天使の涙は人の子を勇者にする④
ブライアンとデッカーが目指した高級娼館はセントールの一角にあった。
デッカーが挙げた三つの娼館の中でブライアンがまずここを選んだのは、彼の一番の馴染みだからだ。他の二つも通ったことはあるが、ここほどではない。
二人が乗った辻馬車は、華奢な格子で作られた優美な門構えを通り抜ける。
チリ一つない前庭を抜けて、精緻な彫刻が施された扉が迎える玄関へ。
外観は、ごく一般的な貴族の邸宅と何一つ変わらない。ここが娼館であるということを知っているのは、広い敷地の両隣に住む者か、あるいは、一度でもこの屋敷の中に足を踏み入れたことがある者くらいだろう。
ブライアンはもちろん後者で、馬車を降りるとためらいなく扉に向かい、ノッカーを打ち鳴らす。それほど音高く響かせずとも、扉はすぐに内側から開かれた。
中から現れたのは、身なりの整った齢六十かそこらの男性だ。銀髪は綺麗に撫でつけられ、背筋は真っ直ぐに伸びている。
彼はブライアンを見るとにこやかに微笑んだ。
「おや、これはラザフォード様。ようこそいらっしゃいませ」
「やあ、ジョン。リリアンは手すきかな?」
「リリアン様は――ええ、おられますが」
ジョンはちらりとブライアンの後ろに目を遣り、頷いた。どうやら、デッカーの存在が気になるらしい。
その視線をサラッと流して、ブライアンはジョンに笑いかけた。
「彼女とちょっと話をしたいんだ」
いいだろう? と人懐こく笑みを深くすれば、ジョンは束の間思案深げな色をその目に浮かべてから頷いた。
「承りました。応接間でお待ちください」
そう言って身体を引いて、ブライアンとデッカーを中に通す。
屋敷の内装も外と同様、貴族の邸宅と何ら変わらない。質素ではないが華美でもなく、上品で落ち着いた雰囲気だ。ジョンに案内された応接間もまた、人を落ち着かせる空気に満ちている。
待つことしばし。
まんじりともせずいたブライアンとデッカーの耳に、扉が開くカチリという音が届いた。
静かに押し開かれたそれから入ってきたのは、黒曜石さながらの髪と目をした四十をいくつか越えた女性だ。
滑るように部屋の中央まで足を進めた彼女は、立ち止まるとデッカー、そしてブライアンの順に視線を巡らせ、スィッと唇を横に引くように微笑んだ。深紅に塗られた唇がただそれだけの動きを見せただけで、女性の全身が息を呑むほどの艶やかさに包まれた。彼女の動きの全ては、男の気を惹くために計算し尽くされているのだろう。
「やあ、リリアン、相変わらず綺麗だね」
気安くその名を呼んで数歩の距離を縮めて彼女の前まで行くと、ブライアンは繊手を取って軽く口付けた。いや、ふりだけで、空気の層一枚を挟んでいたが。
そんな彼の仕草にリリアンが小さく首をかしげる。
「あなたは――少し変わられたかしら?」
「そうかい? ああ、ちょっと最近、身体を鍛えているからかな」
我が身を見下ろしそう答えると、リリアンは片方の眉を持ち上げた。その目がキラリと輝く。
「それだけではございませんが……まあ、きっとそのうち面白いお話がこの耳に届くのでしょうね」
どういう意味だろうとブライアンが訊ね返そうとするより先に、リリアンが問いを発した。
「それで、あたくしにお話とは、なんですの?」
口元には微笑みがあるけれど、目は鋭くブライアンを貫いている。そうする前にデッカーに視線を走らせたから、用件を尋ねながらもきっとその内容は察していた筈。
多分、曖昧にごまかそうとしたり手の内を探ろうとしても無駄だろう。今はこの娼館の支配人となっているが、かつては自身も最高級の娼婦として名を馳せたリリアンを出し抜けるとは思えない。
そう読んで、ブライアンは単刀直入に切り出した。
「ここの客について教えて欲しいんだ」
リリアンは笑みを消し、ジッとブライアンを見つめてくる。
ややして、軽く首を傾げた。
「あなたもご存じでしょう? これは信用商売なのよ? いくらあなたのお願いでも、お客様のことはお話しできないわ」
当然、予測できた答えだ。
ブライアンは食い下がる。
「僕の知り合いが昨日から行方不明なんだ。最近、巷で女の子が姿を消していて、その中の一人があなたのところの見習いだって聞いたよ。それと何か関連があるかもしれないんだ。何でもいいから、手掛かりが欲しい」
真剣な眼差しでそう告げると、リリアンの長い睫毛がハタりと振れた。
「知り合い? 女性の方?」
「ああ」
「ラザフォード様の大事な方?」
「僕の大事な人の、大事な人だ。猫の目亭の、コニー……コーネリア・オルセンだよ」
ブライアンの返事に、リリアンの視線がふと和らいだ。
「猫の目亭――アンジェリカの?」
「ああ。知っているのかい?」
意外な台詞にブライアンは軽く眉を上げた。
基本、高級娼婦はセントールから出ることがない。一日のほとんどを娼館の中で過ごし、時たま外に出るとしても、それは貴族の酔狂に付き合って舞踏会や音楽会などに足を運ぶくらいだ。
逆に、アンジェリカの領域はウィリスサイドで、彼女がそこから出ることは滅多にないはず。
