天使の鞭は痛くて甘い⑥
一瞬の、浮遊感。
腕の中のアンジェリカが息を呑む。
「ブライアン、何を――」
「口を閉じて!」
戒めの言葉を口走りながら、ブライアンは反射的にもがいたアンジェリカを自分の身体の中に閉じ込めるように抱きすくめる。
宙に浮いていたのはほんのわずかな間のはずだ。
だが、背中が水面に叩き付けられ、全身が氷のような水に包み込まれるまでに、ずいぶん長い時間がかかったような気がした。
夜の水の中は暗く、無理やり動かした脚は気が遠くなるほど痛い。
(上……上は……)
ブライアンは闇雲に上下左右に頭を振った。その視界を、白銀の輝きがかすめる。
一瞬、アンジェリカを手放してしまったのかと思った。だが、彼女は確かにこの腕の中にある。
ハッと首を反らせると、揺れる水面の向こうに丸く輝く月が見えた。
(あっちが、上か)
ホッとしたのも束の間、酸素が枯渇し限界を迎えつつある肺は焼けたレンガのようで、今、その役目を果たせないまま彼の胸の中を占拠している。
自分がこれほど苦しいのなら、アンジェリカならなおさらだろう。
(早く、外へ)
だが、脚にまとわりつくドレスを身にまとったアンジェリカは、ほとんど泳げないに違いない。
ブライアンはいったんアンジェリカを手放し、彼女の脇に右腕を回した。そうして左腕で水を掻き、両足をばたつかせて水面を目指す。
彼がまだ十歳かそこらだった頃、家族で海辺に避暑に行ったとき、当時の家庭教師から泳ぎをみっしり仕込まれたことがある。「幼い妹が溺れた時には、兄であるブライアンが助けなければならないのだから」と。
その時に身に沁み込んだものは、今も褪せていなかったらしい。
身を切るような水の冷たさが感覚を奪いつつあるせいか、命の危険が迫りつつあるせいか、それともあるいは、何としてでもアンジェリカを守らなければという思い故か、ブライアンは脚の怪我などないように力強く水を蹴る。
思ったよりも、水面は近かった。
伸ばした手が、水ではないものに包まれる。次の瞬間、跳ねるように水中から飛び出して、ブライアンは大きく喘いだ。が、自分の呼吸はそこそこに、腕の中のアンジェリカに目を走らせる。
「アンジェリカ!」
彼女は激しく咳き込んでいる。苦しそうではあるけれど、咳をしているということは意識も呼吸もあるということで、ブライアンはひとまず胸を撫で下ろす。
「アンジェリカ、ゴメン。大丈夫かい?」
「あ、なた、は……存外、無茶を、する」
切れ切れの息で、アンジェリカが言った。その口元に浮かんでいるのは苦笑だ。そして菫色の眼差しには、呆れと感心が同居している。呆れだけでないのだから、ブライアンにしてみれば上出来だ。
「他に考え付かなかったんだ」
彼女に微笑み返してから、ブライアンは辺りを見回した。
少し離れたところにそびえる岸は切り立っていて、手を伸ばしても登れそうにない。
彼らの場所からは上の様子を確認することはできないが、上はずいぶんざわついているようだ。ウォーレスたちが追いかけてきたのかと思ったが、何となく違う喧騒の気がする。第一、後ろめたいことを企んでいる悪人は、こんなふうに騒ぎ立てないのではなかろうか。
「もしかして、デッカーたちが来てくれたのかもしれないな。あるいは、コニーたちが街の人を呼んできてくれたとか」
もしもそうなら、大声を上げれば助けてもらえる。
楽観的に考えて口を開けかけたブライアンを、アンジェリカが制した。
「かもしれない。が、そうでなければ、引き上げられると同時にまたウォーレスに囚われてしまう」
冷静にそう言ったアンジェリカの歯は絶えずカチカチと鳴っていて、唇の色も急速に褪せていっている。実際、身を切るような水の冷たさに、ブライアンの手足の感覚も完全になくなっていた。逃げるのもそうだが、何より、アンジェリカの身体を温めてあげないといけない。
