北の地へ①
そして、ロンディウムを出てハイヤーハムへと旅立つ日。
ようやく陽が地平線から姿を見せたばかりの、早朝。
「じゃあ、行ってくるから」
コニーやトッド夫妻に手を振って猫の目亭の扉を開けたアンジェリカは、そこに立つ人物に目を丸くする。
「!?」
「おはよう、アンジェリカ」
その人――ブライアン・ラザフォードは、固まるアンジェリカにひらひらと手を振って、晴れやかな満面の笑みと共にそう言った。
「おはよう、ブライアン」
朗らかな声で何の変哲もない挨拶にアンジェリカは反射的に応じ、そうしてから、我に返る。
「ここで、何を?」
思いきり、いぶかしげな声になっていたと思う。
でも、そんな声になってしまっても責めないで欲しい。
アンジェリカにしてみれば普段とそう変わらない活動時間でも、ブライアンにとってはそうではないはずだ。彼の人生の中で、この時間に眠りに就くことはあっても、目覚めたことは数えるほどしかないに違いない。
実際、アンジェリカに付き合って午前中に動くようになったころ、ブライアン自身も笑いながら言っていた――貴族の一日は昼から始まるのだ、こんな時間に動くことなどまず有り得ないのだ、と。
「アンジー、どうしたの?」
戸口で立ち止まったままのアンジェリカの肩越しに、ヒョイとコニーが覗き込んできた。そしてアンジェリカと同じモノを目にして声を上げる。
「あ、ブライアン、来たんだ。間に合わないかと思った」
「え? コニー?」
困惑と共に振り返って年下の少女を見ると、彼女はしてやったりという顔をしていた。
「出発の日を知りたいって言うから、教えてあげた」
アンジェリカは、にんまりと笑うコニーからブライアンに目を戻す。
彼がヘラッと笑うから、何だかイラっとした。
「私には何も言わなかった」
旅に出ることをブライアンに伝えたとき、きっと根掘り葉掘り訊かれるものだと身構えていた。けれどその予想に反して彼はそんなことはすっかり忘れてしまったかのように何も言ってこなかったから、てっきり興味がないのかと思って、何となくもやっとしたものがあったのに。
(そういうわけでは、なかったのか)
胸に湧いたのは、ホッとした、というのが一番近い気持ちだ。
どうしてそんなふうに感じたのかが自分でもよく解らず、アンジェリカは憮然とする。彼女のその表情をどう受け取ったのか、ブライアンの得意げな笑みが窺うようなものに変わった。
「えっと……あなたに直接訊くと、情報の漏洩が心配で」
「情報の漏洩?」
どういう意味だろうと眉をひそめるアンジェリカの前で、ブライアンは身体を捩じって背中の荷物を見せた。
「あなたの旅に、僕もついていこうと思って」
「……は?」
地を這うような低い声で疑義を呈したのは、アンジェリカではない。その背後、まだ店の中にとどまっていた、ガブリエルだ。
彼はアンジェリカをそっとよけて彼女の前に立つと、ブライアンの頭の天辺から足のつま先まで、これ見よがしに視線を這わせる。
「今、何か妙な台詞が聞こえたような気がしたが?」
顎を上げたガブリエルが、鼻の先から見下ろすようにして言った。明らかに威圧する気満々だったけれども、ブライアンには全く影響を及ぼしていないらしい。
初冬の空気よりも冷やかな気を発しているガブリエルを、彼は風に揺れる柳のごとくに受け流す。
「ああ、聞こえなかったかい? 僕も、一緒に行くよ」
至極当然、決定事項、と言わんばかりのブライアンだったが、ガブリエルが返したのは端的な一言だ。
すなわち――
「却下」
そうしてアンジェリカの背に手を当て、促す。
「行こうか。馬屋には話を通してあるから」
同じ人間とは思えない、一瞬前とは打って変わって柔らかな声と表情でそう言って、ガブリエルはアンジェリカの腰を抱いたままブライアンの横を通り抜けた。
一瞥もやらずにスタスタと歩くガブリエルに、ブライアンが追いすがる。
「ちょっと待って、僕がいれば色々と便利だろう?」
「どこが」
「ほら、路銀とか」
「間に合っている」
「うちの馬車は乗り心地が良いよ?」
「急ぎの旅だ。馬で行く」
「でも、ひと月かかるのだろう? 荷物とか、馬じゃ載せられないじゃないか」
