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放蕩貴族と銀の天使  作者: トウリン
第一部:地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。

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21/97

天使の守護者を目指すには②

 麗らかな秋の昼下がり。

 今日もボールドウィン邸の舞踏室には情けない男の悲鳴が響き渡る。


「ぅわ、た、ッた! ちょっと、待った!」


 左腕を背中に捩じり上げられ上体を床に押し付けられたブライアンは、掌が弾けんばかりの勢いで空いている右手で床を叩いた。と、腕にかけられていた力が緩む。


「い、たぁ……」

 解放されたブライアンは呻きながらべたりと床に伸び、思い切り息を吐き出した。

 そんな彼に、遥か頭上から淡々とした声が浴びせられる。

「今のでたいていの男は怪我をさせることなく取り押さえられる。難点は一度に一人しか相手ができないことだな」

 ブライアンが首だけ捩じって見上げれば、返ってくるのは涼しい顔をしたセドリック・ボールドウィンの眼差しだ。この友人は、若干涙目なブライアンに同情の気配など毛ほども見せず、続ける。

「相手が複数の場合は、速やかかつ確実に無力化する必要がある」

 そう言った彼の顔にも声にも剣呑さの欠片もなく、だからこそ、余計に物騒この上ない感じがした。


「えぇっと……僕の手が後ろに回るようなことは、ちょっと……」

 ブライアンが思わずそう口走ると、ボールドウィンは呆れたような眼差しを返してくる。

「もちろん、殺せとは言っていない。行動できなくすればいいだけだ」

「ああ、それなら」

 あからさまにホッとしてみせたブライアンに、ボールドウィンからは小さな苦笑が漏れる。

「そういうところはいかにも君らしいな。嘘でも、『貴女の為なら人も殺せる』とでも言ったら、今まで君が付き合ってきた淑女たちなら感動のあまりに気を失うんじゃないのか?」

「そんな見栄は張れないよ。第一、彼女の為に人を殺したりしたら、喜ぶどころかきっと誰よりも悲しむよ、アンジェリカは」

 ブライアンは憤慨しつつかぶりを振った。


 アンジェリカは屈強な男をいとも簡単にねじ伏せるが、彼らに傷を負わせることはない。たとえ相手が無頼の輩でも、怪我はさせたくないようなのだ。

 アンジェリカの為にと言いつつブライアンが誰かを傷付けるようなことをしても、彼女は決して喜ばないだろう。

 彼女の身を守って心を傷つけるようなことは断じてしたくない。

 そんな彼に、ボールドウィンが微かに目をすがめる。

「……君にとって、アンジェリカ嬢はよほど特別な存在らしいな」

 感慨深げに言うボールドウィンに、ブライアンは深々と頷いた。

「それは、もちろん」


 わざわざボールドウィンの屋敷に出向いて彼に痛めつけられているのは、別にブライアンが被虐趣味に目覚めたからではない。軍務経験があるボールドウィンに、体術の指導を受けているのだ――アンジェリカを守れる男になる為に。

 自画自賛になるが、少しは役に立つようになりつつあるのではないかと、ブライアンは思っている。

(アンジェリカがいつも生真面目な顔をしているのは、そういう顔にならざるを得ない時間が多いからなんだよな、きっと)

 アンジェリカが厳しい顔をしなくても済む時間をもっと増やしてあげられたら、彼女のその時間を自分が肩代わりしてあげられたら、きっともっと色々な表情を見せてくれるようになるに違いない。


 ブライアンは、稀に彼にも見せてくれるようになったアンジェリカの柔らかな表情を思い出してヘラッと笑った。


「出逢ったころはね、正直なところ、彼女の顔を見たり声を聴いたりしても、うっとうしがられているのか歓迎されているのか、さっぱり読めなかったのだけど、最近、そうではないことに気付き始めたんだ。僕が言うことに、ほんの少しだけどね、眼差しが和らいだり唇がほころんでいたりね。面白いと思ってくれたら、声も少し明るくなったりしてさ」

 それがもう信じられないほど愛らしいんだ、と付け加えながらブライアンは両膝に手を突いて立ち上がり、ズボンの裾から垂れてしまったシャツをしまい込む。ついでに、乱れた髪を手櫛で整えた。


 そんな彼を、腕を組んだボールドウィンはしげしげと観察し、そして言う。

「正直、こんなに続くとは思わなかった。君が変わりたいと言ってきたときには驚いたが、どうせ三日と持たないだろうと高を括っていたのだけどね。最近は議会にだって顔を見せているだろう?」

「ああ……ちょっと、考えていることがあって」

「あの議題か。あれは良いな」

「そう思うかい? まだ、賛成反対半々くらいだろう?」

「半々でも上出来だろう。今まで何もしてこなかった者が急に発言したところで、まともに取り合う者などいないさ。賛同者は、元々興味があったか既に自ら実践している者がほとんどだろう。反対している者を覆させるのはかなり骨だぞ」

