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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
第一部:地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。

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天使の鞭は痛くて甘い⑦

「アンジェリカ!」


 呼ばわっても返事はなく、ブライアンがいるところからは、上の様子はまったく判らない。だが、複数の男たちの声が聞こえるのだけは確かだ。荒々しい声で、何か言い合っている。

 踏ん張る足場のない海中で懸命に床板に手を伸ばすブライアンは、焦燥で頭がおかしくなってしまいそうだった。


 ウォーレスの手の者なのか。

 もしもそうなら――


 彼女を奪われてしまう。

 もう、二度と逢えなくなる。


 その可能性が脳裏をよぎった瞬間、ブライアンの頭は真っ白になった。口からは、怒りと共に罵り声が飛び出す。


「くそ、貴様! アンジェリカを返せ! その人に触れたその手を焼き潰してやる! いいか、たとえ今逃げおおせようとも、どこまででも、たとえ地獄まででも追いかけてや――」


 と、ひょこりと覗いた顔に、ブライアンの舌がぴたりと止まる。


 銀色の髪、白いかんばせ

 それはさながら月の光の中で咲く可憐な花の様で。


「アンジェリカ!」


 ホッと声を上げたブライアンの目の前に、先ほど彼女を奪っていった手が差し伸べられる。その先を辿っていって目が合ったのは、床板の上から身を乗り出したブラッド・デッカーだった。


「デッカー……」

「貴族のくせに、ずいぶんと口が悪いな」

 憮然とした口調でそう言いながら、暗い中で光る眼には面白がる輝きがチラついている。

「すまない」

 確かに、紳士らしからぬ罵声だった。

 謝罪と共に、ブライアンはデッカーの手を取る。と、力任せに引き上げようとした武骨な警官に、アンジェリカが声をかける。

「彼は左脚が折れているから、気を付けて」


 言われたとたんに、そこがズキズキと痛みを主張し始めた。さっきまで何も感じていなかったのが嘘のようだ。

 デッカーは慎重に引き上げてくれたが、それでも、激痛甚だしい。

 苦痛のうめきを噛み殺しながらどうにかこうにか引っ張り上げてもらって、釣り上げられた魚よろしく床に寝転んだブライアンの横にすかさずアンジェリカが膝を突く。

 デッカーはサッとブライアンの全身に目を走らせると、立ち上がった。近くの部下から外套を受け取り、彼に掛けてくれる。


「ラザフォード卿を運べるよう手配をしてくる」

 言うなり大股で立ち去ろうとしたデッカーを、ブライアンは横たわったまま頭だけ持ち上げて引き留める。

「ちょっと待って、ウォーレスは――ウォーレス・シェフィールドはどうなった? 彼が黒幕なんだ」

 彼の問いに、デッカーはグッと奥歯を噛み締めた。そして答える。


「捕らえた男たちの中には、それらしき者はいなかった。逃げられたらしい」

「そうか……」

 となると、また、アンジェリカが狙われるということか。


 ブライアンの頭の中に、彼女の行方が分からなくなってから再びその姿を目にするまでの数時間のことがよみがえる。死んだ方がましだと思うほど、苦しかった。もしも見つからなかったらと、考えるだけでも身がすくむ。


(奴が何度来ようと、もう二度と奪わせない)

 ブライアンは凍えた両手を固く握りしめた。と、その右手に、そっと柔らかなものが重ねられる。


「ブライアン」

 アンジェリカは、深沈たる眼差しを、ブライアンに注いでいた。小さな手で、ブライアンの拳を包み込む。


「アンジェリカ」

 彼女を見て、彼女の名前を口にすると、ブライアンの中で吹き荒れていた嵐が、スッと収まった。彼は爪が食い込むほど力を込めていた拳を開き、ひっくり返して、そっとアンジェリカの手を握る。


「寒くない?」

「平気だ。これを貸してもらったから」

 言われて初めて、彼女の身体がすっぽりと大きな外套に包み込まれていることに気付く。


 デッカーは、外套を着ていなかった。ということは、多分、彼女が羽織っているのは彼のものなのだろう。


 アンジェリカの頬の色が海の中にいたときよりも赤みを増していることに安堵しながらも、彼女がデッカーの――他の男の服にくるまれている思った瞬間、ブライアンの胸はざわついた。

