天使の涙は人の子を勇者にする①
ボールドウィンに言われてブライアンが己の中にあるものを悶々と見直していた、ある日。
ラザフォード家には予期せぬ客が現れた。
「え? 誰だって?」
執事が告げた名前に眉をひそめたブライアンに、彼はもう一度繰り返す。
「ブラッド・デッカーという方です。至急、お会いしたいと」
ほんの一瞬、どうして彼が、という思いが頭の中をよぎったが、すぐに我に返る。ブラッド・デッカーが自分に会いに来るとしたら、もちろん、アンジェリカ絡みのことに決まっている。
「すぐに通してくれ。応接間――いや、ここがいい」
今ブライアンがいるのは書斎だ。内密の話をするには広々として開放的な応接間よりもこちらの方がいいだろう。
ブライアンの指示を受けた執事は頭を下げてすぐに去り、さほど間を置かずにブラッド・デッカーを連れて戻ってきた。
書斎に入ってきた大柄な警官を目にした瞬間、ブライアンは眉をひそめる。
元々にこやかな男ではないが、今日はまた一段と険しい顔をしているような。
「やあ、デッカー君――」
「どうして、店に来ないのですか?」
ブライアンの社交辞令は、顔より厳しい声で遮られた。だが、その無礼さよりも彼の台詞の内容がブライアンの頭に突き刺さる。
「店って、猫の目亭? 店に何が――いや、アンジェリカに何かあったのかい?」
思わず二、三歩詰め寄ると、ブラッド・デッカーの顔がわずかに和らいだ。
「気には留めていたのか」
「もちろんだ」
片時も彼女のことが頭から離れないから、困っているというのに。
「で、アンジェリカに何が? まさか、怪我なんかしたわけじゃないだろうね!?」
ブライアンも彼女の腕前は信じているけれど、あんな不穏な日々を送っているのだ。万一ということがある。
しかも、アンジェリカのことだ。ちょっとしたかすり傷など、ものともしないはず。
わざわざブラッド・デッカーが出向いてきたということは、かなりの怪我とか――
その可能性に思い至った瞬間、ブライアンは居ても立っても居られなくなった。
「すぐに店に行こう」
慌てて書斎を出ていこうとする彼を、冷静な声が引き留める。
「落ち着いてください。アンジェリカには何も起きていない」
すでにブラッド・デッカーの横を擦り抜け扉のノブに手をかけていたブライアンは、落ち着いた声音で届けられたその台詞に振り返った。
「アンジェリカには……? じゃあ、君はどうしてここに?」
眉をひそめた彼の問いに、ブラッド・デッカーの泰然とした眼差しがわずかに陰った。
「コニーが昨日から帰ってこない」
「え?」
「昼に買い物に出かけてから、今日のこの時間まで戻らない。一晩中捜したが、見つからなかった。アンジェリカは寝ることも食べることもできていない」
昨日の昼からといえば、もう丸一日経っている。コニーはまだ十六歳で、大人びているように見えていても中身はその年齢通りの少女だ。黙って外泊なんて、有り得ない。
ブライアンが愕然としていたのは瞬きほどの間だけで、すぐにグッと奥歯を噛み締めた。
「店に行こう。君は馬車で来たのかい?」
豹変したブライアンに多少は留飲を下げたのか、ブラッド・デッカーの口調からは、先ほどの険は剥がれ落ちていた。彼はブライアンに頷きを返す。
「はい。外に待たせてあります」
「じゃあ、家のを用意させるよりもそれを使った方が早いな」
言うなりブライアンはベルを鳴らし、従僕を呼ぶ。彼に上着を取りに行かせておいて、自分はブラッド・デッカーを促して足早に玄関ホールへと向かった。
屋敷の門を出る直前で、息を切らした従僕が追いつく。上着と財布だけ持って、ブライアンはブラッド・デッカーが乗ってきた辻馬車に乗り込んだ。
走り出した粗末な馬車の乗り心地はラザフォード家のものとは大違いだ。だが、そんなことを気にする余裕もなく、ガタガタ揺れる中で舌を噛みそうになりながら、ブライアンはブラッド・デッカーに更なる説明を求めた。
「で、コニーの行き先に心当たりは全然ないんだね? 親しくしている友人とか……」
