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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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過去を探しに①

「馬車が落ちていたのは、この下だ」

 馬車から降りたヘニングがそう言って手のひらで示したのは、切り立った崖の先だった。


 アンジェリカはぐるりと辺りを見渡す。木の一本も生えていない道は馬車が余裕で二台は行き交えるほどだけれども、直角に近いきつい曲がり角になっている。状況からみて、その角を曲がり切れずに崖下に落ちてしまったのだろうということだった。


 確かに、思い切り馬を駆り立てていたら、手綱さばきを誤ってもおかしくないかもしれない。


(でも、だったら、最初から慎重に進むはず)

 つまり、それほど馬を走らせなければならない理由があったというわけで。

 アンジェリカは崖の縁まで行き、地面に両手をついてそこを覗き込む。


「こんな、高いところから……」

 ロンディウム――アンジェリカたちが住むウィリスサイドの建物は、三階建てが一般的だ。猫の目亭もそうで、彼女はその三階で寝起きをしているけれど、この崖は自室の窓から見下ろす高さの二倍、いや、三倍はありそうだ。

 彼女がいる真下は比較的ひらけていて、木々はおろか草もあまり生えていない。これなら壊れた馬車が転がっていたらすぐに見える。ただ、こんなふうに崖下を覗き込む者なんてそうそういないだろうから、たった二日で発見してもらえたのはある意味幸運だったのかもしれない。


 そう考えて、アンジェリカは小さく嗤う。

(死んでしまって幸運も何もないか)


 彼女は心の中でかぶりを振って雑念を払い、気を取り直してむき出しの地面の上に散らばる馬車の残骸を想像してみた。


 ――思い浮かばない。

 俯瞰の視点のせいか、記憶は全く浮上せず、まるで他人事だ。

 彼女は立ち上がり、少し離れたところで兄たちが佇む道を右左と見渡してみた。

 ハイヤーハムから来たのなら、両親の馬車は右手から走ってきていたはずだけれども。

 ここに来るまでも、アンジェリカは目を皿のようにして外の光景を見ていた。できるだけ当時の状況に近いものにしようということで、やや乱暴に走らせた馬車の中から。


 目を閉じて、想像する。

 真っ直ぐに走ってきた馬車が、そのまま宙に飛び出し、落ちる。


(全然、何も、思い出せない)

 悔しさに、アンジェリカは唇を噛み締める。

(思い出したい。思い出さないと、いけない)

 その時、何があったのか。


 アンジェリカは顔を上げ、兄たちの方に向ける。

「ヘニングさん」

 呼びかけると、待ちかねていたように馬車の脇に立っていたヘニングと兄たちがこちらに近づいてきた。


「何か思い出したかい?」

 気遣いの見える眼差しで問いかけてきたのはガブリエルだ。ブライアンも同じような眼をしている。

 アンジェリカは兄に向ってかぶりを振った。

「いいえ。だから……ヘニングさん」

 目をヘニングに向けると、何だい? というように彼は軽く首を傾げた。アンジェリカは一度崖の方に目を遣り、またヘニングを見る。

「この下に行くことはできますか?」

「崖の下にかい? 行けないことはないが、君にはちょっと無理じゃないかな。あの時は綱を伝って何人か下りて、お父さんたちを引き上げたんだよ。でも、皆、鍛えている男ばかりでね」

 そう言って、ヘニングはチラリとアンジェリカに目を走らせた。

 彼女はその視線に力強く頷きを返す。

「大丈夫です。木登りなどは得意ですから」

「いや、でも、危ないだろう」

「いけます」

 きっぱりと断言すると、ヘニングは困り顔をガブリエルに向けた。が、兄もアンジェリカの肩に手を置いてにっこりと彼に笑みを返す。

「アンジェリカならやれますよ」

「だけどね、女性なのに――……まあ、あなたがそう言うなら」

 自信満々なガブリエルの態度に押されるように、ヘニングはアンジェリカを止めようとする言葉を呑み込み、渋面ながらうなずいた。


「一応、綱は用意して来ているよ。まさか、アンジェリカが使うことになるとは思わなかったがね」

 そう言いつつヘニングは馬車のところに戻り、手綱を引いて馬を先導してくる。崖際で馬を外し、馬車が動いてしまわないように固定すると、車軸に綱を縛り付けた。そしてそれをアンジェリカに差し出す。

「これを身体に括り付けて。くれぐれも気を付けるんだよ?」

「はい」

 コクリとうなずき綱を受け取り、アンジェリカは長いスカートの端をからげて持ち上げる。


 刹那。


「わぁ!?」

 悲鳴混じりの変な声が上がった。


 そちらを見ると、ブライアンがいる。彼はまるで空飛ぶ犬でも見たかのような面食らった顔をしていた。

「ブライアン? 何か?」

 眉根を寄せてアンジェリカが問いかけると、ブライアンは平手を食らったように幾度か目をしばたたかせて、それから、パッと顔を横に向けた。

「何かって、その、脚……」

 言われてアンジェリカは持ち上げたままのスカートを見下ろす。その陰から見えるのは、彼女の膝から下だけれども、何ら変わった様子はない。別に目立つ傷もない、ただの脚だ。


「人間に脚がついていて何が悪い?」

 アンジェリカはブライアンの方に近寄りながらそう尋ねた。


 が。


「そうだけど!」

 アンジェリカが三歩ほど進んだところで、彼は、今度は完全な悲鳴でそう叫んで両手で顔を覆ってしまった。ほとんど彼女に背を向けて。


(何なんだ?)

 ブライアンの奇妙な態度に困惑するアンジェリカの肩に、ポンと手がのせられる。振り返ると、兄がやけに嬉しそうな笑みを浮かべて彼女を見下ろしていた。

「彼のことは気にせず、準備をしなさい」

「でも……」


 無言の笑み。


「――わかりました」

 アンジェリカは追及を諦め、ブライアンの背にチラリと目を走らせてから、邪魔にならないようにとスカートの裾を縛り上げた。


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