封じられていた過去③
兄から両親のことを聞かされた、翌日のことだった。
多分、議会帰りなのだろうという時間にふらりと店に現れたブライアンは、アンジェリカを一目見るなり眉をひそめた。
「ブライアン?」
小首をかしげたアンジェリカをさらに見つめ、そしてつと目を上げると、彼は彼女同様開店準備にいそしんでいたコニーに声をかける。
「コニー、まだ店は忙しくないよね。ちょっとアンジェリカをいいかな?」
「ブライアン、いったい何を――」
唐突に勝手なことを言い出した彼にアンジェリカは抗議の声を上げようとしたけれど、それに被さるようにコニーの返事が明るく届く。
「いいよ、大丈夫」
「ありがとう。アンジェリカ、ちょっと外に行こうか」
アンジェリカの頭越しに話を進めて、ブライアンが彼女の肘に手を添えた。
「ブライアン、私は――」
憮然として彼を振り仰いだ彼女だったけれども。
「お願いだ、少しの時間でいいから」
駄目かい? と眉を下げて目で問われると、何となく断りにくくなる。
「……本当に、少しだけだから」
「ありがとう」
ブライアンはしなびた顔から一転にっこり笑う。華やかな金髪のせいなのか、それともその屈託のなさのせいなのか、彼がそんなふうにすると、なんだか灯りが一つ増えたような感じになる。押しは強くないのに何となく言うことに応じてしまうのは、ブライアンのそういうところのせいかもしれない。
触れるか触れないかという力加減で肘を取られたまま、アンジェリカはブライアンと共に店を出て、脇の路地に入った。少し奥まで行って、彼が立ち止まる。
ブライアンはアンジェリカの肘を放すと、また、しげしげと彼女を見下ろしてきた。
何なのだろう。
眉根を寄せた彼女に、ブライアンは何かを確信したように小さくうなずき、そして問いかけてくる。
「何があったの?」
「……え?」
唐突に問われて、アンジェリカは目をしばたたかせた。
何の用だと訊きたいのは自分の方だと言い返しかけて、ハタと気づく。
ブライアンは、『何か用か』とは言っていない。『何があったのか』と訊いてきたのだ。
その意図が読めなくて、若干警戒気味にアンジェリカは顎を引いたまま彼を見上げる。
「何故、そんなことを訊く?」
「え、だって、元気がないから」
さっくり返され、アンジェリカは続ける言葉を失った。
「元気……?」
呟くようにそれだけ繰り返した彼女に、ブライアンは深々と頷く。
「何か気になることでもあるのかい? 孤児院のこと? それとも、また、何か事件? 僕にできることはある?」
当然のように言ってくるブライアンを、アンジェリカは声もなく見上げた。彼の緑の瞳には、彼女のことを案じる光が満ち溢れている。アンジェリカはいつもと何一つ変わらぬ対応をしていたつもりだったのに、彼女に何か思うことがあるということを、ブライアンは確信しているようだった。
(ああ、そうか)
アンジェリカは、胸の中でこぼす。
このブライアンという人は、のほほんと能天気に見えて、意外に、いや、かなり、察しがいいのだ。今回のことだけでなく、外見的なものでも内面的なものでも、アンジェリカのちょっとした変化にすぐに気づく。
この間なんて、服の袖に隠れがちな手首の擦り傷に眉をしかめて、翌日にはよく効くという軟膏を持ってきてくれた。「舐めておけば治るから」と言ったアンジェリカに、「じゃあ、僕が舐めてあげようか」と返し、彼女が怯んだその隙に、半ば無理矢理その薬を塗りつけていったのは、まだ記憶に新しい。
と、今も、スッと動いたブライアンの眼がアンジェリカの身体の脇辺りで止まり、右から左に流れたかと思うと、その表情を曇らせる。
「何か?」
彼があまりに渋い顔をしているから、先に質問を投げかけられていたことも忘れてアンジェリカの方から問い返してしまう。
ブライアンは彼女に向けて手を伸ばしかけて、ふと動きを止めた。
「えっと、触れてもいいかな?」
「? 別に、構わないが?」
