天使の涙は人の子を勇者にする②
猫の目亭の前にはざわつく人だかりができていた。
いつぞやのボヤ騒ぎの時よりも不安の色が濃いその山を掻き分けて、ブライアンとブラッド・デッカーは店を目指す。集まった人の中にはブライアンにも見覚えがある常連客も多く、彼らは皆一様に顔を曇らせていた。
何とか入口まで辿り着いたブライアンは、店の扉を押し開ける。その上でカランと鳴ったベルの音に、店の真ん中で額を突き合わせていた三人の男女が振り返った。
店主のトッドとポーリーン、それにアンジェリカ。
店内には、彼らしかいない。
「ブライアン」
身をひるがえした拍子にふわりと浮いた銀髪が落ちきらないうちに、アンジェリカが彼を呼んだ。すぐにブラッド・デッカーも姿を現したにもかかわらず、彼女が口にしたのはブライアンの名前の方だ。こんな時だというのに、その事実が彼の胸の中でポンポンと弾むような余韻を残す。
が、今はその喜びに浸っている場合ではない。
(まったく、どこまで自分本位なんだ、僕は)
すぐに正気に返って、ブライアンは足早に彼女に歩み寄った。
一歩分ほどの距離を取って、立ち止まる。
「アンジェリカ……大丈夫かい?」
表情を読み取るには充分なその位置から彼女をジッと見つめ、ブライアンは訊ねた。
アンジェリカの表情は、いつもと変わらず冷静そのものだ。
(落ち着いて、いる――?)
ホッとしかけたブライアンは、ふと、お腹の辺りで組まれた彼女の両手に目を落とした。
震えている。小刻みに。
いつも通りに見えるアンジェリカの中で、そこだけが、違っていた。
(不安に決まってるじゃないか)
ブライアンは、奥歯を噛み締める。
取り繕われた彼女の平静さを危うく鵜呑みにしかけた自分の不甲斐なさが腹立たしい。
「ごめん、アンジェリカ」
「え?」
「来るのが遅くなって」
キョトンと丸くなった菫色の目に向けてそう言えば、彼女は一つ二つ瞬きをしてから、ふわりと微かな笑みを浮かべた。
「いや、来てくれて嬉しい。ありがとう」
微笑みは、自然この上ないもので。
柔らかなその頬の丸みに、ブライアンは危うく手が伸ばしそうになる。
が、ピクリと引き攣った自分の指の動きで我に返り、彼は己の理性と自制心を叱咤し両手を握り締めた。
「コニーが帰らないんだって?」
確認のためにそう問えば、アンジェリカは一瞬唇を噛み締め、頷く。
「買い物に行ったきり、戻ってこない。あちらこちらに訊き回ったが、手掛かりもない」
わずかに視線を下げたアンジェリカが、力のない声でそう言った。こんなに頼りなげな彼女を見るのは、初めてだ。
ブライアンは華奢な身体をこの腕で包み込み慰めの言葉を降り注ぎたい衝動に駆られたけれど、何だかそれはアンジェリカのつらさに付け込むような気がした。少しでも動けばその衝動に負けてしまいそうで、指一本動かせないまま、ブライアンはただ彼女を見守る。
堅く握り込まれたアンジェリカの小さな拳には力がこもっていて、彼は柔らかな手のひらに爪が食い込んでしまっているのではないかと気が気ではない。
ハラハラするブライアンの前で、アンジェリカがホゥと小さく息をつき、顔を上げる。
「コニーには、気を付けるようにと、口を酸っぱくして言っていたんだ」
彼女のその言葉に、ブライアンは眉をひそめた
「どういうこと?」
「ここ一、二ヶ月の間に少女が五人――六人、行方不明になっている」
「少女が、行方不明に?」
不穏な話題をおうむ返しにすると、アンジェリカはこくりと頷いた。
「そう。私も街で仕入れた情報をブラッドに伝えたりしていたのだけれど」
