切通にて①
ロンディウムを出て五日、アンジェリカ達一行は、翌日にはハイヤーハムに着くだろうというところまで来ていた。
ハイヤーハムがあるのは鉱山ばかりのノールス地方で、今馬を進めているこの路も山肌を切り拓いて造ったものだ。運搬用の路だけあって幅は余裕で馬車三台分ほどあるものの、両側には人の背丈の五倍はありそうな岩壁がそびえていて、何となく狭苦しく感じる。
そこを、先頭にガブリエル、間にブライアンを挟んで最後にアンジェリカ、という並びで進んでいたのだが。
不意に、ガブリエルがピタリと馬の足を止めた。
「どうしたんだい?」
ブライアンの呼びかけにも答えず、ガブリエルは耳を澄ます猫のように軽く首をかしげている。
兄のそんな様子に、アンジェリカも気持ち手綱を握り締めた。
実を言うと、この隘路に入って少ししたころから、彼女も微かな違和感というか、妙にソワソワするような落ち着かない気分を抱き始めていたのだ。
(なんだろう)
人工的に切り拓かれた道には木や岩などはなく、何かが隠れられるような場所はない。
何ものかが潜んでいるとしたら崖の上くらいしかないのだが、いかんせん、彼女たちがいる場所からその上を覗き込むことなどとうていできはしない。それに、もしもそこに何かがいたとしても、この高さではアンジェリカ達に手を出すことなどできないだろう。
(……できない、はず)
なのに、胸のざわつきは、刻一刻と強くなるばかりだ。
眉をひそめてアンジェリカが馬上で首を巡らせた、その時。
ザザッと、葉擦れの音。
音がした前方に目を向けると、少し離れた場所に崖の上から大きな木の枝――というよりも樹そのものと言ってもいいような代物が、落ちてきた。
一本、そして、二本。
その枝によって、道は完全に塞がれる。折り重なるように落とされた枝が張ったそれを、馬で飛び越えるのはムリそうだ。
そして、その枝の揺れも収まらぬうちに、右手の崖の上から綱が幾本も垂らされたかと思うと、滑るようにして男たちが何人も降りてきた。
「え……ええっ!? 何、これ?」
慌てた声を上げて前後に忙しなく首を巡らせたのは、ブライアンただ一人だ。アンジェリカは背後を、ガブリエルは進行方向を、見据える。
前方、道を塞ぐように落ちてきた枝の前には、六人。
後方、アンジェリカから馬五頭分ほど離れたところには、四人。
いずれもガタイが良く、むさくるしいひげ面。
薄ら笑いを浮かべながらゆっくりとアンジェリカ達との距離を詰めつつ、腰に差している棍棒を抜き放っている。
逆立ちしても、善意の人々には見えない。
明らかに、山賊、野盗、そういった輩だ。
この人数で来たということは、普段から、警護がついている隊商よりも今のアンジェリカ達のような旅人を狙って細々とやっているのだろう。
「やれやれ、だな」
うんざりしたようにガブリエルがつぶやくのが聞こえた。
アンジェリカがそちらに目を遣ると、兄はもう鞍から降りかけている。つまり、ヤル気ということだ。
(逃げるといっても道がああなってしまっては来た道を戻るしかないのだし、仕方がないか)
ハイヤーハムへの道が限られている以上、ここを進むしかない。いったん撤退して戻ってきたところで、のんびり待たれているのが関の山だろう。
アンジェリカもガブリエルに倣って馬から降りながら、ブライアンに目を走らせた。眉をひそめたその顔は怖がっている――ようにはみえないけれども、彼は温室育ちのせいか危険度の認識が甘いところがある。きっと今も、状況を良く判っていないに違いない。
(下手に動かれた方が危ないな)
そう判断して、アンジェリカは馬の手綱を握って小走りでブライアンのもとに向かった。そうしてそれを彼に押し付ける。
「え? アンジェリカ?」
「馬を逃がさないように」