何をいまさらと怪訝に思いながら許可を出せば、ブライアンはひびの入った卵でもかくやという所作で、アンジェリカの両手を取って彼女の目の高さほどまで持ち上げた。やけに難しい顔で彼が見ているのは、その手のひらの側だ。ブライアンは、そこに残る三つの小さな傷を凝視している。
「これは?」
「手をきつく握り過ぎたらしい」
強く握り込み過ぎて、爪が食い込んだ時にできた傷だ。
はっきりとした事実だけを口にしたアンジェリカを、ブライアンは真っ直ぐに見つめてきた。何も言わないが、その眼差しで、続きを促していることがひしひしと伝わってくる。
けれど。
(どこまで話していいのだろう)
アンジェリカは黙考した。
両親の死が事故ではなかったかもしれないこと。
彼らが巡回警邏官なる特殊な任務に就いていたということ。
彼女の中に記憶の欠落があること。
近いうちにそれを探しに旅に出ること。
ウォーレス・シェフィールドと十年も前から関係があるかもしれないこと。
その中の一つを話したら、結局ズルズルと他のことも話す羽目になってしまいそうだ。
彼女は少しためらい、口を開く。
「今度、両親が亡くなった場所を訪れてみることになった」
ブライアンの眼差しが、ほんの少し翳った。
「お墓参り?」
「そのようなもの、かな」
「どこにあるの?」
「ノールス地方」
「え?」
ポカンと口を開けたブライアンに、アンジェリカはもう一度告げる。
「ノールス地方のハイヤーハム」
二度聞かされてようやく頭に届いたのか、我に返ったブライアンが若干狼狽を見せながら畳みかけてくる。
「え、だって、遠いよ? どのくらい留守にするの?」
「もしかしたら、一ヶ月ほど」
行った先で色々調べるかもしれないし、兄はひと月休暇を取ったと言っていたから、そのくらいになる可能性もあるだろう。
そう考えての返事だったが。
「いっかげつ……」
呆然の態で、ブライアンが繰り返した。彼はアンジェリカの手を握っていることを忘れているらしく、ギュッと締め付けがきつくなる。ちょっと、痛い。
「一ヶ月とかあり得ないよ。そんなの、絶対無理だ」
かすれた声で呟いたブライアンに、アンジェリカは眉根を寄せた。
「店は大丈夫だと言ってもらえた」
「そうじゃなくて」
「旅慣れた兄も一緒だから道中は特に問題ない」
「だから……」
彼はもどかしげにさらに言いかけ、結局言葉を見つけられなかったのか、そのまま口をつぐんだ。そしてそうやれば答えが見つかるとでも思っているかのように視線を彷徨わせ、そこでようやく、自分の手の中から覗くアンジェリカの指先が白くなっていることに気付いたようだった。
「ああッ! ごめん!」
ブライアンは手を開くとその上にアンジェリカの手をのせ、じわじわと彼女の指先に赤みが戻るのを見守った。そうしながら、口を開く。
「ご両親のことを思い出してつらいのかい?」
「え?」
「アンジェリカが沈んでいる、理由。事故で亡くしたんだよね?」
(どうしよう)
兄から聞いたことを言ってしまおうか。
迷いながら、そうしたい気持ちの方が強いような気がして、アンジェリカは戸惑った。コニーやトッド夫妻にすら伝えていないようなことを、まだ出会って間もないブライアンには言ってしまいたいと思うなんて。
そんなふうに思う自分が、理解不能だ。そして、そんな自分は、妙に受け入れがたい。
言い淀んだアンジェリカに、ブライアンが目線を上げた。
彼はアンジェリカの目をジッと見つめてくる。その緑色の眼差しに胸の奥まで覗かれてしまいそうで、彼女はフイと視線を逸らした。
ブライアンは束の間身じろぎ一つせずにいたけれど、やがてもう一度そっとアンジェリカの手を包み込み、それからそれを放す。
ブライアンが一歩だけ離れたことを、アンジェリカは少しだけ持ち上げた眼で確認した。と、彼と目が合ってしまう。
もっと何か言われるのかと気持ち身構えた彼女に、しかし、彼は微笑んだ。
「そろそろ、店に戻ってあげた方がいいんじゃないのかな」
そんな至極普通な台詞に、アンジェリカは拍子抜けする。
「え……ああ」
憮然とした顔で頷いた彼女に、ブライアンはもう一度にっこりと笑顔をよこした。
――何となく妙な含みがあるように見える気がする、笑顔を。




