過去を探しに④
「こんなところに……本当に、あなたは小さかったんだな」
アンジェリカの隣に膝を突いたブライアンが、茂みを覗き込んでしみじみとした口調でそう言った。次いで低い位置のまま彼女を見上げて首をかしげる。
「ここにどれくらいいたんだい?」
問われて、アンジェリカは束の間記憶を探ってみた。けれど、はっきりしない。
「覚えていない。母が行ってしまってからじきに眠ってしまったか何かして、気付いた時には大きな身体に寄り掛かって、馬の背で揺られていた」
「大きな身体――男?」
「そう。多分父よりも年上の、とてもがっしりした人」
「知り合い、ではないのか」
アンジェリカはブライアンの疑問にかぶりを振った。
「恐らく私は会ったことがなかったと思う」
今はもうはっきりと思い出したその男性の顔を、両親が亡くなる以前に見た記憶はない。少なくとも、その時に顔馴染みだとは思わなかった。
「全く見ず知らずの男、か。けど、こんなところ、偶然通りかかるかな。しかも隠れている上に眠っちゃってる女の子だろう? すぐ傍を通ったって気付かないんじゃないかな」
首を捻るブライアンの台詞は、まったくもってその通りだ。
(私を助けてくれたあの人は、何者だったのだろう)
改めて強まったアンジェリカのその自問に、ガブリエルの思案深げな声が答える。
「同業者かもしれないな」
「え?」
彼女が振り返ると、彼は来た道を振り返りながら言った。
「確かに、さっきの崖下ならともかく、こんな林の中で偶然発見されるなど、万が一にも有り得ないだろう。捜索隊の中の誰かがたまたま君を見つけて、どういう理由か判らないがヘニングさんには何も言わずに連れ去った……ということもあるかもしれないが、まあ、これも可能性は非常に低い。となると、君がここにいることを知って探しに来た誰かがいたということだ」
「そんなことがありますか?」
「普通はないね。でも、亡くなる前に、母上が呼んだとしたら?」
「母さまが? でも、誰を?」
アンジェリカは眉根を寄せた。
アンジェリカたちはひとところに留まることのない旅暮らしで、行く先々で皆から好意的に迎えられはしたものの、特に親しくなる相手はいなかった。例外はオルセン夫妻だけれども、それだって、引き取られて初めて、ポーリーンが母の幼馴染だということを知ったくらいだ。
(それなのに、ハイヤーハムで知り合いを、しかも緊急で呼び出すなど、できるのだろうか)
怪訝な顔を向けるアンジェリカに、ガブリエルは束の間迷う素振りを見せてから、言う。
「我々巡回警邏官は、超緊急時にのみ許されている連絡手段があるんだよ。それを使えば、他の巡回警邏官を呼ぶことができる。ハイヤーハムは国にとっても重要な街だから、常に数人、誰かしらがいるはずだ。そのうちの一人が、母上の合図に気付いて来てくれたんじゃないかな」
「でも、巡回警邏官というのは、お互いに身分を隠しているのでは?」
「ああ。だから、自分が――任務続行不可能となるときのみにしか使えない」
ガブリエルは、途中、少し言い淀んだ。兄が言う『任務続行不可能となるとき』というのは、『前任者の命が絶えるとき』ということでもあるのだろう。
彼の言外の含みを読み取り、アンジェリカは唇を噛む。
アンジェリカをこの茂みに隠した時、母は自分の死を確信していたのだ。最期の力を振り絞って彼女を守ろうとした。
あの時、母の覚悟も知らずに、アンジェリカは自分を置いていこうとする彼女を責める気持ちすら抱いていた。
そんな己を殴りたい気持ちでいる彼女をよそに、ガブリエルが呟くように言い足す。
「その合図は、とても重要な案件でしか、使うことが許されていないんだ。本来は、個人的な理由でなど、使ってはならない」
『とても重要な案件』。
母と、そしてきっと父にとって、自分は規則を破ってでも守りたい存在だった。
今さら、それがヒシヒシと身に沁み込んでくる。
「馬車が崖から飛び出した時、私を抱える母さまを、父さまが庇うように抱き締めたのが見えました」
母と父が二人で包み込んでくれたから、あの高さの崖から落ちた時も、アンジェリカはほとんど怪我らしい怪我をせずに済んだのだ。
二人とも、命を懸けてアンジェリカのことを守ってくれた。
(でも、その二人のことを、私は忘れていた)
ただ守られるだけ守られて、全てを忘れた彼女は何事もなかったかのように呑気に平和に生きていた。
アンジェリカは硬く両手を握り締める。手のひらに爪が食い込むのが判っても、力を緩めることができなかった。
(私は、何て情けないのだろう)
情けなくて、涙が出そうだ。
何だか、不意に地面が柔らかくなったようだ。アンジェリカは、足元から呑み込まれていくような心持になる。
両手に加えて、唇も噛み締めた時。
「アンジェリカ?」
そっと、声がかけられる。
ふ、と顔を上げてそちらを見ると、ブライアンが彼女を見つめていた。
彼に、触れて欲しい。
ブライアンと目が合った瞬間、何の脈絡もなく、アンジェリカはそう思った。
彼の温もりは彼女を落ち着かせてくれるから、手を握るだけでもいいから触れて欲しいと、思った。
と、まるで声にしていないアンジェリカのその願いを聞き取ったかのように、ブライアンが彼女に向けて手を伸ばす。それを彼女の腰に添え、そうして、そっと、腕の中に引き入れた。
抱き締める、のではなく、ただ、ふわりと包み込むだけ。
彼は片腕でそんなふうにしながら、空いている方の手で固く握り込まれているアンジェリカの手を解く。
ブライアンの腕の中で一呼吸分だけ置いてから、彼女は彼の胸に額を付けた。そこから、規則正しい鼓動が響いてくる。
やっぱり、落ち着く。
ほぅ、と息をつきそんなふうに思っていたのは、きっとそう長い時間のことではない。
短い時間で我に返れたのは、聞こえてきた兄の声のお陰だった。
「君が必要とするのは、もう私の手ではないのか」
悔しそうなその呟きが、一気にアンジェリカを現状に引き戻す。
「!」
パッと一歩跳びのくと、もとより力の入っていなかったブライアンの腕はすぐに彼女を手放した。
(『必要』?)
兄が口にしたその一言が、アンジェリカの胸にずしんと響く。
(違う、私は何かを『必要』となんてしていない)
何かを必要とするのは、弱い者だけだ。そして自分は、何かを必要とするような弱い人間ではない。
「私は、ブライアンのことを必要になどしていない」
衝動的にそう口走ってから、アンジェリカは自分が言ったことがブライアンにはどう聞こえてしまったかに気付く。距離を置いた彼を見れば、目をしばたたかせていた。
(傷付けた)
咄嗟に謝ろうとしたけれど、何故かアンジェリカの口は思うように動いてくれなかった。
取り消すなり説明するなりしなければと思うのに適切な言葉が一つも思い浮かばず唇を引き結んだ彼女に、ブライアンが眉を上げて微笑む。
一見何の含みもなさそうないつもと同じその笑みがアンジェリカにもたらしたのは、安堵ではなく困惑だ。
(この流れで、どうして笑う?)
彼のその笑顔の意味がアンジェリカには解らず、益々、彼女の舌は思うように動かせなくなった。