そう言われて、ブライアンの頭の中にパッと一つのことが閃いた。
「もしかして、それで――」
声を上げかけて、ブライアンは口をつぐむ。
――それで、最近、アンジェリカとブラッド・デッカーが一緒にいる場面をよく目にしていたのか。
つまり、嫉妬する必要など欠片もないことだったのだ。
そう思った瞬間、シュゥッと、ブライアンの中に居座っていた不快な塊が収縮していった。代わりに、そこをもっと温かくて心地良い何かが埋めていく。はっきり言ってしまえば、喜びだ。
ブラッド・デッカーが明言したように、本当に、アンジェリカと彼とは『同僚』でしかなかったのだ。
(どうしようもないな、僕は)
アンジェリカとブラッド・デッカーとの間にあるものを理解しそれを嬉しく思うと同時に自分の狭量さにうんざりするブライアンを、アンジェリカは小さく首をかしげて見上げてきた。
「『それで』、何?」
「ああ、いや、何でもないんだ。気にしないで。で、犯人は、目星がついたのかい?」
卑怯にも話を逸らす手掛かりとしてそう水を向けると、アンジェリカは眉根を寄せてかぶりを振る。
「いや、それがまだ、まったく。皆、かき消すようにいなくなった」
そこでフッと口を閉ざしたアンジェリカが何を考えているのか、ブライアンには手に取るように判った。
皆、コニーと同じように、消えたのだ。
つまり、コニーも、その何者かに囚われた可能性がある。
佇んだアンジェリカの細い肩は強張っている。それが微かに震えを帯びているのは、憤りからか、不安からなのか。
そんな彼女に背後からそっと声をかけてきたのは、ポーリーンだ。
「アンジー、あまり思い詰めないで」
妻の隣に立つトッドも、彼女の後押しをするように無言でうなずいている。二人の眼差しにあるのは、コニーを案じる色と同じくらい、アンジェリカを気遣う輝きも強い。きっと、彼らにとってはアンジェリカも実娘のコニーと同じくらい大事な存在なのだろう。
柔らかな毛布のように掛けられた二人の労りに、けれど、アンジェリカは小さくかぶりを振る。
「もっと厳しく言っておけば、良かった。……あるいは、もしかしたら、私のせいなのかもしれない」
そう言ってうなだれたアンジェリカの肩に、思わずブライアンの手が伸びた。それでも伏せられたままの顔を、そっと頤に指先をかけて上げさせる。
「どうして、そんなことを考えるんだ?」
不安と慚愧に揺れる菫色の眼差しを覗き込みながら、ブライアンは問うた。アンジェリカは瞬きをして、答える。
「私が、浅はかにも嗅ぎ回ったりしたから」
「そんなこと!」
ブライアンはパッと肩越しにブラッド・デッカーを振り返った。協力者である彼からも否定の言葉をかけてあげて欲しかったし彼ならそうすると思ったのに、予想に反して寡黙な警官は何も言おうとしない。
全てをブライアンに一任すると言わんばかりのブラッド・デッカーの態度に、彼はまたアンジェリカに目を戻した。やっぱり、凛とした眼差しの中に、隠しきれない不安の翳りが見え隠れしている。
今こそアンジェリカを支え彼女に頼られる最高の機会なのかもしれないが、ブライアンはそれを喜ぶ気には微塵もなれなかった。彼女の傷心に、彼の胸がズキズキと痛みを訴える。
慰めたい。
大丈夫だよ、そんなことはないよと、言ってあげたい。
けれど。
(そんな、上っ面だけの言葉が、彼女に届くのだろうか?)
そうは思えなかった。
何の保証もない慰めや希望的観測にごまかされるアンジェリカではない。
(だったら、何を言ったらいい?)
