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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。

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幕間・その一:大天使との語らい

 染み込んでくるような冷気にブルリと身が震える。


 ブライアンはその刺激でふと目を覚まして、どうしてこんなに寝心地が悪いのだろうといぶかしんだ。


 頬に触れるのは冷気、横たわっているのは明らかに寝台ではない硬い何か。

 肌にあたるのはやけにごわついた服で、どうも、色々着こんだままのようだ。普段は裸で寝るから、窮屈でたまらない。


(僕はどこで寝ているんだ?)


 まるで石畳の上だ、と思ったところで、現実を思い出す。

(そうだ、今は旅の途中で、野宿をしているところだった)


 身体を起こし、首を巡らせてアンジェリカがいるはずの方向へと目を向けると、彼女は小さく丸まるようにして眠りに就いている。


(寒くないのかな)

 ピクリとも動かないから、よく眠っているように見えるけれども。


 ブライアンは薪をいくつか火にくべてから、足音を忍ばせて彼女のもとへ行ってみた。仔猫のようにギュッと身を縮めているのは、寒いからなのだろうか、それとも、普段からこんなふうに眠るのだろうか。少なくとも、焚火の明かりに照らされている顔は穏やかに見える。

 少し迷ってから、ブライアンはまとっていた外套を脱ぎ、そっとアンジェリカに被せてみた。鋭い彼女のことだからそんなことをしたら起こしてしまうかもしれないとも思ったけれど、大丈夫だったようだ。


 アンジェリカはブライアンよりもだいぶ小柄だから、彼の外套ですっぽりと覆うことができた。

 彼女は可愛らしい吐息を一つ漏らして、それを引き寄せる。その表情は、さっきよりもホッとしているように見える。


(これは、ちょっと、まずい)

 寛いだ寝顔は、病的レベルの愛らしさだ。


 同意もなしに女性の寝顔を見るなど言語道断だと理性はがなり立てているが、ブライアンは一度見てしまったあどけないそれから目を逸らすことができなかった。


 この腕の中に包み込むことができるなら、もっと温かく、寝心地よくしてあげることができるのに。


 そんなことを思いつつ、焚火に照らされ仄かに赤みを帯びた銀色の睫毛や、シミ一つ見つからない滑らかな頬、油断をすれば手が伸びてしまいかねない薄っすら開かれた唇に見入る。


 今日は二十四時間アンジェリカと一緒にいられた。その二十四時間で、様々な彼女を見ることができた。


 頼りになる兄といることで垣間見せた、いつもよりも気負いの抜けた、幼げな表情。

 普段は絶対に見せない、無防備な仕草。

 夕食後、二人きりの時に見せた手で顔をこするところなど、あまりの愛らしさに危うくその場でのたうち回りそうになった。数多の美女の色気溢れる媚態でも動かなかった心が、無邪気この上ない仕草一つでグラグラ揺れるなど、我ながら、ちょっとおかしいのではないかと思ったりもする。


 ふらりとアンジェリカへと伸びそうになったブライアンの手を止めたのは、彼女が繰り返し口にしたある言葉だ。


(『信頼』、か……)

 その言葉は彼にとってとても嬉しく、そして少し、ツライ。


 アンジェリカは、『人として』ブライアンのことを信用してくれているのだろう。

 そして、彼のことを、これっぽっちも『男として』は見ていない。

 もしも小指の先ほどでもそれを意識していたら、多少の警戒心は見せるはずだ。間違っても、全幅の信頼など、寄せはしない。


(あなたに触れたいとか抱き締めたいとか口付けたいとか――)

 あるいは、それ以上のことを、彼が何食わぬ顔の下で望んでいるのだと知ったら、アンジェリカのその無心の信頼はどうなるのだろう。


(ひと月、耐えられるかな)

 ちょっと、いや、だいぶ、自信が揺らぐ。

 思わず、ブライアンの口からは溜息が漏れた。


 と、そこで、低い声が夜闇を破る。


「いい加減アンジェリカから離れろ。いつまでも天使の寝顔を堪能しているな」

 予期せぬ警告に、ブライアンの肩がビクリとはねた。悲鳴を上げなかっただけ御の字だ。


 振り返ると、衣擦れの音など全くしなかったのに、ガブリエルが身を起こしていた。炯々と光る濃い紫色の眼差しがブライアンを貫く。


「それ以上見ていたいと言うなら、その目を潰す」

 単なる脅しには聞こえない。紛れもない、本気の響きがそこにある。

 ブライアンはそろそろと立ち上がり、自分が寝ていた場所へと戻った。


 彼の動きを眼で追い続け、また毛布を被るのを待って、ガブリエルが口を開く。

「貴様は、アンジェリカをどうしたいのだ」


『貴様』。


 どうやら、アンジェリカの前では形だけでも取り繕っていた敬意はキレイにどこかにやってしまったらしい。


(まあ、確かに、彼に敬われるようなことは何一つできていないからな)