目を白黒させているブライアンにアンジェリカがそう告げると、ガブリエルも自分の馬の手綱を彼の首にヒョイとかけた。
「私のも頼む」
「え、だけど、ちょっと、待って……」
若干興奮気味になってしまった馬三頭をさばくのは、結構大変だろう。
(一頭くらいは逃げられてしまうかもしれないな)
そんなことを思いながらアンジェリカはガブリエルに目配せをし、身を翻した。
「アンジェリカ!」
慌てふためくブライアンの声が追いかけてきたけれど、今は相手をしていられない。喧嘩は先手必勝、最初にどれだけ相手の出鼻をくじくのかが肝要だ。
男たちは、自分たちの方へと戻ってきたアンジェリカに、少し驚いたようだった。束の間歩みを止め、彼女を頭の天辺から足のつま先までまじまじと見たあと、ニタニタ笑いを深くする。
彼らに緊張感は皆無で、完全に、アンジェリカのことを侮っている。
「これはエライ上玉だな。野郎二人もちっとばかしトウは立ってるが、なかなかのもんだ。物好きはいくらでもいるからよ」
ドッと沸いた下卑た笑いが、実に不快だ。
「ま、おとなしくしてたら、イイところに売り飛ばしてやるからさ――」
言いながら、男の一人がアンジェリカに手を伸ばしてくる。
その指先がアンジェリカの腕に触れそうになったその時、彼女は握った拳を真っ直ぐ男のみぞおちに突き入れた。
まさかひ弱そのものの丸腰の小娘がそんなことをするとは思っていなかったのだろう。
何の防御もしていなかったここぞ急所という場所を寸分違わず捉えられ、男はほんの一瞬目を開いたかと思うとへなへなとその場に崩れ落ちた。
アンジェリカは力の抜けた男の手から棍棒を奪い、目の前の光景に呆気に取られている男たちの中に踏み込む。と同時に、棍棒を振るった。
ヒュッと空気を切り裂く音が微かに聞こえ、次いで、鈍い打撃音。
一発、そして二発目。
まずは膝を狙い、体勢を崩したところで頭に一撃。
「ぐぅッ」
呻き声一つを残して、二人目が地に沈んだ。
人数が半分になったところで、ようやく野盗たちは我に返ったらしい。
「くそ、このアマ!」
何ら新鮮味のない罵声と共に、左右から同時にアンジェリカに襲い掛かってくる。
だが。
(雑だな)
勢いだけはいいものの、日ごろ鍛錬の相手をしてくれているガブリエルに比べたらカタツムリ並みの動きにしか感じない。
アンジェリカは彼女めがけて振り下ろされた棍棒をかわしつつ、右手の男の横をすり抜ける。背後に回ると同時にそのうなじに棍棒を打ち込んだ。
声もなくくずおれた仲間に、残った一人が多々羅を踏む。その拍子に弾かれた小石がアンジェリカに跳んできた。頬をかすめたそれに、瞬きほどの間だけ、気が逸れる。
男は、彼女のその隙を見逃さなかった。
「どりゃぁあ!」
何の意味も持たない気合と共に男の頭上高くに棍棒が振り被られる。一転アンジェリカの頭へと落ちてきたそれを、彼女はかわし、ほとんど反射で手にした得物を男の腹に叩き込んだ。
(しまった)
アンジェリカは内心で舌打ちをする。
手加減を忘れてしまった。
白目をむいて昏倒した男は、口から泡を吹いている。
アンジェリカが首筋に触れてみると脈はしっかりしていて、とりあえず、命に別状はなさそうだ。
ほっと息をついて兄の方へと目を遣れば、彼も丁度片が付いたところのようだった。ガブリエルの方が相手の数は二人多かったけれども、たとえその倍いたとしても、彼がこんな輩に後れを取るはずがない。アンジェリカは、ガブリエルに関しては、爪の先ほども心配していなかった。
心配なのは、もう一人の方だ。
もう一度地面に転がる面々に目を走らせてから、アンジェリカは三頭の馬の手綱を握り締めたまま壁際にへばりつくように立っているブライアンに駆け寄った。




