天使の鞭は痛くて甘い③
「ぐ、ぅあ!」
ブライアンはいささか大げさな呻き声と共に床の上でのたうち回った。
これ見よがしにもがいてみせるが、手足は縛られたままでいるのを装っているので、存外、難しい。
「ブライアン! 大丈夫か!?」
悲鳴じみたアンジェリカの声が、ブライアンの苦悶の唸りに輪をかける。
「何だ、うるせぇな!」
ドアを開け、忌々しげに顔を出した見張りの男に、すぐさまアンジェリカが縋り付いた。
「急に苦しがり出して……頭が痛いようなのだが……」
「お、おう、そうか」
腕にしがみついた彼女に震える声で訴えられて、男の鼻の下が伸びる。
それはそうだろう。
アンジェリカにあんな顔、あんな声で頼られては、ブライアンだって同じ反応を示す。あれが演技だと知っていても、彼の中に嫉妬の気持ちが湧き上がった。
とはいえ、そんな場合ではない。
そんな場合ではないのだ。
ブライアンは気を引き締めて、苦しがる演技を続ける。
「ああ! 頭が、頭が割れる!」
「お願い、何とかして!」
まだ戸の外にいる男に、アンジェリカが取りすがる。
男はアンジェリカには気を付けろとさんざんウォーレスから注意されているはずだが、実際に華奢で繊細そのものの彼女を前に、警戒心などどこかに飛んで行ってしまったのだろう。
「ったく、仕方ねぇなぁ。しこたま頭殴られたんだろ? 痛ぇのは当たり前だろうが」
そう言いながらも、男は部屋の中に入ってくる。
ぶつくさ呟きつつ、男がブライアンの横に屈みこんだ、その時。
「!」
悲鳴の一つもなく、男がくずおれた。と、その重い頭が、ブライアンのみぞおちにドサリと落ちる。
「ぐぅ!?」
今度は本物の悲鳴だ。
「あ、ごめん」
アンジェリカが急いでどかそうとしてくれたけれども、多分彼女の体重の三倍はあるだろう筋肉の塊を持ち上げるのは無理というものだ。
「大丈夫、ちょっと待って」
息を詰めながらも彼女を制して、ブライアンは自力で何とか巨体を押しのけた。以前の彼ではピクリとも動かせなかっただろうが、この数ヶ月間の鍛錬は無駄ではなかったということが証明された。
みぞおちをさすりながら立ち上がったブライアンを、アンジェリカの観察する眼差しが上下する。
「大丈夫そうだな。では、行こう」
もう少し心配して欲しかったな、と未練がましく思うブライアンをしり目に、アンジェリカはスッと戸口へ行ってしまった。
部屋の外を窺って、アンジェリカが目配せする。
「行けそうだ」
「見張りは本当に一人だけなのかい?」
「ここにいるのは。多分、出航の準備に人手を取られているのだろう」
つまり、じきに船は岸を離れるということか。きっと、沖に出てしまえばアンジェリカも逃げようがないとウォーレスは思っているのだろう。だからこそ、見張るよりも出航の準備に重きを置いているに違いない。
「出る前に船を降りないと。急ごう」
アンジェリカが先に立って歩き出す。彼女を前に出すことは気が進まなかったが、ブライアンの方が役立たずであることは確かだ。釈然とはしないものの、現実を鑑みれば仕方がない。
彼らが閉じ込められていた場所は船倉のようで、廊下にはまったく人気がない。
「私たちは最下層に運び込まれたんだ」
上の階への梯子を探して歩きながら、ひそひそと、アンジェリカがブライアンの耳に唇を寄せて教えてくれる。アンジェリカにとっては何の含みもない行為だと判っていても、情けないことに、その至近距離からの攻撃にブライアンの理性はどうしても揺さぶられてしまう。
気を紛らわせようとして、ブライアンは口を開いた。
「そう言えば、コニー達とすれ違ったんだよ」
「コニーと? 良かった。あの男が何も言わないから、逃げられたのだと思っていたけれど」
微かに笑んだアンジェリカは、この上なく愛らしい。めまいを覚えるほどに。
(こんな状況でなければ)