「とりあえず、水から出ないと」
呟いたブライアンに、彼の腕の中でアンジェリカが首を巡らせた。そうして、岸ではなく沖の方へと指先を向ける。
「桟橋の先端には梯子があるはずだ」
「桟橋の先?」
アンジェリカのセリフを繰り返して、ブライアンは岸に背を向け右と左を見遣った。
左手には、今二人が飛び降りたウォーレスの船が。
右手には、それよりも小ぶりの帆船が。
もちろん、ウォーレスたちがいる桟橋に戻るわけにはいかない。
となると、距離はあるが右手の桟橋を目指すことになる。
(桟橋の、先)
月明かりの中で目をすがめても、大きな船の陰になっていて、それを視認することはできない。
(まあ、行くだけ行ってみよう)
アンジェリカが言うことに間違いはないはずだ。
ブライアンは、腕の中の彼女を見下ろした。
「アンジェリカ、あなたは一人で泳げる?」
「いや、こんなふうに水に入ったことはない」
少し不満げ、いや、悔しげに言ったアンジェリカは、なんともあどけなく微笑ましい。妹のセレスティアも、ブライアンができることが自分にはできなかった時には、こんな顔をしていたものだ。
(いやいや、ほっこりしてる場合じゃないし)
つい緩んでしまった頬を引き締め、ブライアンはアンジェリカを抱え直した。
「できるだけ力を抜いて、僕に全部委ねて欲しいんだ」
「わかった」
素直にうなずくアンジェリカ。
今はほとんど自分の体温と同化しつつある彼女のほのかな温もりを身体の脇に感じながら、ブライアンは、別の状況でこんな遣り取りをしたかったとしみじみと思う。アンジェリカの肢体はとても華奢であるにもかかわらず、うっとりするほど柔らかい。
(本当に、こんな状況でなければ)
知らずのうちに彼の口から漏れたため息に、アンジェリカが小首をかしげて見つめてきた。
「ブライアン?」
「ああ、いや、何でもないよ」
まさに『そんな状況ではない』ようなことを考えてしまっていたブライアンは、我を取り戻しごまかす笑いを浮かべて、かぶりを振った。そうして、彼女の身体に回した腕に力を籠める。
「じゃあ、行こう」
そう一声かけて、ブライアンはグイと腕を伸ばした。
動き出してみると、余計に水の冷たさが身に染みる。だが、冷たいからこそ手足の感覚――脚の痛みが失せ、こうやって動かすことができているのだろう。今は、それが救いだ。
家庭教師にみっちり仕込まれたとはいえ、ブライアンは水泳の達人とはほど遠い。
魚のように、とは言えないが、どうにかこうにか波間を縫って、ブライアンたちは隣の桟橋を目指す。
停泊中の船の腹に沿ってしばらく進み、船首の前をぐるりと回ると、桟橋の脚が見えてきた。先端までは、まだ結構ある。
ひとまずすぐ下まで行って見上げた床板は岸と同じくらいの高さがあって、やっぱり梯子でもない限り登れそうにない。
(でも、アンジェリカだけなら、僕が持ち上げてあげれば何とかなるかな)
そんな考えがブライアンの頭の中をよぎったときだった。
突然、ゴッゴッゴッゴッと、すさまじい勢いで重い足音が近づいてきた。
(追っ手!?)
すぐさまそこから離れようとしたが、急な方向転換は脚に絡みついてきたアンジェリカのスカートに阻まれる。
「!」
桟橋の上からヌッと伸びてきた手からアンジェリカだけでも遠ざけようとしたが、遅かった。
彼女の細い肩が、暴力的と言ってもいいような荒っぽさで大きな手に掴まれる。
奪われまいとブライアンが腕に力を込めた時にはもう遅く。
そのまま、彼にはなすすべもなく、アンジェリカは桟橋の上へと引きずり込まれていってしまった。




