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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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幕間・その三:大天使の嘆き

 部屋を出たブライアンは、扉にもたれたままズルズルとその場に座り込んだ。


「危なかった……」

 思わず呟きが漏れる。

 あと少しでも中に留まっていたら、アンジェリカのことを抱き締めてしまっていただろう。


 ブライアンはグシャグシャと絡まり易い金髪を掻きむしった。


 両親を辿るよすがとなる品を手に取るたびに自分がどんな顔になっているのか、彼女は気付いていただろうか。

 菫色の瞳は溢れる思いを映して揺らめいて、淡い紅色の唇からは震える吐息をこぼして。


 あれほど心の内を曝け出しているアンジェリカを、ブライアンは見たことがなかった。


 そんな彼女を前にして、どうして抱き締めずにいられよう。

 手を握るだけに留めることができたのは、最近鍛えられ続けている理性を総動員したからだ。


 ブライアンが最初にアンジェリカに惹かれたのは、確かに、凛としたそのたたずまい故だった。

 けれど、アンジェリカと時を過ごすにつれ、彼は彼女が内包する脆さ、柔らかさを見つけ出した。ブライアンはそれが傷付かないようにこの手の中に包み込んでしまいたくなるのだが、きっと彼女は、それを望まないだろう。


 ガブリエルは出て行き際にブライアンの肩を砕けんばかりに握り締め、「手を出したら殺す」と囁いていったが、そんな言葉がなくても、彼はアンジェリカに触れることもままならないのだ。


 なぜなら、彼女はほんのわずかな『弱さ』も自分自身に赦そうとしないから。


 あの状況でブライアンが抱き締めれば、アンジェリカはそれを慰めと受け取るだろう。

 そして彼女は、慰められるような弱い自分は認めない。

 つまり、彼が彼女を抱き締めるなど言語道断ということだ。


「旅が終わるまで、もつかな……」

 はぁ、と大きなため息をつき、ブライアンはぼやく。

 立てた膝の上に両腕を置き、がっくりうなだれて、しばし。


「湯でも貰ってこよう」

 呟いて、立ち上がる。


 部屋の中は静かだけれども、アンジェリカはまだ眠れずにいるかもしれない。

 足を温めれば、きっと気持ち良いに違いない。


 一階に下りていくと、宿の女将は二つ返事で桶にたっぷりの湯を寄越してくれた。

 それを持って、ブライアンは部屋に戻る。


 扉を軽く叩いても、返事はない。

「眠れたのかな」

 独りごち、桶を下に置いてそっと扉を開いてみた。


「アンジェリカ」

 囁き声で呼びかけても、返事はない。どうやら眠れているらしい。


 部屋に入ったブライアンは、桶を隅に置いてアンジェリカの寝台へと歩み寄った。

 温かな布団にくるまっていても、アンジェリカは野宿の時のように小さく丸まっている。


 ブライアンは布団から半分だけ覗く彼女の寝顔を見つめたまま、もう一つの寝台に腰を下ろした。そうして、微かな寝息に耳を傾ける。

 しばらく心地良さげなアンジェリカを堪能し、彼は渋々腰を上げた。

 もっと彼女を眺めていたかったけれども、良い眠りを取るには暗くした方がいい。


 灯りを消しに行きかけたブライアンだったが、ふと聞こえた小さな声に振り返った。声をかけようとして口をつぐみ、アンジェリカの下に戻る。


 そっと覗き込んでも、彼女の菫色の瞳は隠されたままだった。

(気のせい?)

 ブライアンは首をかしげて身体を起こす。


 と、また。


「ゃ……だ……」

 小さな、舌足らずな声。まるで、幼い少女のような。

 彼が見ている前で、白い眉間にしわが寄る。


「かあさま……いっちゃ、やだ……ひとりに……しないで……」

 その懇願と共に、硬く閉じたままの目蓋から透明な雫が一筋溢れた。


 それを目にした瞬間、微塵もためらうことなく、ブライアンは手を伸ばしていた。アンジェリカの頬にかかる絹糸のような銀髪をそっと掻き上げ、温かな頬を手のひらで包み込んだ。身を屈めて小さな耳に口を寄せる。