そこでようやくガブリエルが足を止め、嘲り――いや、そんなものすらない眼差しをブライアンに投げた。
「物見遊山ではない。荷物はこれだけだ」
そう言って彼が示したのは、肩に背負った布袋だ。かなり大きめだけれども、旅の荷物はその一つ。それに腰に結わえた小さめの鞄だけ。アンジェリカも大差ない。
ブライアンはポカンと目を丸くした。
「え、それだけ? けど、だって、着替えは? それ以外にも、色々あるだろう?」
牛が空を飛んでいると言ってもこんなに驚き顔にはならないのではなかろうか。
何故か妙に気の毒になって、アンジェリカは説明する。
「質素な方が安全だから。荷物が多いほど、それを狙う輩が増えてくる」
実際、幼いころの両親との旅暮らしも、今と同じような荷物しか持っていなかった。よほど辺鄙なところに向かったときは馬車を使うこともあったけれど、基本的には徒歩か馬かで、快適さとは無縁だった。
(――それでも、楽しい毎日だった)
記憶が、チクリとアンジェリカの胸を刺す。
兄と過去について話し合ってから、それまではぼんやりとした夢のようになっていた当時のことが、妙に鮮明な感覚を訴えてくるようになってきていた。何があったかとかを、はっきりと覚えているわけではない。ただ、あの頃にどう感じていたか、それを思い出すようになったのだ。
想いだけが生々しい。
だからなのか、思い出すたび憧憬が募る。
「アンジェリカ?」
窺うようなブライアンの声で呼ばれて、彼女は物思いから浮上する。気遣わしげな緑の眼差しに心の内を探られる前に、頭を切り替えた。
「ああ、すまない。とにかく、あなたには不自由な旅だと思う。やめておいた方がいい」
かぶりを振ったアンジェリカにブライアンは何か言いたそうにしていたけれど、それ以上の追及は断念したらしい。
「それでもいいから、行きたいんだ」
「多分野宿も多いと思うし、食事も保存食ばかりになる」
「そんなこと、どうでもいいよ」
ブライアンはあっさりとそう言ったけれど、実際に経験したら一日と耐えられないに違いない。
別に、ずっとついてくるわけではないのなら、取り敢えず、一緒に行ってもいいのかもしれない。
そんな考えが、アンジェリカの頭の中をよぎった。
それに。
(ひと月、彼の姿を見ないかもしれないのか)
こうも毎日欠かさず傍にあったものが無くなるのは、少し、ほんの少しだけ、物足りない気分になるかもしれない。
コニーたちに対してはあまりそんなふうに感じないけれど、きっと、ブライアンよりも長く一緒にいたからだろう。
アンジェリカはもう一度彼を見て、それから兄に目を移した。
「兄さま」
呼びかけで、可否を問う。
ガブリエルはずいぶんと渋い顔をしてから、いかにも不承不承といった風情のため息をこぼした。
「彼がついてこられるならね」
「いいのですか?」
「まあ、君が私に何かを望むなんて滅多にないことだし。……それがこんなことだというのが、業腹だがな」
終盤はブツブツと小さな呟きで、その射るような眼はブライアンに向けられていた。
「持つ物は寝るための毛布と下着の替え、食器、洗顔道具程度だ。私たちは北の街道を行く。支度を整えて追いかけてこい――馬車ではなく、馬で。服もその派手なものではなく、使用人のものを借りるんだな」
立て板に水でそれだけ言うと、ガブリエルはブライアンが理解したかどうかを確認することはせず、再びアンジェリカを誘って歩き出した。
アンジェリカは兄の腕の中からブライアンを振り返る。彼はまさかガブリエルから許可が下りるとは思わなかったのか、ポカンとしていた。
「ブライアン」
呆けていたブライアンは、アンジェリカの呼びかけで目を瞬かせる。
呼びかけたはいいけれど、彼と目が合ってから、何を言うかを考えていなかったことに気づいた。
アンジェリカは束の間迷い、結局、事実だけを口にした。
「その……待っている」
刹那、ブライアンの顔がパッと輝いた。まるで、お菓子の山を前にした子どもたちさながらに。
「すぐ追いつくから」
そのあまりにあけすけな喜びように面食らうアンジェリカにそう残すと、彼は身をひるがえして駆け出していった。




