幕間・その四:失われた天使の笑顔
崖下から街道へと戻ったブライアンたちは、馬車へと乗り込んだ。ヘニングが御者台で手綱を握り、並んで座ったガブリエルとアンジェリカの向かいにブライアンが座る。
走り出した馬車の中、ガブリエルは取り敢えず今晩のところは宿でゆっくりと休んで、明日になったら今後の方針を考えようと提案した。アンジェリカは不満そうな顔をしていたものの、兄の決定に逆らうことはできないらしい。無言でうなずいて座席に身を沈めた。
しかし、気持ちはどんなに逸っても、やはり、急にいろいろなことを思い出したのは心身ともにかなりの負担だったようだ。
ヘニングが操る馬車に揺られるうちに、彼女は隣に座るガブリエルにもたれて寝息を立て始めてしまった。
ガブリエルは慈愛溢れる眼差しでアンジェリカの肩に腕を回し、彼女が楽に休めるようにそっと姿勢を変えてやる。そうしてから、ブライアンに目を向けた。
得意げというか、我が物顔というか、まあ、とにかくガブリエルの顔つきはそんな感じだ。妹に向けているときのような温かさも優しさも、そこには欠片もない。よくぞこれだけ変えられるものだと半ば感心しつつ、ブライアンは慎重に言葉を選ぶ。
「えぇっと……良く寝ているようだね?」
「私の腕の中だからな」
刺々しい声。
いつもの三割増しでビンビンと突き出しているソレに、ブライアンは心当たりを探してみた。
思いつくのは――
「さっきのアレ、怒っているのかい?」
恐る恐る言ってみると、色の濃くなった紫の眼に睨まれた。
どうやら、当たりだったらしい。
まあ、ガブリエルの目の前でアンジェリカに触れるどころか抱き締めたりしたのだから、当然と言えば当然だ。
(けど、あの時は、仕方がなかったんだ)
寄る辺を失った仔猫のような眼をアンジェリカから向けられた時、考える余裕などこれっぽっちもなく、ブライアンは彼女を抱き寄せてしまった。
「その、たまたま僕の方がアンジェリカの近くにいたからであってね」
実際には距離など全然関係なくて、崖の上にいてもすぐさま飛び下り彼女のもとに駆け付けただろうが、ガブリエルの手前、そんなふうに言っておく。
ヘラッと笑って見せたブライアンをガブリエルは冷ややかに一瞥してから、腕の中のアンジェリカを懐深くに引き寄せた。
「幼い頃のアンジェリカは、それはもう天真爛漫な満面の笑みを浮かべて、私に抱きついてきたものだった。兄さま、兄さまと鳥の雛のように私の後をついて回ってね」
その様が頭の中に蘇ったのか、男でも見惚れてしまうような柔らかな微笑みがガブリエルの口元に浮かぶ。
「鈴が転げるようによく笑っていたよ。とても愛らしかった。我々の両親は旅芸人の一家を装っていたからね、父と母が演奏する中でこの子が皆から小銭を集めるんだ。あまりに可愛らしく笑うものだから、皆、財布の紐が緩んでしまうらしくてね」
ブライアンの前だというのに過去を思って柔らかな表情を浮かべるガブリエルに、彼は嫉妬した。
穏やかに眠るアンジェリカのあどけない寝顔を見つめて、ガブリエルが描写した彼女の笑顔を思い浮かべようとしてみる。が、今の、硬質な美しさが際立つ彼女からそれを想像するのは、困難を極めた。
(僕にその笑顔を見せてくれる時が来るのだろうか?)
今の彼には淡い微笑を垣間見ることがせいぜいで、アンジェリカの満面の笑みなど夢のまた夢、千回生まれ変わっても得られそうにない。
うらやましさにこぶしを握ったブライアンの前で、ガブリエルが続ける。
「あんなふうにしていると変な輩に目を付けられるから、あまり愛想を振り撒いていてはいけないと諭したのだが、どうにも効果がなくてね。次善の策として、身を護る術はしっかりと教え込んだ」
そう言った彼の口元から、ふいに、笑みが掻き消える。
「両親が命を落とした時、私はもうこの職務に就いていたから、この子には滅多に逢えなくなっていた。二人が亡くなったと――この子が行方不明なのだと聞かされて、私は半狂乱になったよ。……その頃の任務は少しばかり荒っぽい対応になってしまっていたかな。幾度か、訓戒をもらってしまった」
ガブリエルの顔に浮かんだ、苦笑と自嘲。
彼は腕の中のアンジェリカの寝顔に苦い色を浮かべたままの眼を落とす。
「再会したこの子は、以前の笑顔を失っていてね。まあ、私が傍にいられないからその方が安心といえば安心だが……私の前でも、もうあんなふうに笑ってはくれないから」
気持ち肩を落としたガブリエルに、さすがにブライアンは同情を覚える。彼だってアンジェリカの笑顔を見てみたいと切望するのだから、輝くようなそれを知っているガブリエルであれば、なおさらその望みは強いものになるのだろう。
今にも深々とした嘆きのため息をつかんばかりのガブリエルに、慰めの言葉をかけるべきだろうか。
だがしかし、せっかく鎮まっているのに、下手なことを言えばむしろ怒りを買いそうな気がする。
ブライアンが迷っているうちに馬車の窓の外の景色が変わった――岩山ばかりから、街並みへ。
「ハイヤーハムに着いたみたいだ」
何となく間が持たない気がして言わずもがなのことを口にした彼を、ガブリエルがチラリと見た。そしてまたすぐにアンジェリカに目を戻す。
「夕食までまだ少し時間があるから、アンジェリカはこのまま寝かせておこう。私は少し出てくる」
「わかった。僕が彼女についているよ」
