垣間見えた天使の横顔③
よほど自慢の兄らしい。
ブライアンの言葉にアンジェリカは心の底から嬉しそうに頷く。
「兄は常に私を正しい方向へ導いてくれる」
そう言った彼女の瞳に溢れているのは、この場にいない兄への尊敬の念だ。いつになく饒舌なのも、話題が彼についてのことだからか。
セレスティアだったら、きっとブライアンのことなどネタにしないか、挙げたとしてもどれだけ彼がダメな人間かをこき下ろすだけだろう。
それも、自業自得というものだが。
アンジェリカが軽やかにしゃべるのを聴けることが心地良くて、ブライアンは彼女を促した。
「次はいつ来てくれるの?」
「何か、仕事がらみで近々王都に戻ることがあるから、その時に寄れたら寄ると言っていたけれど……いつも、割と突然だから」
最後の方には、諦めの中にほんの少しの寂しさが滲んでいた。
行商人というのはそんなにも予定を立てることが難しいのかと内心首を傾げつつ、ブライアンは彼女に微笑みかける。
「会えるといいね」
「ああ」
ブライアンを真っ直ぐ見つめてこくりと頭を上下させたアンジェリカは幼けなく、ふと、彼女の兄の為に店を用意してやったらどうだろうという考えが彼の頭の隅をよぎった。そうすれば、アンジェリカは大好きな兄とずっと一緒にいられるようになる。
「アン――」
それはこの上ない名案に思えてすぐさまアンジェリカに提案しようとしたブライアンだったが、勢い込んで横を向いた彼の目に入ったのは膝の上に置いた両手に視線を落とした彼女の横顔だった。
ブライアンは、喉まで出かけた台詞を呑み込む。
そんな彼の横で、アンジェリカはうつむいたままわずかな逡巡を見せた後、ポツリと呟いた。
「本当は、兄と一緒に行ければいいのに、と思う」
それは、遠くから届く子どもたちの歓声にすら掻き消されてしまいそうなほど微かな声だった。けれど、ブライアンの耳には一言たりとも漏れることなく届いてしまう。
「アンジェリカ」
かける言葉が見つからずただ名前を呼ぶと、彼女は一呼吸分置いてから、顔を上げた。
「思うだけ、だ。私が足手まといになるのは判りきっているし。猫の目亭で働くのは楽しいし、コニーたちと一緒にいるのも楽しい。兄だって、たとえどれだけ離れていても、私のことをとても愛してくれているのは判っているから」
アンジェリカの柔らかな表情に、無理をしたり我慢したりしている様子はない。けれど、さっきのあれは、ついこぼしてしまった彼女の本心なのではないかと、ブライアンは思った。
(多分、いや、きっと、ずっと隠してきた気持ちなんだ)
ブライアンは、そう察する。
ずっと誰にも言えなかったことを、アンジェリカは、ブライアンに――もしかしたら、彼だけに――教えてくれたのだ。
それが、まだ彼にはアンジェリカとの間に距離があるから故なのか、それとも、打ち解けてくれた故なのか。
そのどちらなのかを読み取りたくて、また子どもたちに目を戻したアンジェリカの横顔を窺ってみたけれど、ブライアンには判らなかった。
(だけど、誰にも打ち明けられない思いを僕には告げられるというのなら、そのどちらでも構わないんじゃないか?)
