鉱山の街②
ハイヤーハムのことなど何も知らないアンジェリカとブライアンは、迷いなく進むガブリエルについていくだけだった。
「どこに向かっているんだろうね」
耳打ちするブライアンに、アンジェリカはかぶりを振るしかない。
「判らない」
答えながら、アンジェリカは街並みを見渡してみた。
ガブリエルによればアンジェリカは十年前にもここを訪れたことがあるはずだけれども、全然記憶にない。来てみれば少しは思い出すことがあるかと思ったけれど、さっぱりだ。
(本当に、私はここに来たことがあるのだろうか)
ふと、不安になる。
両親が命を落としたのはここではなくて、その理由も、本当にただの事故だったのではないだろうか。
思い出すべき記憶なんて、そもそもないのではないだろうか。
迷いが、アンジェリカの脚を鈍らせた。
と、ポンと背中を叩かれる。
我に返って隣を見ると、温かな緑色の瞳が彼女を見下ろしていた。
穏やかなその眼差しに、不思議と、アンジェリカの胸の中のさざ波が凪いでいく。
彼女は前を向き、また、確かな足取りを取り戻して兄の後を追う。
人波を縫うように歩くガブリエルは、やがて他よりも大きな造りの建物の前で立ち止まった。両開きの扉の上には看板が掛けられていて、そこには『ハイヤーハム鉱物取引組合』と書かれている。
「兄さま、ここは?」
ガブリエルの隣に立って建物を見上げ、次いで、彼を振り仰いだ。兄はアンジェリカを見下ろし、答えてくれる。
「ここはね、組合だよ」
「組合――何ですか?」
「ああ。ほら、貴石やそのほかの鉱物の取り扱いは国が管理しているというのは教えただろう? 組合が、その役目を担っているんだ。採掘量や取引量や額などだけではなく、それ以外にも、従事している人間がちゃんと給料をもらえているか、まっとうに扱ってもらえているか云々、様々なことを管理しているんだよ。十年前に貴石の不正取引があった時、調査を依頼したのは組合だったんだ。組合長はまだその時と同じ人物なんだよ」
「では、父さまたちのことを覚えているでしょうか」
「恐らく。ただ、内密の調査だったから、父上たちのことを知っているのは組合長だけだと思う。誰が不正取引にかかわっているのか、それすら判っていなかったはずだから」
ガブリエルの言葉に、アンジェリカは記憶を辿る。
「でも、父さまたちは、旅の芸人を生業としていた記憶があります」
眉根を寄せて、彼女は呟いた。
このハイヤーハムに限らず、いつでもどこでも、確か、父が笛を奏で、母がそれに合わせて歌っていた。少なくとも、アンジェリカの記憶に残っているのはそんな日々だった。その頃に覚えた歌を、彼女は今も孤児院の子どもたちに歌ってあげている。
父も母も、朗らかで、優しくて、音楽が好きで、笑いが絶えない人たちで、そんな両親しか覚えていなかったから、ガブリエルに彼らの本当の職務を聞かされるまで、『揉め事を解決していた』というのもちょっとした何でも屋程度のものだと思っていたのだ。
実際、お使いとか何かの修理とか、訪れた村の人からそんなことは頼まれていたような気がする。
そんな毎日の中で、彼らは、いったい、いつ、秘密の捜査などこなしていたのだろう。
彼女は首をかしげて兄を見た。
本当に、両親は巡回警邏官などというものだったのだろうか。
今さらながら、アンジェリカの中に疑念の雲が湧く。
ガブリエルは眉を片方持ち上げて、アンジェリカを見返してきた。
「そりゃ、住人たちにお前たちを調べに来たぞと言ったら警戒されてしまうからね。私も吟遊詩人をやったり行商人をやったり、状況に応じて色々選択するよ」
そう言ってから、ガブリエルはアンジェリカの背に手を添えた。
「取り敢えず、組合長に会ってみようか。君のことを覚えているかもしれない」
「十年も前のことです」
「君を忘れられる人はいないよ」
当然のようにそう返してきたガブリエルに、アンジェリカは眉をひそめる。
そうは言っても、十歳から二十歳だ。
子どものアンジェリカのことは覚えていても、今の彼女では判らないのではないだろうか。
そんなアンジェリカの懸念をよそに、ガブリエルは彼女を促し建物に入る。
入ってすぐは広間になっていて、壁には色々な絵が飾ってあった。その一つ一つに説明らしい文章が添えられている。いくつかサッと目を通してみた限りでは、どうやら、ハイヤーハムの歴史が並べられているらしい。
広間の正面には受付らしいものがあって、女性が二人並んで座っていた。一人はアンジェリカとそう変わらない若い娘で、もう一人はそれよりもだいぶ年配だ。その年配の女性の方が、笑顔で声をかけてくる。
「ハイヤーハム鉱物取引組合にようこそ。どのようなご用件でしょうか?」
「ガブリエル・ケアリーと言います。組合長の古い知り合いなんですが、ちょっと挨拶を、と思いまして」
「組合長――ヘニングですか?」
「そうそう、モーガン・ヘニングさん。正確には、私の両親が親しくさせていただいていたのですけどね」
ニッコリと浮かべたガブリエルの笑顔は人を虜にするもので、受付の女性二人もその例外ではなかったらしい。
二人同時にぼうっとした顔で立ち上がり、ハタと我に返って年若の方がまた腰を下ろした。
「え、あ、では、ご案内します」
あたふたとそう言って、受付台を回ってきた女性が、少々つまずき加減で右手にある階段に向かう。
建物は四階建てで、組合長がいるのはその最上階のようだった。
廊下の一番奥にある扉の前に立つと、女性は軽く叩いてからそれを開いた。
「あの、ヘニングさん、ケアリーさんという方がいらっしゃっているのですけど……」
そこで彼女もあまり詳しいことを確認せずに、ガブリエルに言われるがままにここまで案内してきてしまったことに気が付いたらしい。少し、声がためらいがちになる。
案の定、中でいぶかし気な声がする。が、次の瞬間、ガタンと、椅子を蹴倒したか何かしたような大きな音が立った。
「どうぞ、入ってもらいなさい」
低く太い声が、アンジェリカたちのところまで届く。
女性はホッとしたように身を引き、アンジェリカたちに道をあけた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ガブリエルがまた微笑むと、女性の頬がパッと赤く染まる。
「ごゆっくり。すぐにお茶をお持ちします」
そう残して足早に去っていく女性を見送って、まずガブリエルが、次いでアンジェリカ、ブライアンが部屋の中に入る。
壁一面に書棚が並べられた広々とした部屋の奥には大きな机があって、その向こう側に立つ男性は両手を机の上に突き、身を乗り出すようにしてガブリエルを――いや、その後から姿を見せたアンジェリカを、凝視していた。




