天使は、戦う天使、だった①
王都ロンディウムは、主に、王城のお膝元であるセントール地区、王城の東側のエイリスサイド、西側のウィリスサイド、そして港の四つの地区に分かれている。
もちろん、セントールが一番治安が良く上品で、港はかなりの荒くれ者がうろついている。ウィリスサイドとエイリスサイドでは、港に続く後者の方が、だいぶ品とガラが落ちる。
一通りのことはセントール地区のみで事足りるので、基本的にブライアンがそこから出ることはない。先日ウィリスサイドに足を向けたのは本当にただの気まぐれからだった。
(あの日あの時あの場所にいられたことを、神に感謝しなければいけないな)
まさに運命とも呼ぶべき偶然で、ブライアンはあの少女を目にすることができたのだ。あれほど美しい存在を知らずに一生を過ごすことになっていたら、どれほどの損失になっていたことか。
そんなことを考えながら、彼は浮き浮きと歩く。
彼女が働くという猫の目亭は、裏通りの奥まったところにあった。
普段、ブライアンは馬車で移動するのだが、セントール地区と違って下町は道がせせこましく、ラザフォード家の馬車は走りづらい。仕方なく、馬車は広い通りで降りて待たせておくことにした。こんなに長い距離は滅多に歩くことがないが、彼女のことを想っているとサクサクと足が進む。
行きつ戻りつしながらも、やがてブライアンは無事に猫の目亭に辿り着いた。
ベルのついたドアを開けて店に入ると、中はこぢんまりとしているが明るく清潔な雰囲気だった。下町の店にしては悪くない。
夕食には少し早い時間の為か、まだ客の姿はまばらだ。
ブライアンが奥へ進みかけると、すぐに一人の娘が寄ってきた。
『アンジェリカ』ではない。年の頃は彼女とそう変わらないように見え、茶色の髪に茶色の目をしていて、年齢にそぐわない色気がある。
「お客さん、お独り?」
ふっくらとした唇を横に引くようにして婀娜っぽく笑った娘は、ブライアンを空いている席に案内してくれる。椅子に腰を下ろすと、またニコリと笑った。
「で、食事? お酒? うちの食事は、お兄さんみたいな人でも満足できるよ?」
「僕みたいな?」
「そ。お兄さん、お貴族様でしょ?」
ブライアンは目をしばたたかせ、思わず我が身を見下ろした。ここに来るにあたって、できるだけ質素な服装を選んだつもりだったのだが。
「どうして僕が貴族だと思うの?」
「そりゃ、判るわよ。それ、確かに形は地味だけど、生地はシルクでしょ? 仕立てもいいしね」
こんな下町に住んでいる娘が服の生地がシルクかどうかを一目で見抜くとは。よほどしょっちゅう金持ちの相手をしているのだろうか。
普通の貴族がこんな下町の奥まったところに足を運ぶとは思えないが。
首をかしげているブライアンの気を、娘がテーブルを指先でトントンと叩いて引く。
「で、何にするの?」
重ねて問われ、ブライアンははるばるこんなところまでやってきた理由を思い出した。
「ああ、いや、僕は人を探してここに来たんだ」
「人?」
「そう。ここにアンジェリカという女性がいないかい?」
彼がそう訊ねた瞬間、娘の目の中でカチリと何かが切り替わったように見えた。笑みの形はそのままで、そこに冷やかなものが宿る。
「いないわよ、そんな子」
「本当かい? とてもきれいな銀髪をしている子なんだけど」
「いないわね。それが目的なら、もう帰ったら? 他の店をあたってみなさいよ」
「あ、いや……」
アンジェリカという名の銀髪の娘がここで働いているというのは、三人から聞かされた情報だ。三人が全員間違えるとは思えない。
ブライアンは給仕の娘を見た。彼女の目の中には、さっさと帰れと言わんばかりの色がある。
(やっぱり、彼女はここにいるはずだ)
しばらく居座れば、逢えるに違いない。
ブライアンは慌てて壁に掛けられたメニューに目をやり、適当にいくつか注文する。
それを受けた娘は先ほどまでの愛想の良さをすっぱり床に放り投げ、フンと鼻を鳴らしてテーブルを離れていった。背中を見送っていると、厨房らしき奥の方へと入っていく。
不躾この上ない彼女のそんな態度も、ブライアンは別に気にならなかった。
こんなことは、しばしばあるからだ。
ブライアン・ラザフォードは裕福な伯爵家の跡継ぎで、夫候補としては五本の指に入るだろう。およそ十六歳から二十五歳までの未婚の女性はこぞって彼の気を引こうとし、彼の目を自分だけに引き付けておこうとする。
