天使の鞭は痛くて甘い⑤
最後の梯子は幅広で、ブライアンとアンジェリカは並んで上ることができた。彼女に助けられ、ブライアンは何とか甲板を覗けるところまで辿り着く。
細心の注意を払ってそっと様子を窺うと、甲板は蜂の巣を突いたようだった。
大声を出して騒ぐ者はいない。だが、二十人は下らない男たちが絶え間なく走り回っている。
「これ、出航の準備なのかな」
ブライアンは彼らの様子に眉をひそめた。いささかげんなりした口調なのは、仕方がない。結構な高さ分を上ってきたわけだが、そこに至るまで、うっかり左脚を使いそうになったり、うっかり梯子にぶつけてしまったり、痛いというのはどういうことか判らなくなるほど痛い思いをしてきたのだから。
アンジェリカもジッと男たちの動きを見つめていたが、やがて頷いた。
「確かに、船出というより……何というか、働きアリみたいだ」
さらにグルリと見てみれば、少し離れたところにあるここと同じような出入り口から、男たちがひっきりなしに出たり入ったりしていた。いや、正確には、下から運ばれて来る物を甲板にいる者が受け取り、次から次へと運んでいるのだ。
「船倉から荷物を運び出しているようだな」
アンジェリカが呟いた。
「私が仕掛けを置いてきたところとは、違うようだ」
どうやら、その出入り口はブライアンたちが閉じ込められていたのとは別の倉庫とつながっているらしい。出入口は、ブライアンたちが今いるところと、アンジェリカが潜り込んだところと、今、荷物が搬出されているところの、少なくとも、三つ。もしかしたら、まだあといくつかあるのかもしれない。品によって区画を分けているのか、それとも、中を探られたときに備えて中のつながりをなくしているのか。
船倉から出された荷物は、船の真ん中あたりの縁に運ばれている。そちらは、確か桟橋に付けられている側だ。そこから、何か装置を使って次々船の外へと下ろされている。
「さながら、沈む船から逃げ出す鼠だな」
アンジェリカがぴったりな表現を口にした。
「彼らは荷物運びに忙しそうだ。これなら、何とかなる」
幸い、二人がいる場所はアンジェリカが縄梯子を垂らした船尾に最も近い。その位置関係もあって、こちらに来る者はほとんどいないようだった。
アンジェリカは船尾の方に目を向けて、一点を指で示す。
「ほら、あそこ。あそこの梯子から上ったら、縄梯子のところまで行ける」
彼女が言うようにそこには梯子があったけれど、正直、ブライアンはまた梯子なのかとげっそりした。だが、仕方がない。その苦行さえ耐え抜けば、あと少しで逃げ出せるのだ。
「よし、行こう」
ブライアンは覚悟を決めて気合を入れた。アンジェリカはチラリと彼を見て、頷く。そうして、先に立って身を乗り出した。
男たちは桟橋側に集まりがちだから、ブライアンとアンジェリカはその反対の縁に向かう。皆かなり慌てているのか、二人に目を留め声を上げる者はいなかった。
(まあ、船が爆発しようというのだから当然か)
きっと、積み荷も後ろ暗くかつ高価なもの揃いに違いない。そうそう失うわけにはいかないのだろう。
ブライアンの脚が許す範囲で、二人は仄かに煙の臭いが漂う中を、精一杯、急ぐ。
「着いた。先に上って」
船尾の梯子の前に立つと、アンジェリカは油断なく辺りを窺いながらそう言った。が、すぐにその背に緊張が走る。
「アンジェリカ?」
ブライアンは問いかけたが、アンジェリカが見ている方へと目を向け、すぐに彼女のその態度の理由を知る。
「まったく、やんちゃですねぇ。この船、重宝していたのに」
こんな状況だというのに寛いだ口調でゆっくりと柱の陰から姿を現したのは、ウォーレス・シェフィールド。彼の背後には、三人の屈強な男が並んでいる。
