北の地へ⑤
ガブリエルの姿が完全に闇に呑み込まれ、パチパチと爆ぜる音を立てる焚火の明かりの中にアンジェリカとブライアンだけが残された。
しんと静まり返った中で、アンジェリカはふと気づく。
二人きりだ。
猫の目亭の中で二人で話すとか、ちょっと二人で路地裏に入るとかは、今までにもあった。
けれど、こんなふうに、周りに全く人の気配がない状態で二人きりになるのは、なかった。
いや、強いて言えばウォーレス・シェフィールドに囚われた時は今に近い状態だったかもしれないけれど、さすがにあれと同じには考えられない。
何気なく、アンジェリカはブライアンに目を走らせた。彼は彼女を見ていて、目が合うといつものようにニコリと笑う。
アンジェリカは無言で目を逸らし、手の中のカップをジッと見つめた。
どうしてだろう。なんとなく、気まずい。
気まずいから兄の気配を探ってみたら、いっそう静寂がズシリと圧し掛かってくる。
あまりに周りが静かだから、ブライアンの呼吸の音も聞き取れてしまいそうだ。
――そんなふうに思ってしまったら、妙に落ち着かない気持ちになった。落ち着かない気持ちになるのが自分でも理解できなくて、余計に静けさが気になって、耐えられないほどになる。
(何か話を……)
身じろぎをしながらアンジェリカが会話のきっかけを見つけようとしたとき、まるでその考えを聞き取ったかのように、彼女に先んじてブライアンが口を開いた。
「それにしても、巡回警邏官なんて役職があったんだね。全然知らなかったよ」
気さくな口調はいつもと何ら変わらぬ彼のもので、アンジェリカは少しホッとする。
「そのことは公にしてはいけないらしいから、他の人には黙っていて欲しい」
「え? ああ、あなたがそう言うなら、もちろん、誰にも言わないよ」
そう言って、彼は笑みを浮かべてアンジェリカを見た。
「あなたが嫌がることは絶対にしないと決めているんだ。それに、あなたとの秘密をそう簡単に他の人にはあげられないな」
最後の方は冗談めかした口調だったけれども、きっと、とても真剣に考えてくれているのだろう。
アンジェリカは、彼のことを信用している。話さないと言ってくれたからには、絶対にそのとおりにしてくれるはずだ。
「ありがとう」
頬を緩めてそう告げると、ブライアンはアンジェリカを凝視し、それから束の間目を逸らした。すぐにまた視線を合わせてきたけれど、微妙にそわそわしている気がする。
(何だろう)
まるで見るに堪えないものなのにどうしても目を逸らせない、みたいな。
もしかして、頬にスープでもついているのだろうか。
そう思って、カップを片手に持ち替えて、空いた手の甲で顔をこすってみた。
と、ブライアンが、喉の奥で唸るような変な声を漏らす。
見れば彼は焚火のせいだけではなく顔を赤くして、片手で顔の下半分を覆っていた。笑いをこらえているように見えるけれども、そうではないようだ。
「何?」
「……ちょっと、それは、ムリ……」
「何が?」
「や、理性が、じゃなくて、ガブリエルはまだ戻らないのかな」
「……たった今行ったばかりだから、もうしばらくは帰らないと思う」
答えながらもアンジェリカは内心で首をかしげる。ブライアンがガブリエルといたがるなんて変な話だ。
そんな疑問が顔に表れていたのか、ブライアンは取り繕うような笑みを浮かべて付け加える。
「あなたも、こんな真っ暗な中で僕と二人きりというのは不安だろう? 僕はあまり頼りにならないし、ほら、その、一応、男だし……」
最後の方は、何かを窺うような言い方だった。
アンジェリカは少し考え、かぶりを振る。
「あなたが頼りないとは、もう思っていない。確かに、腕っぷしは兄の方があるけれど、あなたが一緒にいてくれると、心強い。この旅も、一緒に来てくれて嬉しい、と、思っている」
「アンジェリカ……」
ブライアンにはよほど予想外の台詞だったのか、手にしたカップが転げ落ちそうだ。
イマイチ本気と受け取ってもらえていないのかと、アンジェリカはもう少し言葉を重ねる。
「本当に、そう思っている。あなたといると、何だか落ち着くから」
「――落ち着く?」
覚束なげに繰り返したブライアンに向けて、アンジェリカは深々と頷いた。
ブライアンといると、時々、彼女の気持ちの振れ幅が大きくなる。
それは、アンジェリカも不本意だ。
ブライアンとの付き合いが始まるまでは、自分は情緒的に安定している人間だと思っていた。それなのに、最近は理解しがたい気分の揺れに襲われるときがあって、だいたいそれは、ブライアンがいるときや彼に絡んだことを考えたときに起きるのだ。
アンジェリカは常に平常心でありたいと思うし、誰からも脅かされない、大事な人を守れるだけの強さを持っていたいと思っている。それが、ブライアンといると、揺らいでしまうような気がするときがあるのだ。
それは、本当に、気に入らない。
けれど総合的に見ると、ブライアンがいると安心できるというか、寛げるというか。
と、ブツブツと呟く声が、アンジェリカの耳に届く。
「落ち着く……そうか……」
見れば、ブライアンは立てた膝の上に腕を置いて、その間に頭を垂らしていた。
「ブライアン?」
眉をひそめて呼びかけると、彼は頭だけ上げてアンジェリカを見た。そして、力のない笑みを浮かべる。
なんというか、とても、情けない顔だ。
(でも、どうしてそんな顔になる……?)
自分の発言の何かがそうさせてしまったのだということは判っても、何が悪かったのかがさっぱり判らない。
どう声をかけたらいいものかと思い悩んでいるアンジェリカの前で、ブライアンがまた独りで何やら呟いている。
「いや、信頼は大事だよね……うん、地道にそこから進めていくよ」
どういう意味だろうとアンジェリカは首をかしげたけれども、折よく戻ってきたガブリエルの気配に問い返す機を失ってしまった。




