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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
第一部:地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。

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天使の微笑みは、時に、苦い③

ひとつ前のお話を結構修正したので、チョロッと読み直していただいた方が違和感なくお読みいただけるかもしれません。

 再び猫の目亭を訪れるのに、ブライアンは三日という時間を置いた。


 本来なら時間が許す限り連日通い詰めたいところを三日も空けたのは、この間のことで自分を信用できなくなったからだった。


(だって、まさか、あんな)

 猫の目亭に向かう道すがら、ブライアンは心の中で呻く。


 表情が豊かになった――あるいは彼にも読み取れるようになったアンジェリカを前にすると、自分はこの上なく不適切な行動を取りかねない。


 そんな、とんでもないことにブライアンは気づいてしまった。


 三日前のように、彼女の手を振り払うのなら、いい。今思えば、むしろあれは望ましい行動だった。

 良くないのはあれとは真逆の方向に動いてしまうことだ。


 柔らかそうな頬や、まさに銀の絹糸のような髪。

 特に綻んだ唇などは――かなりまずい。

 それらを頭に思い浮かべただけで、ブライアンの全身に緊張が走った。


(こんなこと、有り得ない)

 いや、あってはならない。

 彼は自分自身を叱咤する。

 そんなことは頭の片隅にも浮かんではいけないのだ――彼女に、触れたいと思うなど。


 以前のようにアンジェリカの周りに見えない壁が築かれていたときにはブライアンもそんなふうにはならなかった――と思う。だが、声も表情も態度もめきめき柔らかくなってきた彼女を前にして、何だか雲行きが怪しくなってきてしまった。


 ブライアンとて、かつての自分の節操のなさには自覚がある。女性の柔らかさは好きだし、彼女たちがくれる快楽もためらうことなく楽しんできた。そして、ブライアン自身が楽しむだけでなく、女性だって、恥じらって見せながら、実はそれを喜んでいる。

 何をさておき、身体の触れ合い。

 心は戯れ一択で。


 基本的にブライアンと女性との関係は、そういうものだった。


 だが、アンジェリカはそんなブライアンにおける『女性』の範疇には入っていなかった。そんな存在ではないはずなのに――いったいどうしたことか。


(最近、ご無沙汰だからかな……)

 バリバリと、ブライアンは頭を掻いた。


 アンジェリカと出逢ってからもう二ヶ月、いやもうじき三ヶ月になるか。

 別に意図してそうなったわけではないのだが、気付けば、あれ以来、ぱたりと火遊びはやんでいる。

 それでも特に欲求不満を感じたことはなかったが、身体の方が正直なのかもしれない。

 あるいは、あまりに急に打ち解けてきたアンジェリカに、ブライアンの方が追いついていけていないのか。何というか、頭と身体がうまくつながっていない気がする。


 少し頭を切り替えようと三日間アンジェリカ断ちをしてみたのだが、ここが我慢の限界だった。それこそ欲求不満なのか、何だか寝覚めはすっきりしないし食事も美味く感じられない。

 むしろ、朝から晩まで毎日彼女が傍にいてくれたらいいのになどと思ってしまう、体たらく。


「まったく、何を考えているんだ、僕は」

 独り言ちつつブライアンは足を速める。


 猫の目亭に着いてみると、今日は議会もなくて早い時間に入れたせいか、店にはまだほとんど客の姿がなかった。五、六人というところか。こんなふうに空いているところに来るのは久しぶりかもしれない。議会に出るようになるまでは、ブライアンも良くこの時間に来ていたものだが。


 店の中を進みつつ無意識のうちにアンジェリカの姿を探すと、彼女は壁際に座る男性客の相手をしていた。何となくその客に見覚えがある気がして、ブライアンは引いた椅子に腰を下ろしながら誰だったかと記憶を探った。


 かなりがっしりした体格に、短く刈られた茶色の髪。精悍な横顔は――


(ブラッド・デッカー)


 その名を思い出した瞬間、胸がざわりと波立った。


 アンジェリカは、注文取りにしてはやけに真剣な顔でデッカーと話し込んでいる。そもそも、ブライアンが入ってきたことに気付いていないのだから、かなりデッカーに意識を集中させているに違いない。

 椅子に座りはしたが、ブライアンはどうにも尻が落ち着かない。何故か無性に立ち上がって彼らの方に行きたくなるのを、腿に力を込めてこらえた。

 どちらとも顔見知りなのだから声をかけてもおかしいことではないはずだが、何となく、そうするのがはばかられる雰囲気だ。


 ブライアンはテーブルに頬杖を突き、壁に掛けられた絵を眺めながらその視界の隅にアンジェリカを置いた。


 彼女はブラッドに何かを言い、ブラッドも何かを返す。

 と、アンジェリカが身を乗り出し、ブラッドにグッと顔を近づけた。銀色の髪が、テーブルの上に置かれたブラッドの手にかかる。


 それを目にした瞬間。


 気分が悪い。

 むかむかする。


 ブライアンは眉をしかめてみぞおちの辺りを撫でた。


(腹が減り過ぎたとか?)