彼は口元だけの微笑みを浮かべて、アンジェリカに向けて手を差し伸べた。
「あらかたの積み荷は下ろし終えましたが、一番貴重なものがまだこんなところに。ああ、ちなみに、あなたが使った縄梯子は撤去しましたよ。それ目当てでここに来られたのなら、申し訳ありません」
申し訳ありませんと言いながら、まったく罪の意識が感じられない。まあ、頭の中に罪を感じる部分があるなら、そもそもこんなことをしないのだろうが。
ウォーレスの背後から、男たちが前に出る。ジリジリと詰めてくる彼らと距離を保ち、ブライアンとアンジェリカは後ずさった。
しかし、広いとはいえ所詮は船の上。
じきに背中が欄干に当たる。
「さあ、アンジェリカ。そのお荷物を庇いながらでは、さすがのあなたでもこの三人を相手にできないでしょう? 私もあなたに怪我をさせたくはありませんから、諦めておとなしく従ってください」
追い詰められた二人に、おもねるような声で、ウォーレスが迫った。
だが、アンジェリカはその誘いを一蹴する。
「断る」
「おやおや。この三人を倒しても、まだまだ手はありますよ? それこそ無駄な足掻きというものです」
ウォーレスは芝居がかった仕草で肩をすくめ、かぶりを振ってみせた。
「さあ、ほら、駄々をこねずにいらっしゃい、アンジェリカ。あなたが素直に来てくれるなら、ラザフォード様には手を出しませんから。でも、あんまり暴れられたら、その保証はできません。まあ、命まで奪うことはしないで済むと思いますけれど?」
最後は疑問の形を取っていたが、敢えてブライアンを庇う意図がないのは明らかだ。
ウォーレスのその台詞に、ほんのわずかだったが、アンジェリカの肩が揺れる。その揺れが彼女の気持ちの動揺を表しているようで、ブライアンは胸が騒いだ。アンジェリカの気を逸らしたくて、彼は問いを口走る。
「どうして、そんなに彼女に固執するんだ?」
とっさに発したにもかかわらず、図らずも、それはブライアンの中の一番大きな疑問を表していた。
実際、他の少女は逃がしてしまったというのに、ウォーレスの言動は、まるでアンジェリカさえいれば良いように感じられる。商売をするつもりで少女たちを攫ったなら、いくらアンジェリカが美しくとも、五人と一人では割に合わないだろう。
優位を悟っているためか、ウォーレスは余裕ぶった態度で肩をすくめてよこす。
「それは、まあ、十年越しですからね」
彼のその台詞を聞き咎めたのは、アンジェリカだ。
「十年?」
「ええ、十年。あの時のあなたはまさに天使のように可愛らしかったですが、今は女神のようですよ。流れゆく十年間を見逃してしまったのは、実に悔やまれる」
「それは、どういう――」
アンジェリカが一歩踏み出し、問い詰めようとしたとき。
ズン、と床が大きく揺れて、平らな甲板が傾いた。
ウォーレスは周囲を見回し、眉をひそめる。
「どうやら時間切れですね。多少の傷は已むを得ません。彼女をこちらへ」
その命令に、ひときわ大きく男たちが詰め寄った。
ブライアンたちは後ずさろうとしたけれど、もう後はない。
前に進んでも、三人を擦り抜けて逃げたところで、ウォーレスが言うように、甲板の上には他にも大勢いる。
(逃げ場はないのか?)
ブライアンは焦る眼差しで辺りに目を走らせる。
ない。
逃げ場はない。
――ただ一つを除けば。
ブライアンはチラリと背後に目を遣った。
大きな船なだけに、海面は遠い。だが、爆発で傾いた分だけ、近づいてはいる。多分、屋敷の二階分かそこらほどの高さだ。
「アンジェリカ、ごめん」
「え?」
ブライアンの一声に振り返りかけたアンジェリカを、彼は有無を言わさず抱え上げる。
そうして、そのまま、欄干に背を乗り上げた。




