あやふやな記憶①
ハイヤーハムを出て、七日が経った。
だいぶ南の方へ来たのと平野部に入ってきたせいか、ハイヤーハムほどの冷え込みはなく、天候も青空が増えている。七日前に比べれば、かなり過ごしやすくなった。
けれど、その空とは裏腹に、アンジェリカの心の中には重苦しい雲がたちこめている。
並足で歩く馬の背の上で揺られながら、アンジェリカは前を行くブライアンの背中をジッと見つめた。しなやかに伸びたその姿勢の美しさは、貴族という、彼の生まれによるものなのだろう。一朝一夕で身に着くものではなく、幼いころから叩き込まれた、あるいは、持って生まれた天性の、もの。優美さよりも頑丈さを優先させて選んだ馬にまたがって田舎道を進んでいるにも拘らず、ブライアンはまるで血統正しい駿馬に乗って、上品な都の公園を散策しているかのようだ。
真っ直ぐに伸びた背筋は変に力が入っているわけでもなく、自然で柔軟で優雅だった。
――その姿は彼そのものようだと、アンジェリカは思う。
ハイヤーハムを発つ前日、両親が命を落とした崖下を訪れた、あの日。
アンジェリカはブライアンを傷付けた。
彼女の拒絶の言葉に、そうは見えなかったけれども、ブライアンはきっと傷付いたはずだ。
それに対して、アンジェリカは、まだ彼に謝ることができていない。
(でも、ブライアンも悪い)
筋違いな言い分だと判っていても、アンジェリカはブライアンの背中を睨みつけて胸の中でそう呟きをぶつけた。
アンジェリカだって、謝ろうと試みたのだ。この七日の間に、何度も。
けれどブライアンがあんな遣り取りなどまるでなかったかのようにごくごく自然に振舞うから、彼女は謝罪の言葉を口にするきっかけを見いだせなかったのだ。
(もっと、こう、ぎこちない素振りとか、気まずげな態度とか、怒っている口調とか)
心に何か抱いているのだというのを雰囲気だけでもいいからブライアンが見せてくれたなら、アンジェリカだって謝り易いのに。彼はいつもと全く変わらず平然と話しかけてくるし、気遣ってくるし、手伝ってくる。
図太いというか、めげないというか。
でも、思い返してみれば、ロンディウムにいたころからブライアンはそうだった。
アンジェリカの素っ気ない態度に大抵の男性はすぐに離れていくのに、彼は毎日笑顔で猫の目亭に通っていた。
いつだったか、孤児院に怒鳴り込んできた男に叩きのめされたときは数日間姿を見せなかったことがあったけれども、それだって、復活したらさらに前向きになって帰ってきたし。
(つまるところ、彼は強い人なのだ)
アンジェリカは、唇を噛む。
ブライアンが持つ強さは、殴りつけられても跳ね返す、鋼のようなものではない。
彼が持つのは、その姿勢に表れているように、どんなに激しい風が吹こうとも受け流してしまう葦のような、しなやかな強靭さだ。
アンジェリカには、それがない。
確かに、自分よりも遥かに屈強な男たちを叩き伏せる力はブライアンよりも持っている。
けれど、それは本当に『強さ』と呼べるものなのだろうか。
相手を打ち負かす力――彼女が求めているのは、求めてきたのは、そういうものなのだろうか。
今までほんの少しも揺らぐことのなかった自分に対する信頼が、ここのところ急速に揺らぎつつあった。ブライアンと過ごすときが増えるほど、そんな気持ちの揺れや迷いが増えていく。
彼のことはけっして嫌いではないのに。むしろ、一緒にいることは嬉しいと思っているのに――そのはずなのに。
彼といることで増していく自分の不安定さが、受け入れ難い。
特に記憶がよみがえってからが、顕著だった。突然色々思い出してまだ気持ちの整理がついていないのか、胸の奥が落ち着かない。
ちゃんと思い出したはずなのに、何かが足りていない気がする。それも、とても大事な、何かが。
もしかしたら、ブライアンのことで必要以上にイラついてしまうのは、その不全感によるところもあるのかもしれない。
(思い出していないところがあるというのなら……抜けている記憶は、何なのだろう)
アンジェリカは、ままならないこの頭の中に手を突っ込んで、必要なものを引っ張り出してくることができたらいいのに、と思う。
あるいは頭を切り開いて、隅々まで調べてしまうとか。
実際にはそんなことはできないから、もどかしさばかりが募る。
はっきりと思い出したのは、激しく揺れる馬車の中にいた時から、茂みに隠れるところまで。そこから少し空いて、次はもう見知らぬ男と馬上にいた。そしてコールスウェルの孤児院に連れていかれ、欠落した記憶を抱えたままトッド夫妻が迎えに来るまではそこで大きな問題もなく過ごしていた。
その記憶は、もう、自分でも驚くほどに鮮明になっている。
未だあやふやなのは――
(どうして、あの時、私たちは馬車に乗っていたのだろう)
アンジェリカは自問した。
両親が選ぶ移動手段は、徒歩がほとんどだった。急ぐときには馬を使ったけれども、それも多くはない。基本的には、気ままでのんびりした旅だった――今思えば、単にそう装っていただけだったわけだけれども。それは置いておいて、とにかく、めったに使うことがない馬以上に、馬車を使うことは稀だった。
(だったら、どういう経緯で、馬車になったのか)
ズキンと頭が痛み、アンジェリカの脳裏に映像が浮かぶ。
幼い自分を連れて両親がハイヤーハムを発つときは、確かに歩きだった。旅芸人の一家を見送ってくれる街の皆に、アンジェリカは満面の笑みを浮かべながら手を振って。
そこから事故までに、何かがあった。
(それは、何?)
