鉱山の街⑤
兄が出ていくと、途端に、狭い部屋にはしじまが落ちる。
アンジェリカが見るともなしにブライアンに目を遣ると、その気配を感じ取ったかのように、ガブリエルが閉めていった扉を見つめていた彼が振り向いた。
目が合って、ブライアンはいつものように微笑みを浮かべて小首をかしげる。
いつもと同じだけれども、どことなく、困っているというか何というか、手に余る荷物をポンと渡されたとでもいうような印象を受ける笑顔だ。
「えっと――その、今日は色々あったから、もう休んだ方がいいんじゃないかな?」
「でも、まだ眠くないから……」
妙な顔をしているなと思いつつ答えたアンジェリカの視界に、部屋の隅、鞄の上にのせた箱が入った。
(そう言えば、あれには何が入っているのだろう)
アンジェリカは荷物のところに行き、その箱を手に取った。
油紙で厳重に包まれていて、軽く振ってみると、何か硬いものも入っているような音がする。
「開けてみるの?」
まだ扉の脇に立ったまま、ブライアンが訊いてきた。
アンジェリカは、問われて、迷う。
どうしよう。
父と母の形見でも、今の自分にはそれと判らないかもしれない。
中身を見てみたいけれども同じくらい見たくないような気もする。
揺れる気持ちのままブライアンをもう一度見てみると、彼は穏やかに見つめ返してきた。
その眼差しに後押しされるように、気持ちが決まる。
アンジェリカは手前の寝台に腰を下ろし、箱を膝の上にのせた。ブライアンは備え付けの椅子を引いて、そこに座る。
油紙を開いて出てきた箱はくすんだ銀色の金属製で、装飾らしい装飾はない。蓋には留め金があって外すのにいくつか操作は必要だけれども、鍵はついていない。
組合長に教わった通りにそれをいじると、カチリと小さな音がした。
無意識のうちに息を詰め、アンジェリカは蓋に手をかける。そして、そっと持ち上げた。
中に入っていたのは、手のひらにのる大きさの透明な小瓶と、懐中時計と、淡い紅色の薄手の布。
ごくごく平凡な、けれども見慣れぬ品物に、アンジェリカは思わずホッと息をついた。
刹那、甘く優しい香りがふわりと鼻をくすぐる。
「あ……」
(これ、母さまの……)
嗅いだ瞬間、一陣の風が靄を吹き飛ばすかのように、記憶がアンジェリカの頭の中に閃いた。
これは確かに、母がいつも身にまとっていた香りだ。
香りを思い出した瞬間、母の顔も鮮明に脳裏によみがえった。
確かに、ほとんど同じと言ってもいいほどそっくりなものを、毎日鏡の中に見ている。
でも、容姿は同じだけれども、アンジェリカと違って、母はいつでも笑顔を浮かべていた。彼女は、母のその顔が、とても好きだった。
アンジェリカはたたまれていた布を手に取り、その肌触りを確かめる。
これも、母のものだ。彼女は、よくこれを肩に巻いていた。ギュッと抱き締めてもらったとき、頬に触れるその感触と微かに漂う香りが心地良かったことを、アンジェリカは思い出す。
あの頃、朗らかに笑う母と一緒に、彼女もよく笑っていた。
今では、どうやったらあんなふうに笑えるのか、全然判らないけれども。
アンジェリカは肩掛けを丁寧に畳み直してから箱に戻すと、他の品に目を移した。
小瓶は何だろう。
ほんのり赤みがかった綺麗なガラス製で、中身が半分ほど入っている。
こぼさないように慎重に蓋を開けると、ひときわ強く香りが立った。
甘さを帯びた、野ばらのような香りだ。
やっぱり、香りが一番強く記憶を想起させる。さながら、この場に母がいるかのように。
うっとりと目を閉じたアンジェリカに、そっと声がかけられる。
「付けてみたら?」
ほんの一瞬、彼女は誘惑に駆られた。けれど、結局、かぶりを振る。
「こぼしてしまってはいけないから」
アンジェリカの返事にブライアンは手を差し出した。
「僕が付けてあげるよ」
「あなたが?」
目を瞬かせたアンジェリカに、彼は一瞬言葉に詰まった――というよりも何かを喉に詰めたような顔をしてから、にこりと笑う。
「ほら、僕もいつも自分に付けてるからね」
何かやけに『自分に』のところに力をいれつつ、ブライアンが言った。
(貴族は、男の人も香水を付けるのか)
そう言われてみると、確かに、ロンディウムにいる時の彼はいつも良い匂いを漂わせていた。
アンジェリカはしばし逡巡し、ブライアンに小瓶を渡す。彼は彼女の右手を取り、ひっくり返して、手首の内側にほんの一滴だけ小瓶の中身を垂らした。危なげない、手慣れた所作だ。
「左の手首とこすり合わせてごらん」
ブライアンに言われたとおりにしてみると、程よい濃さで、香る。香水というのは直接嗅ぐのと肌に付けて匂うのとは、少し違うらしい。
アンジェリカは手首を鼻に近づけた。
(ああ、この香りだ)
懐かしい匂いに包み込まれ、まるで、母に抱き締められているかのような錯覚に囚われる。
アンジェリカは目蓋を閉じ、しばしその芳香に溺れた。そうしてまた目を開け、ブライアンに返してもらった小瓶をそっと箱に戻すと、最後の一つ、懐中時計を取った。
裏側には『大事なあなたへ、いつまでも』と刻まれている。その言葉を選んだのは、母なのだろうか。
刹那、ツキンと刺すような痛みが頭の奥に走る。
また、記憶が瞬いた。
愛おしげに笑みを交わす父と母。アンジェリカに気付くと、いつだって、二人揃ってその笑顔を彼女に投げてくれた。笑って、揃って、彼女に手を差し伸べてくれた。