「全部当たりましたが、どこにも手掛かりはありませんでした。そもそも、たとえ友人のところだとしても、何も言わずに泊りに行ったりはしません」
「買い物に行った先は危険な区域なのかい?」
「いや、まったく。普段よく食材を仕入れに行く市場です」
デッカーの返事に、ブライアンは眉間にしわを刻んだ。
猫の目亭があるウィリスサイドはセントールに比べれば下町だが、治安はそれほど悪くない。少女が一人で歩いていても、突発的な危険はそうそうないはずだ。
「市場で何か騒ぎがあったという話は――」
「ありません。まったく、何も」
「彼女は、市場には行ったのかい?」
「はい、野菜売りと魚売りで姿が確認されました。が、肉屋には行っていません。そこでも買い物をする予定でしたが」
「じゃあ、その間で姿を消したのか?」
呟き、ブライアンはいったい何があったのだろうと思案に暮れた。
コニーは市場の常連だから、変わったことがあれば必ず誰かの目に留まったはずだ。無理やり連れて行かれそうにでもなったら、彼女のことだ、それはもう大騒ぎになるに違いない。
それがないということは、つまり、彼女が自ら姿を消したか、あるいは、顔馴染みと出会ってついていったか、ということになるのだろうか。
(親しくはないが、顔は知っている……店によく来る者、とか?)
「店の客で怪しい奴はいないのか?」
「いざこざがあった輩はほとんどが一見なので、調べるのはほぼ不可能です。が、アンジェリカに追い出された後も店の周りをうろついていた者はいません」
どうやら、八方塞がりのようだ。
唸りを上げたブライアンを、デッカーがチラリと見る。
「アンジェリカは、かなり大きな打撃を受けています。あんな彼女は初めて見る」
デッカーの声には、アンジェリカを案じる響きが濃い。そのことに、ブライアンの胸がチクリと痛みを訴えた。
「君が慰めてあげればいいじゃないか」
「オレが?」
「ああ」
ブライアンはむっつりと頷く。
何しろ、彼はアンジェリカの想い人なのだから。気丈な彼女でも、こういう時は優しくされるべきだ。慰めてくれるのが思いを寄せた相手なら、一層癒されるに違いない。
本当は、ブライアン自身がアンジェリカを抱き締め、キスをして、大丈夫だよと囁いてあげたい。けれど、彼女が求めているのは、彼ではなかった。
(僕よりも、彼女はこの男にそうして欲しいはずなんだ)
だが、デッカーから返ってきたのは、小さな笑いだ。
「何がおかしい?」
「いや、彼女はオレに弱みは見せません」
「そんなことはないだろう。アンジェリカは、君を、その……」
言い淀んだブライアンに、デッカーの目がキラリと光った。
「彼女にとって、オレは仕事の同僚みたいなものです」
(同僚?)
色気の欠片もないデッカーの口調は、確かにその台詞の内容を裏打ちしている。
判断をつけかねてブライアンが二の句を継げずにいると、デッカーが代わりに口を開いた。
「アンジェリカとオレは対等です。互いが抱える案件について手を貸し合いますが、彼女がオレに寄り掛かるようなことは決してありません」
デッカーはきっぱりと断言したが、ブライアンの胸中にはまだかすかな疑いが居座っている。
(そう思っているのは彼のほうだけで、アンジェリカは違うのでは?)
アンジェリカとデッカーが相思相愛なのも嫌だが、彼女が一方的に彼に想いを寄せているという方が、どうしてなのか、もっと胸がザワザワする。
隣に座るブラッド・デッカーをチラリと見遣ると、彼は背筋を伸ばして真っ直ぐに前を見つめていた。その逞しい体躯、自信に溢れた物腰から、ブライアンは目を逸らす。
(僕も、彼のようにしていられたら)
だが、実績のないブライアンがいくら胸を張ろうとも、それは単なる虚勢になってしまう。どんなに堂々として見せようが、賢いアンジェリカは、きっとそれが張りぼてに過ぎないものだと気付いてしまうだろう。
彼は、それが、嫌だった。
馬車の外に視線を向けたブライアンをブラッド・デッカーが微かに眉を持ち上げて横目で見たが、彼はその眼差しの中にある思案深げな光には、気付かなかった。




