天使の鞭は痛くて甘い②
さほど丈夫そうではない扉が閉まると、すぐにカチリと小さな音が続いた。
まあ、当然、鍵はかけられるだろう。入れ替わりで入ってきそうな者はいないが、きっと、外には見張りが立てられているに違いない。
(さて、どうやって逃げよう)
ブライアンは試しにもがいてみたけれど、こすれた縄で痛くなるばかりで、手も足も自由になりそうにない。
彼は息をつき、もたげていた頭を床に下す。そうしてから、ぐるりと首を巡らせてアンジェリカに目を向けた。
と、彼女はジッと床を見つめて何かもぞもぞと身じろぎをしている。
「アンジェリカ? 大丈夫?」
床に転がされたブライアンからは見えないけれど、後ろ手で彼女を戒めている縄が痛いのだろうか。ブライアンを縛り上げているものはかなりきついし手首がやけにヒリヒリするから、絶対に擦り傷ができている。
彼と同じように縛られているなら、アンジェリカの薄い皮膚も傷付いているに違いない。彼女の白い肌が赤く剥けて血を流しているところを想像すると、それだけでブライアンは気が遠のきそうになった。
「ちょっと待って、あまり動かさない方がいいよ。今、見てみるから――あれ?」
言いながらなんとか身体を起こそうとしたブライアンだったが、続いて目に入ってきた光景に呆気に取られる。
彼の目の前で、アンジェリカは、いつものように流れる水さながらの優美な動きで立ち上がったのだ。
その身のこなしは後ろ手に縛りあげられているものとは思えず――実際、彼女の両手は何ものにも囚われてはいなかった。
「アンジェリカ、あなたは縛られずに済んだのか」
手強い彼女を放置するなんて、ウォーレスも結構抜けているらしい。あるいは、繊細な陶磁器人形さながらのアンジェリカには、さすがに彼も無体な真似ができなかったのかもしれない。
いずれにしても、アンジェリカが痛い思いをしていなかったのは何よりで、ブライアンは思わず頬を緩ませてしまった。そんな彼をアンジェリカは一瞬まじまじと見つめ、そしてふと苦笑する。
「あなたは、こんな時でも笑うのか」
「え、あ……ごめん。別にこの事態を甘く見てるわけじゃないよ。ただ、ホッとしたんだ。あなたが痛い思いをしていなくて」
そう弁明すると、アンジェリカの冷静な面に、戸惑ったような面食らったような、何とも形容しがたい表情がよぎった。
「……本当に、あなたは変わっている」
アンジェリカの台詞そのものは誉め言葉とは程遠いものだった。けれど、滅多に見ない――多分これからもそう簡単には見せてくれない無防備な様子があまりに可愛らしくて、ブライアンは自分たちが置かれている状況も忘れてポカンと見惚れてしまった。できたらもっとそれを堪能していたかったけれども、残念ながら彼女はすぐに表情を改めてしまう。
また冷静な顔に戻ってブライアンの横に膝を突いたアンジェリカは、その時、手にしていたものを床に置く。
「あれ、それって」
ブライアンは眉根を寄せた。
アンジェリカが置いたものは、縄だ。
どうして、どこからそんなものを、と目で問うと、彼女はブライアンの足の拘束に手を伸ばしながら淡々と答えてくれる。
「兄が縄の抜け方を教えてくれたから」
「え?」
(縄の抜け方?)
今、少女が口にする言葉としては物凄く違和感を覚えるものを耳にしたような気がする。
(つまり、実は彼女も縛られていたけれど、自分で抜け出したってことなのか?)