また、パッと浮かんだ父と母の姿。アンジェリカが何をしても声を荒らげることのない彼らが、激昂して誰かに何かを言っている。
その相手は、彼女ではなかった。
(では、誰……?)
アンジェリカは母の陰に隠れて、険しい口調で相手に何かを言っている父の背中を見つめていた。
聞いたことのない、まるで狼の唸りのような、父の声。
怖かった。
怒っている父が、ではなくて、そこまで父を怒らせている何かが、怖かった。
恐怖からか、記憶が揺れる。
まるで、見たくないと頭の芯が拒んでいるかのように。
今や頭痛は脳を掻き回すがごときになっており、吐き気も伴っている。それでも、アンジェリカは水の中で揺蕩う幻のような映像を追った。
が。
「アンジェリカ? どうしたの?」
不意に名前を呼ばれて彼女は現在に引き戻される。
眠りから覚めた時のように瞬きをしながら顔を上げると、馬首を巡らせてこちらに来ようとしているブライアンとガブリエルがいた。いつの間にか、アンジェリカの馬は足を止めていたようだ。
「アンジェリカ、具合が悪いのかい?」
訊ねてきたブライアンは眉を曇らせている。彼はアンジェリカの隣に馬を並べると、身を屈めるようにして彼女を覗き込んできた。
間近にあるその緑の眼差しに、アンジェリカの心がホッと和らいだ。和らぎ、次の瞬間、強張る。ブライアンの存在に依存しているかのような自分に、気付いて。
「顔色が悪いよ。ねぇ、ガブリエル、今日はもう休んだ方が――」
兄を振り返ってそう言いだしたブライアンを、アンジェリカは尖った声で遮る。
「大丈夫だ」
「でも」
「大丈夫だから!」
はね付ける口調となってしまったアンジェリカの声に、ブライアンが目をしばたたかせた。
向けられた当惑の眼差しに、彼女は自分が必要以上に強い反応を示してしまったことを悟る。
「あ……」
(また、私は)
唇を噛んで黙り込んだアンジェリカをブライアンはしばし見つめ、そして少し眉尻の下がった笑みを浮かべた。
「ごめん。でも、やっぱりあなたのことが心配なんだ」
心の奥に滲み込んでくるような囁きに、アンジェリカは突かれたように顔を上げる。
「ブラ……」
呼びかけようとした声はかすれて、途切れた。それはブライアンには届かなくて、もう彼女に背を向けていた彼は手綱を繰ってアンジェリカから離れて行ってしまう。
「ガブリエル! 今日はもう休もう。どうせ明日にはコールスウェルに着くだろうから、もうそんなに急がなくてもいいだろう?」
「そうだな。この辺りなら野宿もしやすい。この先に、小さな川があるはずだ」
子どもじみた態度を取ってしまったことに身の置き所がないような心持でいるアンジェリカをよそに、男二人は勝手に話を進めている。
アンジェリカはブライアンの背を見つめて、唇を噛んだ。
(また、私はひどい態度を……)
ブライアンは悪くないのに。
何一つ、悪くないのに。
アンジェリカは、胸の中に棲む、嫌というほどそれを理解し認めている自分と、ブライアンが差し伸べてくれる手を拒んで小さくうずくまる自分とに、我が身を裂かれているような気がした。




