天使の守護者を目指すには①
アンジェリカに『ブライアン』と呼んでもらえるところまでは歩みを進めることができてから、ほぼひと月が過ぎた、ある日の猫の目亭で。
突然立ち上がった酔客に、珍しくアンジェリカが体勢を崩した。
すぐ傍の席にいたブライアンは、とっさに立ち上がり彼女を受け止める。
アンジェリカがブライアンの腕の中にいたのはほんの一瞬のことだ。そのわずかな触れ合いで、彼は痛ましいような切ないような思いに駆られた。一瞬とは言えほぼ完全に彼に寄り掛かったにもかかわらず、彼女の身体からは重さをほとんど感じられなかったのだ。
やっぱり、こんなに華奢な女性が助けられる側でなく助ける側にいることが、ブライアンにはどうにも納得できない。実際には遥かに彼の方がか弱いのだろうが、それとこれとは話が別だ。たとえどんなに強かろうが、彼女も守られるべきなのだとどうしても思ってしまう。
そんな憮然とした思いは胸の内にきれいに包み隠して、彼はそっと立ち直らせたアンジェリカに微笑みかけた。
「大丈夫かい?」
「ああ……」
彼女の反応にブライアンは内心で首を傾げる。
なんだか、生返事だ。アンジェリカであればすぐさま礼が返ってきそうなものだが、見れば眉をひそめて妙に怪訝そうな顔をしている。
「どうかした?」
まさか、彼女に限って足をくじいたとかそんなことはないだろうが、あまりにらしくない素振りにブライアンは心配になってくる。
「取り敢えず座った――ラ!?」
椅子を勧めるブライアンの声は、途中で裏返った。なんとなれば、前触れなく伸びてきた小さな手に胸を撫で回されたからだ。
もちろん、今までにも、女性には何度も同じことをされてきた。
それはもう恋の駆け引きの中では日常茶飯事もいいところで全く珍しくもなんともない。だが、今そうしているのはアンジェリカだ――その手付きに色っぽさの欠片もないのが彼女らしいとは言え、男の胸をまさぐるなど有り得ないだろう。
「えぇっと……アンジェリカ? 何をしているのかな?」
彼女の仄かな香りをかがされながら無言で上半身をくまなく探られ何かの許容量の限界を迎えつつあったブライアンは、疑問の形で遠巻きに抑止を試みた。策は実り、彼のその言葉にアンジェリカが顔を上げる。
それと同時に、彼女のその手は止まったが。
(近い近い近い近い)
吐息が絡まるほどの距離から大きな菫色の目で食い入るように見つめられれば、ブライアンの脳は完全に活動を停止してしまう。
いつしか彼の手は頭の支配を離れて動き出し、未だ胸に置かれたままのアンジェリカの手を覆った。それはあまりに小さく繊細で、ブライアンの手のひらの中に完全に納まるほどだ。彼の指はそこで止まらず、そっと小さなその手を握り込む。
「アンジェリカ……」
透明な二つの紫水晶に目を奪われたままブライアンが彼女の名前を囁いた、その時。
「身体が違う」
「――え?」
何か、意味不明な台詞が聞こえた気がした。
「今、何て?」
眉をひそめて問い返せば、アンジェリカは律義に繰り返してくれる。
「身体が、前と違う」
(えぇっと……?)
アンジェリカの妙な台詞で一気に冷静さを取り戻したブライアンは、彼女のその言葉の内容を理解しようとしたが、叶わなかった。
「別に頭を挿げ替えたりはしていないけれど……」
答えようがなくて試しに言ってみたら、思いきり呆れた眼差しを返される。
「そんなことは言っていない。以前とは身体つきが違うという意味だ」
そう言って、アンジェリカはまた何かを確かめるようにブライアンの胸を撫でたり押したりし始めた。ひとしきりそうしてから、不思議そうに小首をかしげた。こんな状況だが、銀色の小鳥のようなその仕草が思わず抱き締めてしまいそうになるほど愛らしい。
が、続いて桜色の可憐な唇からこぼれた言葉は、何とも雄々しげなものだった。
「前はあんなに貧弱な身体だったのに、ずいぶん筋肉がついている」
「あ……ああ、そういうこと……」
微妙に肩を落としてブライアンは頷いた。
感心したように言われても、その逞しさを増した男ぶりにうっとり、というわけではなく、単純に機能的に優れたものになったことに対しての評価を口にしたに過ぎないと判り切っているから、何となく喜びきれない感じだ。
(いや、褒めてもらえたことは嬉しいんだけど?)
もっと、こう、『素敵』とか『カッコいい』とか。
(無理か……)
期待は、しない。
力の抜けた笑いを返しながらアンジェリカに答える。
「最近、身体を鍛え始めたんだよ」
「身体を? どうして、また」
心底から意外そうに大きな目を丸くしたアンジェリカに、ブライアンは小さく肩をすくめた。
「あなたを守りたいと口で言っても、今の僕では叶わないから」
「それが理由? そんなことが?」
アンジェリカは目をしばたたかせている。困惑しきりという風情で。
「僕にとってはとても大きな理由だ。あなたが危険な目に遭っているときにただ眺めているだけなんて、耐えられないから」
至極真面目に、ブライアンは告げたつもりだった。
だが、束の間の沈黙の後。
目を丸くしていたアンジェリカが、突然、笑い出す。クスクスと、それはもう楽しげに。
あまりに予想外の反応に、まだ目にするのは二回目のその笑顔を堪能するのも忘れてしまった。
彼女を守りたいということが、そんなにおかしなことだったろうか。いや、実際、今のブライアンではまだ分不相応なことではあるのかもしれないが。
「あの、アンジェリカ?」
不安な声で名を呼ぶと、彼女が顔を上げた。ブライアンの表情に気付き、少し、申し訳なさそうになって。
「すまない。あなたの努力を笑ったのではなくて……ただ、今まで、私に乱暴なことに手を出すなと言う人はたくさんいたけれど、私にそうさせないために自分自身を変えようとした人は一人もいなかったから」
そうして、ニコリと笑う。
彼一人に真正面から向けられたその笑顔に、ブライアンは目には見えない極太の杭で胸を射抜かれた気がした。
呆然とアンジェリカの微笑みに見入る彼に、彼女が続ける。
「そんなことをしたのはあなたくらいだけれど、あなただから、そうするのかもしれないな」
そこで、アンジェリカを呼ぶ声が客の中から飛んできた。
「ああ、すまない、今行く」
肩越しに呼びかけに答えた彼女は、もう一度ブライアンの頭の天辺からつま先まで視線を往復させる。
「あなたの気持ちはとてもうれしいけれど、無理はしないで、怪我のないようにして欲しい」
「あ、ああ……それはもちろん。僕は臆病だからね」
ヘラリと笑ってそう答えると、アンジェリカは首をかしげて彼を見つめてきた。
「あなたが臆病だとは、私は思ったことがない」
「え?」
その言葉を問い返す暇はなく、彼女は身をひるがえし、呼ばれた席へと行ってしまった。
手探りで椅子を確かめそこに腰を下ろしたブライアンは、いつものように可憐な蝶さながらに席の間を舞うアンジェリカを目で追う。そうしながら、一連の彼女の言葉を思い返した。
(守ろうとすることは拒まれなかった――よな?)
間違いでも、彼の勘違いでも希望的観測でもない。
以前はにべもなくはね付けられた言葉だったが、さっきのアンジェリカは受け入れてくれていたような気がする。
それは大進歩と言っていいはずだ。
そう思えれば、ブライアンの唇には自然と笑みが浮かんでいた。