 この不快感も今まで覚えたことがないものだし、空腹感も未だかつて経験したことのないものだ。今日は早めにここに来ようと思っていたから、昼食は抜いてきた。今の今まで空腹だと実感してはいなかったが、両者をつなげるのは無理のないことだろう。


 そんなふうに理屈をつけてジリジリしながら彼らを見守っていると、ややして、アンジェリカがまた身を起こした。二人の間に距離ができて、ブライアンはホッと息をつく。


 きっと、もうじき彼女はあそこを離れてこちらに来るだろう。


 そう思った、その時。

 アンジェリカが、ふわりと口元を綻ばせた。ブラッド・デッカーに向けて。


 刹那、先ほどとは比にならない、痛みに近いものすら伴ったムカつきがブライアンのみぞおちを貫いた。


(何故だ?)


 これはアンジェリカの笑顔を見た瞬間に込み上げてきたものだ。

 だが、アンジェリカの笑顔は、ブライアンにとって心地良いもののはずなのに。


 彼女の口元からはもう微笑みは消えていて、ブラッドに向けて幾度か頷きを返している。彼らは互いに互いの目を見ていて、その間に他者が入り込む余地はなさそうだった。


 グッと奥歯を噛み締めて、ブライアンは壁際の二人から目を逸らす。どうして彼らを見ていられないのか解からず、それが解からないことが、余計にブライアンの気持ちをかき乱した。


 やけに居心地が悪くて、ブライアンはもう店を出てしまおうかとすら思った。が、そこに、横合いから声がかけられる。


「あの二人は、ずいぶんと仲良さそうですよね」


 そちらに目を向けると、平凡な顔立ちをした黒髪黒目の青年が唇の両端を横に引くようにして笑いかけてきた。彼とは何度かあいさつ程度の言葉を交わしたことがある。名前は確かウォーレス・シェフィールドだ。

 ウォーレスはアンジェリカたちに顎をしゃくって続ける。

「彼、最近この時間になるとよく顔を出すんですよね」

「最近?」

 ブライアンは首を傾げた。

 そう言えば、ブライアンが足しげく入り浸っていた時には見かけることがなかった気がする。眉根を寄せた彼に、ウォーレスが頷いた。


「ええ。ここ二、三週間ほど前からですかね。それ以前は、もっとポツポツでしたけど」


 二、三週間前と言ったら、ブライアンが議会に出るのでここに寄るのが遅くなり始めた頃だ。


(僕が来ていなかった間に、彼は来ていたのか)


 なんだか複雑な心境になったブライアンの横で、ウォーレスはアンジェリカを眺めている。

「彼女、あの彼といるとたまに笑うんですよねぇ」

 彼の声は、うっとりと、という形容がぴったりのものだった。憧憬に溢れたその眼差しは、アンジェリカに縫い留められたかのように彼女に据えられている。


 ウォーレスのその様に、ふと、ブライアンは胸がざわついた。

 それは、アンジェリカとデッカーが笑みを交わしていた時に込み上げたものとは違う感覚だった。

 ムカつきではなく、胸騒ぎ。

 とにかく、何だか妙に落ち着かない。


(何だ?)


 その正体を見極めかねてブライアンが眉をひそめた時、ふいに、言葉をこぼすようにウォーレスが呟いた。

「彼女の微笑み――素晴らしいですよね。あの瞬間を硝子か何かで封じ込めてしまいたいと思いませんか?」

「ええ……え!?」

 アンジェリカの微笑みのすばらしさには反射的に同意してしまったブライアンだったが、その言葉の内容にギョッとする。


 冗談だろうかとウォーレスを見ると、彼はニッコリと笑みを返してきた。その笑顔には屈託がない。多分、冗談だったのだろう……冗談だったと思いたい。


 なんとなく不穏な気分は消えきらないが、ブライアンは愛想笑いでその場を流した。と、そこへゆらりと影が差す。首を巡らせると、いつの間に近付いていたのか、ブラッドの大柄な身体がすぐ目の前にあった。その斜め後ろにはアンジェリカだ。


 ブラッドは軽く頭を下げ、生真面目な声で問うてくる。

「お久しぶりです。お加減はいかがですか」

 彼が言うのは、殴られたことについてだろう。気遣いは嬉しいが、正直、あまり触れて欲しくない。

 ブライアンは完璧な笑顔を浮かべて頷き返す。

「ああ……お陰で、すっかりいいよ」

「それは良かった。では、自分はこれで失礼します。じゃあ、アンジェリカ、またな」

 それだけで、ブラッドは無駄話をしていくこともなく、幅広の歩みで店を出て行った。


 アンジェリカの目がその背中を追うのを見て、また、ブライアンの胸にモヤモヤとしたものがわだかまる。彼女の顔をこちらに向けさせたくてたまらない。

 大人げない衝動に困惑しながら、ブライアンはアンジェリカに声をかける。


「アンジェリカ、注文をいいかな」

 途端、パッと彼女が振り向く。

「失礼した」

 短い一言と共に、彼女の菫色の眼差しがブライアンに注がれた。ただそれだけで、不思議なほどに胸の中が温かく、心地良くなる。知らず知らずのうちに頬が緩んだ。


「ブライアン? どうかしたのか?」

 眉をひそめたアンジェリカの目には、彼を案じる色がある。


「どうしたって、どうして?」

「何か……変な顔をしているから」

「変って、ひどいなぁ」

 そう答え、ハハ、と笑って見せる。胸の奥に何かを凝らせたまま。


 アンジェリカに心を割いてもらえることが、嬉しい。

 彼女の眼がブライアンだけに注がれ、彼女の声がブライアンだけに届けられることが。


 そんな自分をみっともない、情けないと思うのに、それでも、彼女の意識が我が身に向けられることを望んでしまう。制御も理解もできない己に、ブライアンは心のうちでため息をこぼした。


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