切通にて③
「どう? 君はブライアン・ラザフォードという人間に嫌われたくないと思っている?」
ガブリエルの問いは唐突で、アンジェリカは即座に答えを返すことができなかった。
「私、は……」
口ごもるアンジェリカを、ガブリエルは何も言わずに見守っている。
彼女はガブリエルから目を逸らし、一人で作業を続けているブライアンの背に移した。
ブライアンに嫌われる。
さっきのように視線を逸らされて、言葉も、うまく交わせなくなる。
まとまりのない彼女の話を笑顔で聴いてくれる人が、いなくなる。
そんな状況は想像すらできないけれど、それは――いやだ。
自分がそう思うことに戸惑いを覚えながら、アンジェリカは頷いた。
「私は……はい。ブライアンに嫌われたくはありません」
その答えに、ガブリエルがにこりと笑う。
「そう、だったら、彼とちゃんと話をするんだね。君と彼とは別の人間だから、解からないことはたくさんあると思うよ。だけど、私たちは言葉というものを持っているから、それを埋めることもできる。解らないなら、ちゃんと彼に訊いてごらん。彼なら、答えてくれる――可能な限り、答えてくれると思うよ」
アンジェリカはガブリエルの垂訓を頭の中で咀嚼し、理解する。
確かに、そうだ。
ブライアンという男は、いつでもそうしてくれていた。
少し気分が軽くなって、アンジェリカはガブリエルを見上げて首肯する。
「わかりました、訊いてみます」
「そうしなさい」
微笑んで、彼はもう一度、アンジェリカの頭に唇を押し当てた。
「私は、君の幸せだけを願っているんだ。どんな過去が出てきても――どんな未来が待っていても、私が望むのは君の幸せだけなんだ。君が最上の道を歩めることだけを、願っている」
アンジェリカの耳に届くかどうかというその囁きは、彼女に聞かせるためというよりも、どこか独白めいて聞こえた。
「兄さま?」
顔を上げたアンジェリカの背中を、そんな呟きなどなかったかのようにニコリと笑ったガブリエルがポンと叩いて送り出してくれた。
兄の手に押されて、アンジェリカは小走りでブライアンの下に向かう。
「ブライアン」
絡んだ枝を外そうと難儀している彼の背中に、呼びかけた。
ブライアンの動きが止まって、一呼吸置いてから彼が振り返る。
「どうしたんだい? もう少しかかるから休んでいたらいいよ」
笑顔はいつものブライアンのものだ。けれど、その目の奥にはどこか警戒するような光がある気がする。
「ブライアン、何に怒っているのか教えて欲しい」
「え?」
彼の顎がカクンと落ちた。
質問の意図が伝わらなかったようだ。
アンジェリカはもう一度、言葉を足して繰り返す。
「私には、あなたが何に怒ったのかが解からない。だから、私の何がいけなかったのか、教えて欲しい。次からは気を付けたいから」
言い終えて、アンジェリカはブライアンの返事に備えた。
彼はまじまじとアンジェリカを見つめている。答えはくれない。
「ブライアン?」
あれでもうまく伝えられなかったのかと眉間にしわを寄せて呼びかけると、彼は頬を叩かれたかのように目を瞬かせた。それから、慌てた口調で言い募る。
「いや、ちょっと待って、アンジェリカに怒ってなんかいないよ」
「でも、ムッとしていた」
「それは、アンジェリカにじゃなくて……ただ、あなたが傷付くことが嫌なんだ。傷付くようなことをさせてしまう自分の不甲斐なさが、悔しい」
ブライアンはそう言って、フッと少し困ったような笑みを見せる。
「ごめん。あなたは僕を守ってくれようとするけれど、僕はただ守られているのは嫌なんだ。確かに、僕の方が弱いのはもうどうしようもない事実なんだけどね」
今度は、困惑するのはアンジェリカの方だった。
今まで、色々な人たちに手を貸してきたけれども、感謝されこそすれ、嫌だと言われたことはなかった。
(もしかして、他の人たちもそう思っていた?)
「ちょっと、アンジェリカ?」
想像すらしたことがなかった可能性に愕然とするアンジェリカの目を、ブライアンが覗き込んでくる。
瞬きをして緑色の瞳を見返すと、彼は苦笑を浮かべた。
「言い方が悪かったかな。あなたが僕を守ろうとするのが嫌なんじゃないんだよ。そうじゃなくて、ただ、守られるだけの自分が嫌なんだ。自分の骨を折った時よりも、あなたが男四人を相手にしているのを見たり、たとえどんなに小さなものでも、あなたが傷付いているのを見た時の方が、痛いよ」
ブライアンは一瞬逡巡する素振りを見せてから、片手をアンジェリカの顎に添えてそっと顔を上げさせる。
「あなたは僕を――人を守ろうとする。同じように、僕は、あなたを守りたいと思うんだ。それが無理でも、せめて、人を守ろうとするあなたを隣で支えたいんだよ」
ジッとアンジェリカの目を見つめてくる彼の眼差しにあるのは、真摯な光だ。それしかない。
何よりも雄弁なその眼が、彼女の胸の中に先の言葉をいっそう強く押し込んでくる。
「私、を……」
ブライアンはアンジェリカのことを想ってそう言ってくれているのだと、彼女の頭は理解した。
けれど、そう理解したにも拘らず、その瞬間にアンジェリカの中に閃いたのは拒絶だった。
どうしてなのか、解からない。
でも、ブライアンの発言の中で、ひと際強く瞬く言葉がある。
(私を、守る?)
声に出さずに繰り返した途端、アンジェリカは、それはダメだと思った。
ガブリエルが彼女を守ろうとするのは、いい。許容できる。ガブリエルは彼女の兄だから。
(だけど、ブライアンは、ダメだ)
頭の中で警鐘じみた音が鳴り、ブライアンの言葉を打ち消そうとする。それは音のようでいて、どうしてか、人の声のようにも聞こえた。誰か、思い出せないのだけれども、確かに記憶の中にある声に。
(私は、強くならないと)
そう、アンジェリカは強くあらねばならないのだから。
守られるのではなく、守る者でなければいけないのだから。
「その必要は、ない」
呟きながら、アンジェリカは後ずさった。
「え? アンジェリカ?」
「私を守る必要は、ないから」
そう言い残し、クルリと踵を返す。ほとんど逃げる勢いで目を丸くしているブライアンの前から走り去り、ガブリエルの背後に回った。
「アンジェリカ、どうしたんだい? 話はちゃんとできた?」
背中合わせのまま、ガブリエルが首を捩じって肩越しに問いかけてくる。
アンジェリカは唇を噛み、ややしてから頷いた。
「できました」
「訊きたいことは訊けた?」
アンジェリカはまた頷く。今度は無言で。
訊けたことは訊けたけれども、その答えはまだ彼女の頭の中でグルグル回っていて落ち着きどころを見つけていない。
ブライアンの言葉は簡単で明確だった。
それなのに、どうして自分がこんなふうに混乱しているのか――アンジェリカには理解できなかった。
だから。
理解できないことは胸の奥に押し込めて、また滲み出してきてしまわないようにと、重い何かで蓋をした。




