天使は人の子の心など知らない③
「まったく、君は本当に常識というものを知らないな」
八割が諦めでできている声を、セドリック・ボールドウィンはブライアンに投げ付けた。
今、ブライアンと彼がいるのは、ボールドウィン家の書斎だ。
ボールドウィンは使い込まれた書き物机に腰を寄り掛からせ、ブライアンはその向かいの椅子に座っている。
眉間にしわを寄せ胸の前で腕を組んだ友人を見上げる形で、ブライアンは肩をすぼめた。
「悪いと思っているよ。だけど、どうしようもないんだ」
ボールドウィンは、基本的に、面倒見の良い男だ。たとえ相手がブライアンでも、すがられると応じずにはいられない。
馬車の中で予想した通り、夕食も終えた遅い時間に前触れもなく訪問したブライアンに、ボールドウィンは出迎えた瞬間から渋面を隠そうとしなかった。が、今、哀れっぽく笑んだブライアンを彼はしばし横目で見遣った後、小さくため息をつく。
「で、今日は何なんだ?」
どうやら、聞いてくれる気になったらしい。
ホッとしつつ、ブライアンは膝に肘をつき、太腿の間に手を垂らしてうつむいた。
どう言えば、ボールドウィンに自分のこの苦悩をうまく伝えられるだろう。
ブライアンが言葉を探していると、気短なボールドウィンの声が追い立ててくる。
「ラザフォード?」
いかにも、さっさと話を始めなければ追い出すぞ、という声音だ。
仕方がない。ここは単刀直入に行こう。
そう覚悟を決め、ブライアンは口を開く。
「……彼女はブラッド・デッカーが好きなんだ」
「はあ?」
深刻な口調のブライアンに対して返ってきたのは、その中に「何を言っているんだ?」という響きをみなぎらせた一声だった。ボールドウィンは眉間にしわを刻んで問い返してくる。
「彼女、とは、君のアンジェリカか?」
『君の』。
ボールドウィンのその言葉に、ブライアンの口からはため息が零れる。
本当にそうだったら、どんなに良いか。
「僕の、じゃないけど、そう、アンジェリカだ。彼女はあの男のことが好きなんだ」
しばしの沈黙。
やがて。
「まあ、そうだろうな」
ボールドウィンから返ってきたのは、肯定の言葉。それも、ただ肯定するだけでなく、何を今さら、と言わんばかりの、肯定だ。
(やっぱり、誰の目から見てもそうなのか)
ブライアンは、深々と項垂れた。床にめり込む勢いで落ち込む彼に、呆れ返ったボールドウィンの声が投げかけられる。
「で、それが何だと言うんだ?」
「何って……そんな言い方ないだろう」
ムッと顔を上げると、声と同じく呆れを含んだ眼差しがブライアンに注がれていた。
「彼女がデッカーを好きだからといって、それが何だというんだ?」
また、言われた。ブライアンにとっての一大事を、この上なく、事も無げな口調でいなされてしまった。
いくらブライアンが不躾に押し掛けたからといって、あんまりな態度ではなかろうか。
「アンジェリカは、ブラッド・デッカーを好きなんだよ? 僕は、――僕は……」
そこから先は言葉にならず、ブライアンは口ごもる。そんな彼をしげしげと眺め、ボールドウィンは軽く首を傾げた。
「デッカーは良い男だ。たいていの人間は彼を好くだろう」
「そういう一般論じゃなくて! アンジェリカが、彼のことを好きだと言ったんだ!」
「だから、どうしてそんなに大騒ぎをするんだ?」
心底訝しげに自分を見てくるボールドウィンに、ブライアンはハタと気付いた。
そう言えば、ある意味一番肝心なことを、伝えていない。
「ああ、えぇっと、その……僕も、最近判ったのだけど」
言い淀む。
奇妙な動物を観察するようなボールドウィンの眼差しを受けているところが、そんなはずがないのに、やけにヒリヒリした。
ブライアンは彼から目を逸らし、床に向けて告げる。
「僕は……彼女のことが、好きなんだ」
視線を下げたまま反応を待った。が――ない。何も。ボールドウィンは、何も、返してこない。
そろりと顔を上げると、驚きの欠片もない眼差しでボールドウィンが見返してきた。
「……驚かないのかい?」
「何を驚けばいい?」
問い返されて、ブライアンはグッと答えに詰まった。
「僕が彼女を好きだってことだよ」
「私が驚くとしたら、君がようやく今さらそのことに気付いたのかってことくらいだ」
「え?」
呆気に取られてボールドウィンを見つめると、彼はやれやれというように肩をすくめてよこした。
「好きでもない女性に対してあんな行動を取っていたのなら、むしろその方がおかしいだろう」
「じゃあ、君は、前から僕の気持ちが判っていたのか?」
返事はなかったが、ボールドウィンの顔を見れば答えは判った。
ブライアンは愕然とする。
そうして、振り返ってみた。
自分の行動が『おかしかった』のは、いったいいつからだっただろう、と。
「つまり、僕は、最初から――あの、チラリと見た瞬間から、彼女のことが好きだったのか?」
「多分ね」
ボールドウィンは肩をすくめて頷いた。そうして、淡々と続ける。
「で、つまり、君はようやく自分が彼女のことを好きなのだということに気付いたわけだけれども、彼女が他の男のことを好きなのだということも知ってしまった、というわけか」