ブライアンが二の句を継げずにいると、アンジェリカは更に説明を補ってくれた。
「いざという時の為にと、兄から五通りほど覚えさせられた」
なんだろう、まるで、美味しいお茶の淹れ方を教えてもらった、とでも言っているかのようなこの口調は。
「いざという時って、普通はないよ、こんなこと」
「けれど、今、役に立った」
そう言いながらも器用なアンジェリカの指先はブライアンの足の縄を解き終え、仕草で寝返りを打つように伝えてくる。促されるままに彼女に背を向けると、魔法のように手首が自由になった。
無意識のうちに痛む手首に手を遣ると、アンジェリカの視線もジッとそこに注がれる。
「……痛そうだ」
「え? ああ、ちょっとね。アンジェリカは大丈夫?」
訊ねたブライアンに、アンジェリカは袖を軽く引いて手首を出した。
白磁のような肌が、少し、赤くなっている。
(何てことだ)
胸の中で呻くと同時に、ブライアンの身体は脳みそそっちのけで動いていた。アンジェリカの両手の指先をそっと取り、持ち上げる。そうすると少し袖が上がり、驚くほど細い両の手首が露わになった。
やっぱり、赤い。
傷にはなっていないが、赤くはなっている。
目にした瞬間、ブライアンは、血を滲ませている手首よりも遥かに激しく胸が痛んだ。
それから数呼吸分の記憶がない。
「……ブライアン?」
名前を呼ばれて彼は我に返り、無意識のうちに自分が取っていた行動に気付く。
アンジェリカの方へと身を乗りだしたブライアンがその唇に感じているのは、温かな絹のような滑らかさ。
恐る恐る視線をを上げれば、かなりの近さに菫色の瞳――手首にくちづけるブライアンへ向けられたその目の中には、いぶかしげな色が濃い。
「うわぁ!? ごめん!」
叫ぶように謝って、ブライアンはほとんど放り投げるようにしてアンジェリカの手を放した。
そうしてしまってから。
「ああッ! ごめん!」
手荒な扱いをしてしまったことに対して、また、謝る。
「痛くなかった!?」
中腰になってはみたものの、再び彼女に触れることもできず、宙に浮かせた彼の手は行き場を失う。
慌てふためくブライアンを前にして、アンジェリカは一つ二つ瞬きをした。そうして彼と同じように宙にあった手を膝の上に下し、かぶりを振る。
「痛くは、ない」
彼女はそう言ってくれたけれども、いつもは透き通るように白い頬が、心持ち色づいているように見える。
(そりゃ、淑女に対してすることじゃないよな)
あまりに失礼、あまりに不躾だ。
だが、唇で触れたのが手背側だったからまだ良かったと、ブライアンは自分自身に言い訳した。これが、より皮膚の薄い手のひら側だったり、更には彼女の胸の鼓動をまざまざと感じさせる脈打つ場所だったりしたら――今頃状況もわきまえずとんでもないことをしてしまっていたかもしれない。
今だって、温もりが冷めていく唇が疼いてしまってどうしようもないというのに。
取り敢えず空気の流れを変えなければ、と、ブライアンは何か話の取っ掛かりを探す。
(キスをする前に戻ったら――そう、そうだ)
「えぇっと、兄上は何をされている人なんだい?」
これは、当たり障りのない、この上なく良い問いだ。
以前、少しだけアンジェリカが話してくれた時には、てっきり行商人か何かかと思ったけれど、普通、商人は、護身術ならまだしも縄抜けなど妹に教えないのではないだろうか。
首を捻ったブライアンだったが、彼も自分が一般常識に疎いという自覚はある。
(まあ、誘拐とか、色々あるかもしれないし?)
兄という人も、アンジェリカほど愛らしい妹を持っていたら、どんなに警戒しても、し足りないのだろう。
ブライアンの問いにアンジェリカは束の間考え込むような素振りをしてから、小さくかぶりを振った。
「私も、良くは知らない。ただ、必要に応じて問題を収拾するのだ、と」
「へぇ?」
相槌は打ってみたものの、ブライアンにもピンと来ない。数少ない職業についての彼の知識の中で、一番近そうなのはデッカーのような警官だが。
悩む彼をよそにアンジェリカはふわりと立ち上がり、戸口の方へと移った。
扉に片手を添えて猫のように耳を澄ませているアンジェリカに、ブライアンも歩み寄る。
「アンジェリカ?」
呼びかけると、彼女はシッと目配せだけを寄越した。
口を閉じたブライアンの前でアンジェリカは軽く首を傾げ、そして彼を見上げてくる。
「外には一人しかいないらしい」
「どうして判るの?」
「気配」
いかにも「そんなことはどうでもいい」と言わんばかりの口調で一言返すと、アンジェリカは思案顔になった。
「取り敢えず、早くこの船を降りないと」
「え、ああ、そうだね。グズグズしてると、出航されてしまう」
頷くと、アンジェリカはいつも以上に生真面目な眼差しを向けてくる。
「今の問題は、それだけではない」
「他に、何か?」
「この船は、じきに火が出る」
「は?」
何か聞き間違えたのだろうかと、ポカンとアンジェリカを見下ろしたブライアンに、彼女は丁寧にもう一度繰り返した。
「船倉に仕掛けをした。それが、もうじき――もしかすると、もう作動しているかもしれない」
「つまり?」
「この船は、火事になって沈む」
何でもないことのように、いつもと何ら変わらぬ様子で、アンジェリカはそう言った。