一体どこに接点が、という疑問が、ブライアンの顔に浮かんでいたのだろう。
リリアンがそれまでにはなかった温もりを含んで柔らかく微笑み、答えをくれる。
「あたくしも、直接何かという訳ではないのよ。でも、ウィリスサイドの街で立っていて、ここに辿り着いた子もいるのよ。その子たちは、彼女にはずいぶんお世話になったから……そう、なら、仕方ないわね」
ホゥ、とリリアンが小さく吐息をこぼした。ブライアンとデッカーは脈がありそうだと目配せをする。そんな二人の前でほんの一瞬ためらって、リリアンが口を開いた。
「そうねぇ、色々な殿方はいらっしゃるけど……ほとんどはお馴染みさんだから、これと言ってはないのだけれど」
しばらく考え込んで、リリアンはふと顔を上げる。
「最近――といっても半年ほど前からかしら――来るようになった方は、ちょっと変わっていらしたわね。女の子に銀髪のかつらを被せてね、四半刻ほど眺めて帰っていかれるのよ。お相手をした子たちが言うには、ただ眺めるだけで触れもしなかったって。それでも同じ代金いただいて良いのかって、あたくしに確認しに来たの」
「銀髪?」
その一言が、チクリと、ブライアンの神経に障った。その色でパッと頭に浮かんだのはあの人だ。
眉間にしわを寄せたブライアンに、リリアンが首肯する。
「ええ。週に一度は来られるのだけれど、結構なお金を払ってそれだけ、ですって。確か、貿易商とおっしゃってたわね。もうじき出港してまた別の国に行かれるのだとか」
つまり、その男が犯人ならば、ほとんど時間の猶予がないということか。
ブライアンがデッカーに目を遣ると、彼も厳しい顔を返してきた。
「それ、どんな男?」
「ごめんなさい、どうと言われても……少しくすんだような黒い髪と目でね、これといって特徴のない方よ。あたくしも人の顔を覚えるのは得意なはずなのだけど、その肩のお顔はぼんやりしていて。年はラザフォード様よりいくつか上かしらねぇ。でも、あまりはっきりしないわ」
申し訳なさそうに肩をすくめるリリアンに、ブライアンは微笑みを返す。
「いや、充分助けになったよ。ありがとう」
「……うちの子も、見つかるといいのだけど」
呟いて、リリアンが顔を曇らせた。平静を保っているように見えたけれども、やはり心配だったようだ。
「見つけてみせるよ」
コニーは必ず見つける。だから、彼女と一緒にいるならば、見習いの少女も見つけられるはずだ。
力強く頷いたブライアンをリリアンは見つめ、顔をほころばせた。
「やっぱり、お変わりになったわ」
キョトンとするブライアンに、リリアンはフフッと笑う。
「あなたの大事な方って、もしかしてアンジェリカ?」
ズバリと見抜かれ、ブライアンはグッと息を詰めた。一瞬ごまかしかけて、やめた。
「そうだよ。とても、大事な人なんだ。僕は彼女が悲しむところを見たくない」
胸を張ってそう告げると、リリアンはブライアンとの距離を詰め、軽く首をかしげて彼を見上げてきた。そうして、スイと背を伸ばしてブライアンの頬にそっと口付ける。
「あなたがここに来られることは、もうないのでしょうね。お別れなのは寂しいわ」
一歩下がったリリアンはそう言って、また微笑んだ。ブライアンは彼女に笑みを返して頷く。
「そうだね、僕も寂しいよ」
その一言を最後に、ブライアンはデッカーを振り返った。
「じゃあ、もう行こうか」
黙って扉に向かったデッカーに続いて、ブライアンも応接間を出る。外にいたジョンに導かれて、二人は玄関に向かった。
ブライアンとデッカーを乗せた馬車は勢い良く走り出す。間を置かず、デッカーが口を開いた。
「オレは詰所に戻ります。取り敢えず、港にある船の持ち主を当たってみようかと」
「ああ、そうか。そうだね」
確かに、今のリリアンの話を聞く限り、そうするべきだろう。
「じゃあ、僕は猫の目亭に戻るよ。さっきの彼女の話……すこし気になったんだ」
「銀髪、ですか?」
眉根を寄せてそう言ったデッカーに、ブライアンは頷く。
「ああ。コニーは、他のいなくなった子とは少し違うんだろう? でも、彼女もいなくなった。何だか、嫌な感じがするんだ。全く別の理由でいなくなったのか、そうでなければ――」
「アンジェリカの為にさらわれたかもしれない」
後を継いだデッカーは、ブライアンと視線を絡め、その目をキラリと光らせた。
「大至急、船主を洗います」
「ああ、頼む。途中でうちの屋敷に寄って馬車を拾おう。君はこのままこの馬車を使ってくれ」
デッカーは顎を引くように頷き、身を乗り出して御者に指示を出す。
ガタガタと音を立てて走る馬車はほどなくしてラザフォード家に着き、そこでブライアンはデッカーと別れ、猫の目亭を目指した。
デッカーと手を振り合ったときには、ブライアンはそんな事態が待っているとは夢にも思っていなかった。
――まさか、アンジェリカの姿が消えていようとは。
可能な限り馬車を飛ばしてブライアンが到着した時、猫の目亭で待っていたのは、頬をぐっしょりと濡らしたポーリーンと青ざめたトッド・オルセン。
その二人だけだったのだ。