実に簡潔で正確な状況説明だ。
情け容赦なく現実を突き付けてくれるボールドウィンに、ブライアンは再びがくりと肩を落とした。
「彼女に恋したと気付くと同時に、失恋したんだよ、僕は。だけど、苦しくて……これからどうしたらいいのかさっぱり判らないんだ」
ブライアンは目だけで友人を見上げる。
「君は、自分よりも良い男が現れたらエイミーをその男の手に委ねることができるかい?」
愛おしく想うひとには幸せになって欲しい。
自分よりも相応しい者がいるならその者に任せるべきで、それが正しいことだ。
ブライアンはそう思うし、当然、ボールドウィンからも肯定が返ってくるはずだった。
が。
「嫌だね」
即答。
予想外の返事にブライアンは目を丸くしてボールドウィンを見た。
「だが、彼女の幸せを思うなら……」
「あの子のためでも、無理だ。私の中にエイミーと離れるという選択肢はない。彼女が私の世界の中心だから。彼女の隣で、彼女が幸せであるように私自身が力を尽くすしかないんだよ」
鋭い眼差しで迷いの欠片もなく断言したボールドウィンに、ブライアンは言葉もない。
彼が呆気に取られていると、ボールドウィンはふと表情を和らげた。
「君のアンジェリカは、どんなふうにデッカーのことを好きだと言ったんだ?」
「どんなふうにって……僕が彼のことを好きなのかいと訊いたら、彼女はもちろんそうだと答えたんだ」
ブライアンは心臓を切り開く思いでそう答えた。
あの時のことを思い出すと、ギリギリと胸が痛む。
ボールドウィンはしばし考えこみ、ぽつりと、こぼす。
「……その『好き』はどういう『好き』なのかな」
「え?」
「君が彼女に対して抱いているものと、彼女がデッカーに対して抱いているものとは、別のものじゃないかという気がするけどね。まあ、私はアンジェリカのことは君から聞いたことだけで、実際に知っているのはデッカーのことだけだけれど、何となく、二人は男女の仲にはならなそうな気がするな」
「……よく、解からないよ」
(僕の『好き』と違う『好き』?)
ブラッド・デッカーは男だし、アンジェリカは女性だ。
女性が男のことを『好き』と言うなら、それは恋情だろう。
それに、たとえそれがどんなものであれ、アンジェリカの『好き』は今までブライアンが受け取ってきたどの『愛している』よりも重い気がする。
眉間にしわを寄せてブライアンが考えていると、ボールドウィンが寄り掛かっていた机から身体を起こした。
「取り敢えず、一晩寝てからじっくり考えてみたらどうだ? 彼女と距離を置いてね」
「あ、ああ……」
遠回しに退去を促す台詞に引っ張られて、ブライアンはふらりと立ち上がる。そのまま扉へと足を進めた彼の背中を、小さな呟きが追いかけてきた。
「だが、まあ、『特別な好き』を持たない子というのも、結構厄介だろうけれどね」
「え?」
振り返ったブライアンに、ボールドウィンがヒラヒラと片手を振ってよこす。
「何でもない。頑張ってくれ」
そこに含まれている微妙な同情の含みの理由を訊きたかったが、ボールドウィンはそれ以上何かを教えてくれる気はなさそうだった。
そのまま抗うことなくボールドウィン家を後にしたブライアンは、帰路の馬車の中で床を睨み付けながら考える。
『好き』の違い。
(アンジェリカに対する僕の想いとブラッド・デッカーに対するアンジェリカの想いは、違うのか?)
ブライアンは、アンジェリカのことが好きだ。
――ここは、同じだろう。
彼は彼女のことを守りたい、支えたいと思う。
――多分、ここも同じだ。
いつでも、彼女の傍にいたい。
――これは、同じだろうか?
彼は彼女のことを独占したいと思う。
――こんな気持ちは、アンジェリカは持たない気がする。
(つまり、僕の『好き』と彼女の『好き』は違うものだということになる?)
じゃあ、何がどう違うというのか。
違うということは、どういう意味を持つのか。
(何だか、余計に訳が解からなくなってきた)
胸の底からのため息とともに、ブライアンは座席の背もたれに身を投げ出した。天井を眺めてから、また一つ、ため息を吐き出す。
どんな『好き』であろうとも、少なくとも、この『好き』はつらい。
恋とはもっとふわふわと心地良いばかりのものだと思っていたのに、こんなに苦しいものだなんて。
(これは、実は恋ではない、とか……?)
本当は、アンジェリカのことを『好き』でも何でもない、全く別の感情を抱いているのに勘違いしているとか。
根底から否定しかけて、ブライアンはまた袋小路に行き当たる。
(これが恋ではないとして、じゃあ、いったい、この気持ちは何だというんだ?)
苦しくてたまらないのに、アンジェリカのことを想えば極上のケーキを食べた時よりも濃い甘さが胸の中に込み上げる。
離れていることが苦痛で、姿を見られただけで胸が温まって、触れることができたら天に昇ったような心持になれる。
こんな気持ちは、誰にも抱いたことがない。
「――やっぱり、恋なのか」
ポツリと呟き、ブライアンは目を閉じた。