 束の間自嘲の苦笑を浮かべ、すぐに真顔になった。そうして、焚火の向こう側にある怜悧な容貌を真っ直ぐに見返し、答える。


「僕の妻になって欲しいと思っている」

「貴賤結婚は不幸を招くだけだ」

 即座に返されたのは、一刀のもとに斬り捨てるような声音だった。もしもガブリエルの手元に一振りの剣があったなら、実際にこの身は二枚に開かれていたかもしれない。


 ブライアンは唾を呑み込み、続ける。

「そんなことはないよ。身分差を乗り越えて結ばれて、幸せに過ごしている夫婦を知っている。それに、もしもアンジェリカが市井で暮らしたいというのなら、それでもいいんだ。家督は妹に譲ってもいいんだし。彼女はしっかりしているから、僕よりも良い当主になるんじゃないかな」

 はは、と笑ったブライアンに冷ややかな視線が注がれる。


「民に対する義務と責任を放棄するのか?」

 ガブリエルの糾弾に、ブライアンは、静かにかぶりを振った。

「できればしたくないけれど、誰かのために何かをしようと思えるようになったのは、アンジェリカのお陰なんだ。彼女がいなければ、僕はぐうたらなままだった」


 貴族の義務というものを、自分の庇護下にあるものの存在を自覚し彼らの為に何かをしなければと思うようになったのは、アンジェリカと出逢ったからだ。彼女に出逢えていなければ、今でも与えられるものを享受するだけの日々を送っていた。きっと、死ぬまで、そんな自分のままだった。


「僕が胸を張れる男になるには、彼女がいないとダメなんだ」

 ガブリエルに、というよりも、己に聞かせるように呟いたブライアンに、は、と嘲りの笑いが投げつけられる。

「そんな情けない男に僕があの子を任せる気になると思うのか?」


 思わない。


 だが、ブライアンは、背筋を伸ばして真っ直ぐにガブリエルを見返した。

「確かに、今はまだ、僕は駄目な人間だと思う。だけど僕は変わるよ。彼女の為なら、絶対に。僕は、ただ彼女が欲しいだけじゃない。彼女を支えられるようになりたいんだ」


 ガブリエルは、何も言わない。黙って、ブライアンを見据えている。その眼差しから、彼が何を考えているのかを読み取るのは難しい。

 だが、ガブリエルが納得しようが拒否しようが、ブライアンのアンジェリカに対する気持ちには変わりがない。


 無言で睨み合うブライアンとガブリエルの間で、アンジェリカが不意に小さく身じろぎをする。二人は同時にハッと彼女に目を遣り、じっと見つめた。アンジェリカはそのまままた眠りに落ちたらしい。


 ブライアンはホッと息をつく。そして、ガブリエルに目を戻した。

「もう、寝た方がいいよね。おやすみ」

 そう言って、ガブリエルの返事を待たずに少しばかり火の傍に近付いて毛布を被った。少し間を置いて、彼が横になるのが気配で伝わってくる。


 睡魔が寒さを押しやってくれるのを待ちながら、ブライアンは目を閉じアンジェリカのことを想う。


 アンジェリカは、守られることは望まない。

 共に過ごした日々から、彼女の言葉の端々から、それが伝わってくる。


 たとえブライアンの伴侶となってくれたとしても進んで彼に頼ることはしないだろうし、もしもこれ見よがしに守ろうとしたら、彼女はブライアンそのものを拒絶するようになるだろう。


(でも、彼女のことを支えることは、受け入れてくれるはずだ)

 アンジェリカは、かたくななまでに自分を律しようとする。強くあろう、いや、強くあらねばと、常に背筋を伸ばしている。


 ブライアンはそんなアンジェリカを美しいと思い、そんな彼女に憧れてやまない。

 けれど、ときには少しくらい自分を甘やかしてあげてもいいのではないだろうかと、もどかしくもなる。


 ブライアンは、アンジェリカが背負おうといるものを肩代わりしようとは思わない。そうさせて欲しいけれど、彼女はそれを許してくれないだろうから。


(常に僕に頼ってくれなくてもいいんだ。でも、彼女が惑ったときや疲れた時には、いつでも手を差し出せるようになっていたい)


 それだけの力は、持っていたいのだ。

 今はまだ持っていなくとも。


(いつか、必ず)


 決意を胸に刻みながら、ブライアンの意識は眠りの闇に呑み込まれていった。


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