思わずブライアンは胸の中で呻いたが、多分、こんな状況でなくても、きっと何ができるわけでもないのだろう。かつて、数多の淑女令嬢貴婦人たちを虜にしてきた甘い言葉など、アンジェリカにはそよ風程度にも響かないのだ。『豊富な経験』が全く役に立たないのが、つらい。
「どうかしたのか?」
眉根を寄せたアンジェリカに覗き込まれ、ブライアンは目を瞬かせた。
「え、いや、何でもないよ。あ、ほら、あそこ。あそこに梯子っぽいのがある」
咄嗟に彼は指さしたが、運良くそれは真実となる。
「ああ、本当だ」
小走りで梯子の下まで行くと、アンジェリカはブライアンを手で制した。
「私が先に上る」
「それは――うん、そうだね」
ブライアンは抗議しかけて口をつぐんだ。
自分が先に行って誰かに遭遇したら、捕まって人質になるのが関の山だ。
もどかしさと腹立たしさを胸に梯子の下でブライアンがアンジェリカからの合図を待っていると、すぐに上の穴から小さな手が覗いて手招きした。
船倉は他の区画とは隔てられているのか、驚くほど人気がない。次の階でも特に妨害が入ることなく、二人は順調に足を進める。
「あと一回上れば、甲板に出られる」
そう、彼女が言ったときだった。
下の方で低い轟きが。
(何だ?)
ブライアンが眉根を寄せて耳を澄ませた――刹那。
ズズン、と、腹の底が揺さぶられるような衝撃が襲う。まるで地震か何かのようだったが、燃えるだけでこんなふうになるものだろうか。
「アンジェリカ、あなたは火を点けただけなんだよね?」
「私は。もしかすると、積み荷に火薬でもあったのかもしれない」
彼女は冷静沈着そのものでそう返してきたが、落ち着いていられるような事態ではないと思う。
その考えは顔に浮かんだと見え、アンジェリカは軽く肩をすくめてよこした。
「焦ったところで何も変わらない。早く船を降りればいいだけだし、甲板まであと少しだ」
どこまで行っても、アンジェリカはアンジェリカらしい。一人焦るのも馬鹿らしくなって、ブライアンも肩の力を抜いた。
「じゃあ、急ごう」
促しに彼女は頷き、二人揃って速足になる。
そして。
「ああ、ほら、梯子だ」
これが最後のはずだ。
下に立って見上げると、ぽかりと開いた天井から星空が見えた。甲板への出口だからか、今までよりも窓口が大きい。
「じゃあ、ちょっと待ってて。多分、甲板には人がいると思うから、少し様子を見てくる。あなたは物陰に隠れていて」
そう言い置くと、先の三回と同じように、アンジェリカが先に上ろうとする。
躊躇なく彼女が梯子の横さんに手をかけた時だった。
再び、船が揺れる。今度はさっきよりも大きい揺れだ。
アンジェリカは少しその場にとどまり、揺れが落ち着くのを待つ。
「問題ないな。じゃあ、行くから」
「ああ、気を付けて」
頷いたブライアンだったが、何か奇妙な音が聞こえてきた気がして、眉根を寄せた。
(何だ?)
馬車の車輪が立てる音に似ているかもしれない。ゴロゴロと、何かが転がるような……
左右を見回しても、動くものは何もない。
いや、左右というより、上から聞こえてくるような気がする。しかも、次第に近づいてきているような、気が。
「アンジェリカ、ちょっと待――」
なんだか嫌な予感がして、梯子を数段上りかけていたアンジェリカを見上げた、その時だった。
突然、出口を塞がんばかりに何かが現れる。
樽だ。
そう思った瞬間、ブライアンは丁度目の高さにあったアンジェリカの腰をひったくるようにさらって、そのまま飛びのいた。いや、飛びのこうとしたが、それは成し遂げられなかった。
アンジェリカを抱えたブライアンがそこから動くより早く樽が落ちてくる。彼は咄嗟に彼女を抱え込み、自分の下に庇ってその場に伏せた。
次いで、脚に激痛。
その時、木の棒が折れるような嫌な音が耳に届いたのは気のせいだと、ブライアンは思いたかった。