きっと今の彼女も、同じなのだろう。ブライアンの気を引こうとしたのに他の女性のことを出されたものだから、気を悪くしたのだ。それに、アンジェリカという娘に彼を取られたくないから、彼女がいないと言ったに違いない。舞踏会などでブライアンが興味を示した女性のことを他の女性が「今日はいない」ということも、ざらにあったのだ。
やれやれとため息をついて、ブライアンはのんびりと椅子に背を預けた。
彼はおおむね女性全般を愛していて、彼女たちのそういうところも可愛いとは思う。
だが、今は、何よりもアンジェリカという娘のことが気になった。
件の娘はこの店に住み込みで働いているらしい。給仕の娘はあんなことを言っていたが、そのうち、姿を現すに違いない。ブライアンは他に特にすることもないから、待つための時間はいくらでもあった。
(店が閉まるまでには、逢えるだろう)
そんなふうに悠長に構える彼の背後が、にわかににぎやかになった。
振り返ると、先ほどの娘が二人の男に絡まれている。ずいぶんと酒が入っているようで、がなり立てる胴間声がやかましい。
娘はにこやかに対応しているが、喜んで、というわけではないことは見て取れる。他にも数人の客がいるものの、取り立てて珍しい光景ではないのか、誰一人として反応する者はいない。触れるほどの傍にいる客さえも、ニヤニヤと笑いながら眺めている。
「何ということだ」
女性が困っている姿を放置するという行為は、ブライアンの選択肢の中にはない。
彼は立ち上がり、三人に歩み寄った。
「君たち、女性に対してはもう少し穏やかな態度の方がいいと思うよ」
刹那、店内がしんと静まり返った。
一拍置いて、男二人が振り返る。その向こうにいる娘は、目を丸くしてブライアンを見ていた。そんな彼女ににっこりと笑いかけてから、男たちに視線を戻す。
「女性には、優しくしないと」
重ねて言うと、彼らがまとう空気が何やら不穏なものを帯び始めた。
「……はぁ?」
「何言ってんだ、おめぇ?」
両側から、同時に地を這うような声が投げ付けられる。
問われたのだからと、至極真面目な顔で、ブライアンは返した。
「だから、女性にはそんなに大声をあげず、もっと丁寧に――」
彼の声は、グイと胸倉を掴み上げてきたごつい手に遮られる。
「何すかしたことぬかしてんだ、あぁ!?」
身長はブライアンの方が頭半分は高いから、胸倉を掴まれても、必然的に相手を見下ろすことになる。それが一層彼の苛立ちを誘ったらしい。身長差に気が付いた男の目がギラギラと光る。
「あんた何様のつもりだよ!?」
「僕か? 僕はブライアン・ラザ――」
「てめぇの名前なんざ誰も訊いてねぇよ!」
せっかく名前を告げようとしたのにまた邪魔されて、ブライアンは眉をひそめる。相手が何を望んでいるのか、皆目解らない。
「君たちは少し酔いを覚ました方が良さそうだな」
そうすれば、会話が成り立つようになるかもしれない。
だがしかし、彼の台詞で男はいっそういきり立った。
「この野郎、てめぇ!」
ブライアンの胸倉を掴んでいない方の手が拳となり、高々と上げられる。
「待ちたまえ、暴力は――」
「るせぇ!」
とことんまで、彼に最後まで言わせないらしい。
ブライアンがため息をつきかけたその時、男の拳が振り下ろされた。
(まずい)
顔に痣を作ったら、アンジェリカに逢えなくなるではないか。
咄嗟に顔だけは護ろうとして腕を上げ、固く目を閉じ衝撃に備える。
が。
ほんの一瞬、胸もとが引っ張られた。と思ったら、解放され、直後、すさまじい音が響き渡った。
ブライアンはパッと目を開け、次いでそれを丸くする。
「え……?」
まず視界に入ってきたのは、伏せ気味の華奢な背中。そこを、さらりと透明な輝きを放つ銀髪が滑り落ちていく。スカートをはいているということは、女性だ。ブライアンの位置からは、その顔は銀糸のカーテンのような髪に隠されていて、見えない。
女性が身を屈めているその下には、仰向けに倒れている、男の姿。彼はつい先ほどまで、ブライアンにかみついていたはず。
(何があったんだ?)
訳が解からず立ちすくむブライアンの前で、背中が起き上がる。すっくと立つと、小さな――とても小さな手が、頬にかかっていた銀髪を振り払った。
そうして現れた横顔に、ブライアンは息を呑む。
陶磁器でできた人形のような、優美で繊細な、その作り。はめ込まれている瞳は、菫色――だろうか。
彼女、だ。
間違いなく記憶に刻まれたあの娘ではあるけれど、彼の中にある記憶よりも遥かに美しい。
「アンジェリカ……?」
思わずその名を呟くと、夢のような娘は不思議そうに小さく首をかしげて、振り返った。