考えなしにそう言ったものの、当然、アンジェリカを見るな触るな同じ部屋で息をするなの台詞がよこされると思ってブライアンは身構えた。が、ガブリエルは何も言わず、またしばらく彼女の寝顔に見入ったあと、そっと持ち上げ向かいに座るブライアンの膝に移す。
「……この子から目を離さないでくれ」
「え?」
渡されるがままにアンジェリカを抱き取ったブライアンは、予想外のガブリエルの台詞にポカンと彼を見遣った。
丁度その時、図ったように馬車が停まる。ガブリエルは呆気に取られるブライアンを放置して、流れるような身のこなしで馬車を降りるとあっという間に人込みの中に消えて行ってしまった。
間を置かず、開け放されたままの扉からヘニングが顔を覗かせる。
「ガブリエルはどうしたんだい?」
いぶかしげに問われても、それを訊きたいのはブライアンの方だ。
「さあ……何か用があるみたいで」
「そうか。――ああ、アンジェリカは眠ってしまったのか」
ヘニングに言われて、ブライアンは膝の上で丸くなっているアンジェリカに目を落とす。
差し当たって、謎に満ちたガブリエルの頭の中よりも、アンジェリカを休ませてやる方が重要度が高いというものだ。
「このまま宿で休ませるよ」
「そうするといい。ああ、夕飯はうちに食べにきたらどうだろう。妻に用意させるよ」
「それは楽しみだ。ガブリエルがいつ戻るかは判らないけど……」
「ああ、彼の分も用意しておくよ」
「ありがとう。じゃあ、間に合うようなら一緒に連れて行くよ」
笑顔でそう返して、ブライアンは馬車を降りる。
ヘニングに別れを告げて走り去る馬車を見送ってから、ブライアンは宿に入った。眠るアンジェリカを抱いているのを見て、女将が一緒についてきて扉の開け閉めをしてくれる。
部屋の中に入ったブライアンは、ふと腕の中のアンジェリカに目を落とした。けぶるような銀色の睫毛を伏せて微かな寝息を立てる彼女に、彼は胃の辺りをギュッと掴まれるような胸苦しさに襲われる。
正直、下ろしたくない。
一晩中、いや、一生でも、こうしていたい。
が、そうもいかず。
小さくため息をこぼして、ブライアンはアンジェリカを寝台に横たえた。服を着たままでは寝苦しいだろうとは思ったが、さりとて脱がせるわけにもいかなくて、仕方なくそのまま上掛けで彼女を覆う。
そうして、隣の寝台に腰を下ろし、アンジェリカの寝顔を見守る。と、それまで微動だにしなかった彼女が、もぞもぞと動いた。
まるで、無くなってしまったブライアンの温もりを探しているかのようにも見えたその動きに、彼はいやいや、そんな馬鹿なと己を戒める。
じきにアンジェリカは動きを止めて、また、いつものように小さく丸まって深い寝息をたて始めた。
自らを抱き締めるようなその寝姿に、ブライアンは彼女の腕の代わりにこの胸の中に包み込んでやりたい衝動に駆られる。危うくふらふらと手を伸ばしかけ、そんな自分の頬を心の中で殴りつけた。
(ガブリエルが僕に任せてくれたのは、多少なりとも信頼してくれたからだ)
その信頼を蹴り飛ばすわけにはいかない。
深呼吸を一つして、彼は平常心を取り戻す。
気持ちを落ち着かせ再びアンジェリカの寝顔に目を向けたブライアンは、そこにある一筋の輝きに目を止めた。
(髪が……)
銀色の髪が、薄紅色の唇の端に引っかかっていた。
ブライアンは身を乗り出して、アンジェリカの肌には触れないように細心の注意を払ってそれを避けてやる。
触れないようにはしたけれど、指先が彼女の温もりを感じ取ってしまうのは、避けられない。
――そして、その温もりから先ほど抱き寄せた時のアンジェリカの感触を思い出してしまうことも。
林の中、幼い頃に身を潜めたという茂みの前に立っていたアンジェリカは、途方に暮れているように見えた。あの時の彼女の心許なげな眼差しは、ブライアンのその手を求めているように見えたのだ。
だから、頭で考えるよりも先に身体が動いて、彼女を腕の中に引き入れた――抱き寄せた瞬間、拒まれてしまったけれども。
(『必要ない』か)
確かに、アンジェリカの口はきっぱりとした声音でそんな台詞を放った。
(でも、それはあなたの本心かい?)
彼女の眼差しはそうは言っていなかった――と、思う。
そもそも、女性が心と裏腹のことを口にするのは、良くあることではないか。
アンジェリカにとって、自分は必要な存在だ。
ブライアンの希望的観測でも何でもなく、きっとそれは断固とした事実。
それは彼には判っているし、間違いではないと確信している。
だが。
「僕に向けて『必要ない』と言ったあなたは、とても苦しそうだった」
ブライアンは膝の上で両手をきつく握り締める。
頼りない彼のことを必要だと思ってしまう自分が腹立たしかったのか。
それとも、彼に対してきついことを言ってしまったことを申し訳なく思ったのか。
あるいは、その両方か、そのどちらでもないのか。
判らない。
判らないから、ブライアンは笑うしかなかった。
「僕はあの時、あなたに何て言ってあげれば良かったのかな」
当然、昏々と眠るアンジェリカからの答えはない。だが、仮に彼女が目覚めていたとしても、その答えを彼女から与えてもらうようでは駄目なのだろう。
一年前の自分が誰かに女性の一瞥ひと言一挙手一投足に右往左往することになるのだと告げられたら、きっと鼻で嗤い飛ばしていただろうに。
そうする代わりに、現に右往左往するしかないブライアンは力のない自嘲の笑いを漏らした。




