北の地へ③
簡素な夕食を終えた後、眠り支度を整え始めたアンジェリカと、多少は体力を取り戻したように見えるブライアンに、ガブリエルが声をかけた。
「当座の予定を話しておこう」
邪魔にならないようにと髪を編んでいたアンジェリカは、その手を止める。
「え、でも……」
彼女は口ごもり、ブライアンに目を走らせた。
この旅の目的を話せば、必然的に両親やガブリエルの『仕事』のことにも言及しなければいけなくなる。それは、極秘事項のはずだ。
(なのに、部外者であるブライアンに聞かれても構わないのだろうか)
そんなアンジェリカの心の中の疑問をガブリエルは寸分違わず聞き取ったように、小さな頷きを返してきた。
「構わないだろう」
こともなげなその様子は、まるでブライアンのことを信用しているように見える。
(いや、確かに、彼は信頼できる人だけれど)
何というかブライアンは、そう、言うなれば海綿のような人だ。
色々なことをぶつけられても受け止めて吸収してケロリとしている。
彼には何度か愚痴をこぼしてしまったこともあるけれど、それも、まるで抱き留めるようにして聴いてくれた。
多分、とても懐が広くて優しい人なのだ。
アンジェリカは彼を良い人だと思うし、好意を抱いている。
けれど、彼女からすればそうでも、ガブリエルは彼のことを嫌っていたはずだ。それに、出会って数日の相手のことを、信用できるような人でもない。
この、急な方向転換はどういうことなのだろう。
眉根を寄せて兄を見るアンジェリカに、彼は肩をすくめてよこした。
「その男のことが気に食わないのは変わらないが、まあ、どんな人物かは、それなりに調べてあるんだよ」
予想外の言葉に、アンジェリカはまじまじとガブリエルを見つめる。
「そうなのですか?」
「君の傍にいる輩を放置しておくわけがないだろう? 今だから言うけど、これまでも、君に近付く者がいればトッド氏から連絡を受け次第速やかに身辺調査をしていたんだよ」
「え……?」
思ってもみなかった兄の発言に、アンジェリカは呆気に取られるばかりだ。視界の隅に、目を丸くしているブライアンも映っていた。
アンジェリカの手からこぼれて解けてしまった三つ編みに、ガブリエルが手を伸ばす。彼の指で器用に編み直されていくそれを、彼女は見るともなしに眺めた。
「変な虫はさっさと叩き潰さないといけないからね」
ガブリエルは悪びれた様子もなくにこやかにそう言って、それから、焚火越しにブライアンをチラリと一瞥した。
「彼のことは、コニーもトッド夫妻もやけに好意的でね。知人に教えてもらった猫の目亭以外での行状とは落差があって、どうしたものかと思っていたが」
「行状って――」
若干顔色を悪くしたブライアンが息を呑む。
「主には、誰とどんな付き合いがあったか。というより、それしかなかったな。しかも、数ばかりで深みがない」
「ちょっと待って、それ以上は」
何をそんなに焦っているのかというほど慌てふためくブライアンに素っ気ない視線を投げ、ガブリエルが更に続ける。
「良くも悪くも、為したことは何も出てこなかった。領地の運営は人任せ、王都でのんべんだらりと享楽にふけり、かといって、大きな悪癖に浸るわけでもなく。害にはならなそうだったが、益にもならない、そんな男だと聞かされていた」
のんびりした口調にも拘らず、ブライアンに注ぐガブリエルの声も眼差しも、氷柱のように冷たく鋭い。それをその身に受けるブライアンの方は、息もしていないのではないかというくらい、カチコチに固まっていた。
確かに、出会ったばかりはアンジェリカもブライアンを胡散臭い眼差しで見ていた。けれど、彼のことを知れば知るほど最初の印象とは違っていって、今では大事な友人となっている。
兄の誤解を、解かなければ。彼には、ブライアンのことをちゃんと知ってもらいたい。
「兄さま、彼は――」
しかし、何とか援護の手を差し伸べようと口を開きかけたアンジェリカを遮るように、ガブリエルが続ける。
「それが、ここ一、二ヶ月ほどの間に変わってきてね。議会にも顔を出すようになり、彼が挙げた議題は堅物で有名なケンドリック卿の賛同も得た、とか、まあ、他にもね」
その台詞の内容が頭に届いて、アンジェリカは目を瞬かせた。
どうやら兄は、ブライアンのことをそれなりに評価しているらしい――口調も視線も冷やかなまま、いや、いっそう温度を下げつつあるように感じられたけれども。
悪い印象は抱いていないようなのに、どうしてガブリエルから漂ってくるのは険悪な空気なのか。
アンジェリカは、ためらいがちに後押ししてみる。
「彼は良い人間で、信頼できます」
「いいにんげん……」
ブライアンが呟き声で繰り返すのが聞こえ、アンジェリカはそちらに目を遣りかけたけれども、ヒヤッと冷たい風が吹き抜けたような気がして動きを止めた。思わず両手で腕をさすった彼女に、短い応えが返る。
「そのようだね」
温もりの欠片もないその一言に、アンジェリカは当惑する。と、彼女のその表情に気付いて、ガブリエルが苦笑した。そこにあるのは、いつもの温かな眼差しだ。
「ああ、ごめん。とにかく、諸々の理由から、彼には多少の事情は話しても構わないだろうと思ったんだよ」
「兄さま」
ガブリエルは身をよじり、アンジェリカの頬へと手を伸ばす。そっとそれを包み込んで、微笑んだ。
「私は、君のことを信じているから、君が信じるに値すると思うなら、私も彼のことを信じてみるよ」
アンジェリカは兄の目を見つめてきっぱりと断言する。
「兄さま、保証します。ブライアンはすごく良い人ですから」
と、ほんの一瞬、ガブリエルの目が煌いた。どことなく、満足げに。
「そう、彼は『イイ人』なんだ?」
念を押すように――何かを確かめるように、彼がそう問いかけてくる。
「はい、とても」
兄に応えてアンジェリカが力いっぱい深々と頷くと、また、少し離れた場所から、「いいひと……」と繰り返す声が聞こえたような気がした。