「そうか……」

 道はかなり遠そうだ。


 厳しいことを言われて心持ち落ちたブライアンの肩を、ボールドウィンが叩く。

「でも、君にものを考える頭がついているとは、思っていなかったよ。たいした変わりようだ」

 感心した声で言われた台詞の内容はあまり褒められているような気がしないものだが、ブライアンはボールドウィンの声音の方を尊重することにする。


「まぁ、あんなにも完璧な彼女を守るなんておこがましいと思って落ち込んだのだけど、考えてみたら僕が変わればいいだけの話だったんだよね」

 にっこり笑ってそう言えば、ボールドウィンは肩をすくめた。

「そう思っても変われる者はそう多くないが」

「そうかい?」

 ブライアンは今まで自分を変えたいと思ったことがなかったが、それは、そう願うほど何かを強く望んだことがなかったからだ。これほどまでに求めることの為ならば、できることがあるなら全てしてみようと思うのだが、他の人たちはそんなふうに思わないものなのだろうか。


 心底意外な気持ちで首を傾げたブライアンに、何故かボールドウィンが奇妙な眼差しを返してくる。

「君は……彼女のことをどう思っているんだい?」

「え?」

 突然問われて、ブライアンはボールドウィンの質問の意味を掴みかねた。眉根を寄せた彼に、ボールドウィンは重ねて問うてくる。

「どうしてここまでする?」


 どうして。

 それは、もちろん。


「あんなに可憐な女性は守られてしかるべきだからだよ。君だって、アンジェリカを一目見たらそう思うにきまっている。まあ、騎士道精神っていうか? この年になるまで僕にそんなものがあるとは知らなかったけれどね」

 ブライアンにとっては自明の答えだったが、ボールドウィンから返ってきたのは納得の頷きではなく、訝しげな沈黙だった。いや、訝しげというよりも――微妙に呆れられているような気がするのは気のせいだろうか。


 ややして、ボールドウィンが口を開く。

「それだけ?」

 問い返されても困る。

「他に何が?」

 問いに再び問いを返すと、ボールドウィンの眼差しは、今度はどこか憐れむような色を帯びた。


(いったい、何なんだ? その、溝に転げ落ちた仔犬でも見るような眼は)


 要領を得ない旧友の反応に、ブライアンはムッと唇を尖らせる。

「君が何を言わんとしているのか、僕には判らないよ。はっきり言ってくれないか」

 渋い顔で要求すると、ボールドウィンは束の間押し黙った。


 そうして。


「……君は、他の女性にも、同じように感じたことがあったのかい?」

「どういう意味だい?」

「だから、今、アンジェリカ嬢に抱いているような庇護欲とか……まあ、色々な感情を、今までの恋人たちに対しても抱いたことがあったのかい?」

 結局投げられたのはまた質問だったが、その問いに、今度はブライアンが唇を引き結んだ。


(アンジェリカに感じたように? 他の女性に?)


 今まで付き合ってきた相手の中には、アンジェリカと同じくらい華奢で繊細そうな女性も山ほどいた。というよりも、基本的に、貴族の女性は皆、陶磁器人形のような姿をしている。それに非力だし、ちょっと刺激が強いことがあるとすぐに気を失う。


(もちろん、彼女たちを、守りたいと思ったことだって――……)


 ない。

 一度も、なかった。


 彼女たちといる時に頭に浮かんだのは、ただ、一時戯れ、快楽を手に入れることだけだった。それは彼自身が得るもので、相手の為に何かをしたいと思ったことは、ない。


(あれ?)


 首を捻ったブライアンの耳に、ため息が届けられる。

「存外、君も鈍い男だな」

 ボールドウィンが放った台詞は、バカにした、とは少し違う言い方だが、少なくともブライアンを褒めているのではないことは確かだ。


「なんだい、その言い方は」

 いささかムッとしてそう言うと、ボールドウィンは肩をすくめる。

「さあね。ああ、そう言えば、知り合いの警官が、最近若い女性がかどわかされる事件が続いているのだと言っていたよ。エイミーにも、くれぐれも一人で出歩かないように言ってあるんだ。君の彼女にも気を付けるように言っておいた方がいいんじゃないか?」


 唐突に切り替わった話題だけれど、こちらの方がアンジェリカに直結している話だ。ブライアンは胸の中に落ちた疑問はひとまず奥底にしまい込み、ボールドウィンに苦笑を向ける。

「そんな話をしたら、アンジェリカなら率先して首を突っ込んでいきそうだよ」

 友人は、微かに首を傾げた。

「だったら、なおさら、君が見ていてやらないといけないのだろう?」

 言われて、ブライアンは目をしばたたかせる。


「ああ、うん。そう。そうだね。その通りだ」


 惰眠から突然叩き起こされたような心持で何度も頷く彼に、ボールドウィンはクスリと笑った。


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