その笑顔も笑い声も、はっきりと思い出す――どうして今まで忘れていられたのか、判らない。
不甲斐ない自分に憤りながらアンジェリカは時計をひっくり返して文字盤を見てみたけれど、それは、動いていなかった。
ねじを巻いていないからかと思って数回巻いてみても、うんともすんとも言わない。
香水は、普段から壊れ物としてしまわれていたから無事だったのだろう。懐中時計は父が身に着けていただろうから、崖から落ちたという時に壊れてしまったに違いない。
アンジェリカは、もう一度文字盤を見る。
そこに残されているのが、両親が失われた時刻なのだ。
(私は、この時何をしていたのだろう)
両親が息絶えていく様を、ただ黙って眺めていたのだろうか。
――きっと、そうなのだろう。
どうして自分一人が助かったのか判らないけれど、間違いなく、父と母のお陰だ。
二人が守ってくれたから、アンジェリカは今ここにいる。
(それなのに)
肩掛けと、香水と、懐中時計。
その、三つ。
残っているのは、その三つだけ。
なのにアンジェリカは、彼らの記憶を、まるで見たくないものであるかのように心の奥深くにしまい込んでしまっていた。
アンジェリカは苦い息をつき、それらを箱に戻して、また蓋を閉じた。
一気に色々と思い出してしまったせいか、なんだか、頭の中に綿が詰まっているような感じがする。
(兄さまにも見せないと)
ぼんやりとそう思ったとき、ふいにブライアンが手を伸ばして箱の上に置いたアンジェリカの手を包み込んできた。
そうされて初めて、彼女は自分のその手が小刻みに震えていたことに気づく。そして、痺れるほどに、指先が冷え切っていたことにも。
ブライアンの手の温かさが心地良くて、思わず吐息がこぼれた。
と、ほんの少し、彼の手に力がこもる。
「ブライアン?」
彼の名を口にしたけれど、呼びかける、というよりも、ただ呟いた、という口調になってしまった。
ブライアンはアンジェリカの前にひざまずき、彼女の拳を包み込んだまま、まるで冷たくなった指を融かそうとしているかのように、自分の手越しに唇を押し当てた。
直接触れたわけでもないのに、どうしてか、特別に温かい気がする。
ずいぶん長い間そうしていたように感じられたけれども、実際にはほんの一瞬だったのだと思う。
ブライアンは顔を上げ、アンジェリカの目を覗き込むようにして微笑んだ。
「もう寝よう? 一晩寝たら、すっきりするよ」
「だけど、眠れそうにない」
アンジェリカは、ぼそりと返した。
頭はろくに働いていないのに奥の方はピリピリした感じで、横になろうが目を閉じようが、眠気が訪れてくれるとは思えない。
ブライアンは少し困ったような眼差しをアンジェリカに向けてから、つと立ち上がった。
彼は自分の荷物のところに行くと、中から何かを取り出してから戻ってくる。
「少しだけ、これを飲むといいよ」
そう言ってブライアンが差し出したのは、アンジェリカのかすり傷を消毒するときに使ったのとよく似た小さな銀色の水筒だ。
「それ、消毒……」
「違う違う、こっちは飲めるやつ」
ブライアンから受け取った水筒は蓋が外されている。口元に寄せると、中身の匂いが鼻先に届いた。
「――お酒?」
眉間にしわを寄せたアンジェリカに、ブライアンが頷く。
「そう」
「なら、結構だ」
酒と言えば思い出すのは店で遭遇する酔態だ。
水筒を返そうとすると、そっと押し戻された。
ブライアンは柔らかな、けれども一歩たりとも引かないと告げる笑顔を浮かべている。
アンジェリカは彼のその顔と、水筒とを見比べた。
「酔うほどじゃなくて、ひと口かそこらでいいんだよ。身体が温まって緊張が取れるから」
ブライアンがそう言うのなら、そうなのだろう。
「わかった」
アンジェリカは顔をしかめながら、ひと口、含んでみた。
それは予想よりも甘くて、あまり『酒』という感じはしない。
もうひと口だけ飲んでから、彼女は水筒をブライアンに返す。
「ありがとう」
言いながら、アンジェリカは目を瞬かせる。不意にお腹の辺りが温もってきて、眠くはないけれども、何となく、頭がふわふわする。
そんな彼女を見てブライアンはふと笑い、水筒を受け取るとそれをしまいに行った。また戻ってくるのかと思ったら、扉に手をかけている。
「ブライアン?」
どこかに行ってしまうのだろうかとアンジェリカが首をかしげて問いかけると、彼は肩越しに振り返って微笑んだ。
「僕は外にいるから、寝支度をするといい」
「どうして外に?」
彼に、ここにいて欲しいのに。
アンジェリカがジッとブライアンを見つめると、彼の目が泳いだ。
「どうしてって、その、せっかく寝台で眠れるのだから、もう少し楽な格好になりたいだろう?」
「それは、そうだけど」
「じゃあ、布団に入ったら呼んで」
そう残して、ブライアンはそそくさと部屋を出て行ってしまった。
一人になったアンジェリカはもう一度箱に目を落とし、小さく息をつく。それを荷物の方に戻しかけて、やめた。自分が使うことになっている寝台の枕元に置いて、服を脱ぐ。それを箱の上に重ねて、布団に潜り込んだ。
(ブライアンが言った通りだ)
部屋の温度はさほど高くないのに、寝台の中はぬくぬくと心地良い。頭の中のタガが外れたような感じがして、やけに気分が軽い。
眠れそうにないと思っていたのに、気付けば、アンジェリカは眠りの淵に沈みこんでいた。