「アンジェリカ、あなたは独りじゃないよ、僕がいる……僕はずっとあなたの傍にいるよ」


 その囁きが夢の奥に届いたのか、アンジェリカの強張りが和らいだ。彼女はもそもそと身じろぎをし、その手が何かを求めるように布団の中から彷徨い出る。


 わずかな逡巡ののち、ブライアンはアンジェリカを起こさないようにと細心の注意を払ってその手を取った。誰の温もりだと思ったのか、彼女は、キュゥ、と彼の指先を握り締めてくる。そしてホッとしたように小さく息をつき、彼のその手に頬を摺り寄せてきた。


(うわ)


 これは、たまらない。

 ブライアンはその場にへたり込みそうになった。彼の中で、昼間抑え込んでいたアンジェリカに対する愛おしさが、真夏の入道雲さながらに膨らんでいく。衝動に負けて彼女の手を強く握り返してしまわないように、渾身の力を振り絞った。


(落ち着け……落ち着くんだ……)

 自制心という名の手綱を握り、理性という名の鞭を振るい、ブライアンは己という名の暴れ馬を律しようとする。


 そこに全神経を集中させていたから、彼は背後の微かな物音には全く気付かなかった。


「手を出すなと、言ったはずだが?」

 突然ひたりと首筋に触れた何か冷たいものに、息を呑む。


 それは、平たくて、硬い。きっと、下手に動くとまずいヤツだ。


「これは、手を出したわけではなくて、彼女がうなされていたから……」

 身じろぎもせず、ブライアンは答えた。


 それからたっぷり呼吸三回分は置いてから、首に触れるそれが離れていく。


 ギギ、と首を軋らせながら振り返れば、ガブリエルが手にした短刀を鞘に納めようとしているところだった。


(何かを間違えれば、絶対、やられてた)

 言葉もなく見上げるブライアンに返されたのは、冷やかな一瞥だ。その冷たい視線が、未だアンジェリカと繋がれたままのブライアンの手に移る。


「いつまでそうしている気だ?」

「え? あ……」

 言われて放そうとしたけれど、その瞬間、アンジェリカの手にまた力がこもった。


 無理に剥がせば、起こしてしまいそうな気がする。


 どうしようかと再びガブリエルを見上げたブライアンは、その眼差しと真っ向から向き合った。


(真冬の川に放り込まれたみたいだ)


 寒い。

 とても、寒い。


 ブライアンはもう一度アンジェリカの手を解こうとしたけれど、やはり、うまくいかなかった。


 部屋の中は冷ややかな沈黙が支配する。

 さっきまでとは打って変わってすやすやと安眠に包まれているアンジェリカに目を移し、ブライアンはどうしたものかと眉根を寄せた。彼としては、アンジェリカが心地良く休めるのなら、一晩中、いや、一生でもこうしていられるが。


 ややして。


 重く深いため息が、頭上から聞こえた。

 目だけで見上げれば、秀麗な容貌がこれ以上ないというほどの渋面になっている。


 ガブリエルはほとんど睨みつけているといってもいい眼差しでブライアンを貫き、また、ため息をつく。

「どうして、貴様なんだ……」


「え?」


 どういうことだろうかと眉をひそめたブライアンに、ガブリエルは答えを与えるつもりはないらしい。ブライアンに聞かせるというよりも、ただ愚痴をこぼしているだけという口調で、ブツブツと呟く。


「私がいつ何時どうなるか判らないから、この子には一人で生きていけるように色々と教えてきたんだ」

 ため息。

「誰か、この子の傍に居てくれる者が現れるまでは、と……」

 そして、ブライアンをチラリと見遣って、ため息。

「どうしてこんな奴が……」

 また、さっきの台詞だ。


 どういう意味なのかと尋ねたいが、それが許される雰囲気ではない。

 ここは口をつぐんでおくのが得策だろうとただ黙ってガブリエルを見守るブライアンの前で、彼はもう一度、ため息を吐き出した。


 そして。


「私は、まだ、認めてはいない」

 唸り声でそう言って、氷柱のような眼差しをブライアンに突き刺してくる。

「断じて、認めていない」


 何を、と問い返すのは賢明なことではないだろうと、ブライアンは終始沈黙を貫き通した。


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