 彼女を包み込んでいるものが、他の誰かが身にまとっていたものなのだということが、どうしてか、非常に、面白くない。さっきの、ウォーレスのことを考えていた時とはまた別種の不快さだ。


 不意に沸いた苛立ちに困惑したブライアンだったが、どうやらそれが顔に出てしまったらしい。覆いかぶさるようにして、アンジェリカが彼の顔を覗き込んできた。


「大丈夫か? 脚が痛む?」

「え、あ……」


 現金なことに、いかにもブライアンのことを案じる彼女の声に、彼の中の不快な思いはひと吹きでかき消される。重石のように心にのしかかっていたものが、一瞬にしてどうでもいいことに感じられるようになった。

 視界一杯の、菫色の瞳は大きく見開かれている。暗い中でもはっきりと見て取れる紫水晶のような美しさに、ブライアンは魅せられる。


 そして。


(もしかしたら、今、彼女の頭の中には僕のことしかないのかもしれない)

 彼がそう思っても許されてしまいそうな何かが、アンジェリカの眼にはあった。


 見惚れるあまりに答えることを忘れてしまったブライアンに、彼女の眉が曇る。


「ブライアン? 痛い?」

 潮水のせいか、少し嗄れた囁き声。

 それに鼓膜を撫でられて、気付いた時には、ブライアンの口からは、言葉にすべきではない願望が転げ出していた。


「あなたにキスしてもらったら、大丈夫になると思う」


 ――沈黙。


(ちょっと待て。僕は、今、何を言った……?)


 キスとか、口走ったような気がする。

 いや、間違いなく、言った。


「違う、今のは――ッ!」


 脚のことを忘れて思わず起き上がりかけて、足の指の先から脳天まで走り抜けた激痛に、ブライアンはバネが戻るように仰向けになる。ギュッと目を閉じて、吐き気を催すほどの痛みに耐えた。


「莫迦だな、動いたらダメじゃないか」

 苛立たしげな声があり、ブライアンの胸に何かが添えられる。


 何とか目蓋を上げて、痛みのあまりに滲んだ視界で確かめれば、彼の動きを押さえようとでもしているかのように、そこにはアンジェリカの小さな手が置かれていた。


「もう少ししたら、担架が来るから。そうしたら、医者に連れて行ってもらえる」

「あ、ああ、……そうか……」


 どうやら、彼の愚かな要望は彼女の耳には届かなかったらしい。

 それが良かったのか、悪かったのか。


(いや、良かったんだよな)

 そう思いながらも、なぜかあまり心は和らがない。


 微妙に残念に思う気持ちを頭の奥に追いやろうと、ブライアンは目を閉じた。


 と、その時。


 頬の、唇の横の辺りに、柔らかく、ほのかに温かな感触が。


 ほんの一瞬の、鳥の羽がかすめていったかのようなその感触に、ブライアンはパッと目を開けた。見えたのは、いつも通り真っ直ぐに背筋を伸ばして座り、生真面目な顔をしているアンジェリカの顔だ。


(気の、せい?)


 今の、まるで彼女のその唇が触れたかのような、感触は――?

 ふわりと丸いその頬が薄っすら赤みを帯びているように見えるのは、この寒さのせいだろうか。


 瞬きも忘れてアンジェリカに見入るブライアンに、彼女はわずかに首をかしげる。


「効いたか?」


 気のせいでは、なかった。


 刹那。


 ぶわりと、腹の底から何かが込み上げてきた。それはまるで上質の酒に酔わされた時に似ているようでいて、それを遥かに上回る心地良さだ。


 今までブライアンが重ねてきた恋愛遍歴の中で、こんな唇がかすめただけのようなものは挨拶ですらしたことがない。

 だが、にも拘らず、アンジェリカの唇が与えてくれたそれは、どんな濃厚な口づけよりも甘く、強烈に、巨大な楔のごとく彼の胸の中に深々と打ち込まれた。


「もう、死んでもいい」


 あまりの多幸感に、そんな台詞が出てしまう。


 と。


 まだブライアンの胸のあたりに置かれていたアンジェリカの手に力がこもった。


 次いで。


「それは、嫌だ」

 ぼそりと届いた呟き声。


 それを耳にし、ブライアンは、頼むから今この瞬間に息の根を止めてくれと、心の底から切実に、天に祈った。


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