彼は自問した。
距離があるからこそコニーや他の誰よりもアンジェリカの『近く』に立てるというのなら、それでもいいのではないか、と――それで満足するべきなのではないか、と。
「ブライアン?」
いつしか腿の上で握った自分の拳を睨み据えていた彼を、涼やかな声が呼んだ。
は、と顔を上げると、軽く首をかしげてアンジェリカが彼を見つめていた。
「どうかしたか?」
「え?」
「何だか、変な顔をしていた」
台詞は不躾だが、まじまじと覗き込んでくるアンジェリカの眼差しにはブライアンを案じる色がある。『他人』ではなくなった彼に対する彼女の表情は、こんなにも素直で解かり易い。多分、これが本来のアンジェリカなのだ。
素のままの彼女を、ようやく、ブライアンにも見せてくれるようになったのだ。
それが些細な彼女の素振りから伝わってきて、彼の胸がふわりと温かくなる。
物理的だけでなく、色々な意味で、手を伸ばせば届くところにいる、彼女。
ここにいるのは、彼の呼びかけに応えてくれて、彼を心配してくれて、彼に微笑みかけてくれる、アンジェリカだ。
遠くから眺めるしかない存在では、なく。
やっと、この場所を手に入れた。
だから、彼女が許してくれるなら。
「僕はずっとあなたの傍にいるよ」
口走ってから、また、何の脈絡もないことを言ってしまったことに彼は気づく。
「あ、いや、そうじゃなくて」
しどろもどろに言い繕おうとするブライアンに、アンジェリカは目をしばたたかせ、次いで、フハッと笑う。その笑みを、まろみを帯びた頬に残したまま、言う。
「ありがとう」
女性の笑顔を何かにたとえたことなど、なかった。けれど、アンジェリカのそれはまるで薄紅色の繊細な花がふわりと綻んだようで。
ブライアンは、その声、その笑顔に溺れた。
そうして、はっきりと自覚する――自覚してしまった。
この手は、彼女を抱き締めたいと願っている、と。
彼は膝の上の拳に一層力を込めた。
(傍にいられたらいい、守っていられたらいい、なんて、欺瞞だ)
胸の中で呻いて、それが声に出てしまわないようにきつく奥歯を噛み締める。
(僕は、彼女を『僕のもの』として守りたいんだ)
自分一人のものにして、自分のこの手で、彼女の憂いも寂しさも拭い去ってあげたい。
そして、他の誰よりも彼女の近くにいて、皆を大事にする彼女の、『一番』になりたい。
そこにあるのは、とても独善的な、利己的な、わがままな欲求だ。
ただ見守るだけでは満足できないということに気づいてしまった今、これからどうしたら良いのかさっぱり判らなくなってしまった。ほんの少しでも間違った行動を取ったら、ようやく手に入れたものを全て失ってしまうかもしれない――この、アンジェリカの隣に座っていられる特権を。
(まるで、崖っぷちに佇んでいる気分だ)
「ブライアン?」
また、アンジェリカが彼の名を口にした。ただそれだけのことでブライアンの中に花が咲き誇るような幸福感が溢れるのは、その名を呼ぶのが彼女だからだ。
その時、ひらりと何かが降ってきた気がした。それは、ブライアンの胸の中に吸い込まれるように沁み込んでいく。
(ああ、そうか。これが、そうなのか)
ようやく、ブライアンは自分の異常が何からもたらされているものなのか、気付く。
(僕は、彼女に恋をしている)
かつてエイミーに焦がれたボールドウィンが愚かな行動を取っていたように、ブライアンもアンジェリカに恋しているから訳が解からない制御不能な行動を取ってしまうのだ。
多分、アンジェリカに出逢ったときからブライアンの中に積もり続けていたに違いない。けれど、愚かな彼の中で、それには覆いが掛けられていたのだ。
だが、歴然たる事実に今さらながら気付いただけだといっても、突然その覆いを取り払われたブライアンは、すぐには自分の一部として受け止めることができない。
固まったままの彼の額に、ひたりと小さな手が当てられた。
(!)
瞬時に、ブライアンの鼓動が倍に高まる。カッと頭に血が昇るのが判った。
「顔が赤い。熱があるんじゃないのか?」
そう言ったアンジェリカの手は、まだ彼の額に置かれたままだ。それを離してくれれば元に戻ると言えればいいのに口はピクリとも動かなくて、焦る一方のブライアンの頭は完全に思考停止に陥る。
「ブライアン?」
アンジェリカの声に滲む彼を気遣う響きが、強くなった。目を覗き込むように顔を近づけてくる彼女に、今度は息も苦しくなってきた。
このままでは、死んでしまうかもしれない。
(誰か、助けてくれ)
そんな彼の心の叫びが天に届いたのか、その時、甲高い子どもの泣き声が響き渡る。
続いて、別の子どもの声が。
「アンジ―、ジェイクが転んだぁ!」
即座に立ち上がったアンジェリカは彼らの方へと駆けていく。と、数歩で立ち止まり、ブライアンに振り返った。
思わず身構えたブライアンに、彼女が言う。
「具合が悪いなら、先に帰った方がいい」
そうしてまた身をひるがえし、今度こそ、子どもたちの塊へと走っていった。
別たれた子どもの真ん中にしゃがみ込んだアンジェリカの背中を見つめ、ブライアンは詰めていた息をゆるゆると吐き出す。
そうして、諦め悪く自分に問うた。
(これが、恋なのか?)
こんな、盛りのついた種馬にまたがっているような気分が――?
自問はしたものの、答えは、もう、判っている。
ベンチの背もたれに身を預け、ブライアンはもう一度深々とため息をこぼした。




