう気付いているのかもしれない。


『全てが明らかになったとき』

 その『全て』には、どんなことが隠れているのだろう。


 願わくは、それが解き明かされることでアンジェリカの重荷も消え去ってくれるものであって欲しい


 ブライアンはガブリエルの隣に立ち、焚火の灯りに照らされる小さな寝姿を見守った。

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