天使は人の子の心など知らない②
「旦那様?」
店を出てからフラフラと彷徨うように足を運んでいたブライアンは、いぶかしげな声に呼び止められて我に返った。声の方に首を巡らせれば、ラザフォード家の馬車の脇に立った御者が眉をひそめて彼を見つめていた。
無意識のうちに、通い慣れた道を歩いていたらしい。いつの間にか、馬車を止めていた通りまで辿り着いていた。
「あの、お乗りにならないんで?」
通り過ぎかけていた主人に、御者はそう問いかけてきた。
ブライアンは一つ二つ瞬きをして、状況を理解する。
「ああ、すまない」
答えながら、ブライアンは御者が開けてくれたドアから馬車へと乗り込んだ。
彼が腰を落ち着けると、何も指示を出さずとも、馬が走り始める。
猫の目亭に通うのはもうブライアンにとって日常の一部になっているから、御者も慣れたものだ。いつものように、真っ直ぐ屋敷に向かっているのだろう。
アンジェリカの『告白』を耳にしてからというものろくに頭が働かないブライアンには、御者の呑み込みの良さはありがたかった。
彼は力なく馬車の振動に身を任せて、ぼんやりと膝の上の自分の手に目を落とす。そうして、事態を反芻した。
やはり、ブラッド・デッカーはアンジェリカの想い人だった。
当然と言えば当然だろう。
彼はブライアンの周りではそうそう見ることができない優良物件だ。
確かに、あれだけできた人物であれば、彼女に相応しい。過激な行動を取るアンジェリカを、ブラッド・デッカーであればしっかりと支えてあげられるのだろう。
(僕には勝ち目がない)
それは揺るがしようのない事実だった。
彼が相手であるなら自分はおとなしく引き下がろう、と思うことすらおこがましいほどの。
だが。
(どうして、こんなに胸がざわつくんだ?)
アンジェリカに、自分は相応しくない。
彼女には、ブラッド・デッカーという素晴らしい相手がいる。
彼ならば、きっと、彼女を幸せにする。
そんな、明白でもろ手を挙げて歓迎すべき事実にも拘らず、ブライアンの胸の中にはドロドロとしたものが渦巻き今にも爆発せんばかりだった。まるで、その考えに脳みそ以外のすべてが抗議の声を上げているかのように。
アンジェリカはブラッド・デッカーに任せるべきだという揺るがせない事実を、自分は受け入れられないらしい。
何だか思考と行動、感情がバラバラで、制御できていない。
(僕は、もっと物分かりの良い男だっただろう?)
きちんと身の程をわきまえていて、自分の歩に合うもので満足する。
それができる人間だったはずだ。
手に入れられない――手に入れるべきでないものを求めて煩悶とするような男ではなかったはず。
(ここは、二人を祝福して……)
そう思ったブライアンの脳裏に、睦まじく寄り添う二人の姿が浮かぶ。
瞬間、息が止まった。
苦しい。
まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。
アンジェリカが幸せならば、それでいいはず。
それでいいはずなのだが。
(何故、こんなに胸が痛いんだ?)
ブラッド・デッカーであれ、誰であれ、それがアンジェリカ自身が選んだ者であったとしても、彼女が他の男に微笑みかけるのを想像するだけで、胸が焼けるように痛くて苦しい。
今現在も、これからも、そんなアンジェリカを、笑顔で眺めていられるのだろうか。
自問したブライアンは、がっくりと肩を落とした。
とうてい、できそうにない。
だったら、完全にアンジェリカと縁を切ってしまってどんな彼女も二度と目にしなければいいのか。
絶対、無理だ。それこそ、自分の頭を千切って捨てるような気持ちになる。
傍に居られず、離れることもできず。
こんなふうに思う自分はおかしいのだろうか。
誰かを好きになった男というのは、皆、こんなふうにおかしくなってしまうのか。
皆、こんな気持ちをどうやって凌いでいるのか。
こんなふうに混乱したまま一晩だって過ごせそうになかった。
誰かから助言をもらいたいが、手近で恋に悩んだ男と言えば、ブライアンの頭には一人しか浮かばない。この時間に行くとまた嫌味を言われるに違いないが、背に腹は代えられない。
(こんなことなら、彼が悩んでいた時にもっと親身になっていてやればよかったな)
あの時は、恋に悩む友人に、まるで喜劇を眺めている気分で面白半分で適当なことを言ってやったりしていたけれど。
ため息混じりで彼は馬車の天井を叩き、御者に指示を出す。
それを受けて馬は少し速度を上げ、目的地を目指した。