ブライアンは、必死に頭を巡らせて届ける言葉を探す。
「アンジェリカ」
呼びかければ、伏せがちだった目が上がる。その視線をしっかりと捕まえて、ブライアンは口を開く。
「たとえそうだとしても、やっぱりあなたは、何もしないでいるということはできなかっただろう? いなくなった少女たちの為に、動かずにはいられなかったはずだ」
驚くほど長い銀色の睫毛がひらめき、瞬きが一つ。
まじまじと見つめてくるアンジェリカに、ブライアンは続ける。
「それがあなただし、僕も、そういうあなたが好きだ」
『好き』だなんて、なんて軽い言葉だろう。
本当は、『愛している』と言ってしまいたい。
けれど、彼女にとってそんな言葉はきっと重過ぎる。
ブライアンは本心を押し隠した笑みを浮かべて、ほんの少しだけアンジェリカから身体を離した。
「アンジェリカは、それでいいんだ。あなたはあなたが思うようにしたらいい。まだ全然頼りないかもしれないけれど、僕もあなたを支えるよ――支えさせて欲しい」
静かに、だが、断固とした思いを込めて、ブライアンはアンジェリカにそう告げた。
アンジェリカが誰を想おうが、ブライアンがアンジェリカを想う気持ちは変わらない。
確かに今回、ブラッド・デッカーが彼女の想い人ではないということが判った。
けれど、たとえこの先一生彼女の心を得ることができなくても、彼女が他の誰かに想いを向けたとしても、だからと言って、ブライアンの中にあるこの気持ちが消えることも、それを消すこともできないのだ。
(だから、僕は、彼女の傍に居るしかない)
アンジェリカの傍に居て、彼女を守り、彼女が必要とするときに手を差し伸べる。たとえアンジェリカの方から求められることがなくても、たとえ彼女がブライアンの存在に目を留めることすらないとしても、彼がそうしたいから、そうせずにはいられないから、そうするのだ。
諦めと似て少し違う、どこか吹っ切れたような思いに、ブライアンの肩から力が抜ける。
アンジェリカはそんなブライアンを静かに見つめ返し――ふいに、その視線が揺れる。
一瞬後に、透明な雫が滑らかな頬を転がり落ちていった。
「!?」
目の当たりにしたアンジェリカの涙に、ブライアンの頭は一気に恐慌状態に陥った。
(僕!? 僕が泣かせたのか!?)
泣かせるようなことを言ったつもりはなかったけれど、現に彼女は泣いている。いや、あの一滴だけでもうその頬は乾いているけれど、あれは決して幻などではなかったはずだ。
硬直したブライアンに、いぶかし気な声がかけられる。
「ブライアン?」
銀の鈴を振るったような声で名を呼ばれ、彼は平手で頬を叩かれたように現実に立ち返った。
「ああ、ごめん」
反射的に謝ると、背後からクスリと小さな笑い声が聞こえた。振り返ってみたが、そこにいるブラッド・デッカーは生真面目な顔を崩してはいない。
ブライアンはアンジェリカから手を放して後ずさり、小さく咳払いをした。
「僕も、手掛かりを探してみるよ」
と、すかさず応答が。
「じゃあ、私も――」
「それは、ちょっと……危ないから、あなたはここにいた方が――」
「だけど、あなたはさっき、私が思うようにしたらいいと言ってくれた」
確かに、言った。言ってしまった。
ブライアンはグゥの音も出せない。
一歩も譲らんと言わんばかりのアンジェリカを前にして二の句を継げないブライアンの代わりに彼女を制したのは、ブラッド・デッカーだ。
「アンジェリカ、君はここに居ろ」
「ブラッド!?」
声を上げたアンジェリカを、ブラッド・デッカーは鋭い眼差しで押し留める。
「コニーの失踪が少女誘拐の件に絡んでいるのなら、君も危険だ。今回は犯人に近付くことになる。ただ情報を仕入れるだけとは危険の度合いが違う」
ブラッド・デッカーが警官だからなのか、それとも、彼に対する信頼度がブライアンに対するものとは違うのか、今度は、アンジェリカは唇を噛んでブラッド・デッカーを睨みながらも抗議の声はあげなかった。
「えっと……アンジェリカ、じゃあ、行ってくるから」
少し身を屈めて覗き込むようにしながらそう言い含めると、アンジェリカはわずかに顎を引き。
「気を付けて」
和らげた表情に彼らのことを案じる色と微かな不満の色を滲ませて、そう言った。




