彼女は天使に違いない
「本当に、この世のものとは思えなかったんだ」
ボールドウィン家の客間で、セドリック・ボールドウィンを前にしたブライアンは拳を握って力説した。屋敷の主人はソファに身を預け、膝の上で手を組んで彼を見つめている。その眼差しの微妙な冷ややかさは気にせず、ブライアンは更に続ける。
「少し薄暗い路地でも光り輝くような銀髪でね、巨漢に襲われそうになっていたから思わず声を上げたら、一瞬だけ、僕の方を振り向いたんだよ。その時にチラリと見えただけだけど――」
彼はハァ、とため息をついた。
「もう、本当に、一言で表わすならば、可憐? そう、白鳥のような優雅さで、昔、どこかの画廊で見かけた絵の中に、彼女とよく似た天使がいた気がするな」
言いながら、うっとりと、ブライアンは脳裏に鮮明に焼き付いている顔に思いを馳せる。
今彼がボールドウィンに熱く語っているのは、先日ウィリスサイドで見かけたさる女性のことだ。
通りを隔てた反対側で見かけた、一人の女性。
その人は、ブライアンの見ている前で彼女の倍はありそうな男に絡まれていたのだ。
「で、彼女は無事だったのかい? 君が助けたの?」
投げ遣るような声でボールドウィンが訊ねてくるのへ、ブライアンはかぶりを振った。
「いや、次の瞬間、彼女は消えてしまったんだ。空にでも舞い上がったかのように」
彼女と巨漢が振り向いてから彼女が姿を消すまでの間に何かが起きたような気がしたが、あれは絶対にブライアンの気のせいだ。彼女の美しさは現実離れしていたが、それ以上に、あの時彼が目にした光景は有り得ないことだったから。
(そう、あんなことがあるはずがないよな、絶対)
夢の中の住人だとしか思えない佳麗な少女と遭遇してから、一週間。
その一週間、彼女の美しさを思い返し、その都度、同時に記憶によみがえる彼女自身と同じくらい現実離れしたあの光景の方は、なかったこととして頭の奥底へと押し込んできた。
今もそうしたブライアンに、ボールドウィンが首を傾げる。
「で、その『天使のような』彼女は、どこの誰だか判ったのかい?」
水を向けられたブライアンはパッと顔を輝かせ、身を乗り出して答える。
「ああ、判ったよ。名前はアンジェリカって言うんだ。彼女にピッタリだと思わないか?」
あれからもう数日経っているというのに、ブライアンの記憶の中の彼女の姿はほんの少しも色褪せることなく、むしろ鮮やかさを増している。
しかしいくら記憶の中の彼女が鮮明でも、それだけでは、何かが足りない。どうしてももう一度彼女を見たくて――あんなふうに遠目で見かけるのではなく、目と目を合わせてできたら声も聴いてみたくて、五、六人雇ってあの地域一帯を調べさせたのだ。
だが、何故、こんなにもまた逢いたいと思ってしまうのだろう。
ふと、ブライアンは自問した。
彼女の美しさは確かに群を抜いているけれど、数多浮名を流してきた美女たちに対して、これほど強い執着を抱いたことはない。
(彼女の何が、特別なんだ?)
胸の内でのその呟きにブライアンが答えを見出す前に、ボールドウィンが素っ気ない返事を寄越した。
「ぴったりと言われても、私は彼女を見ていないからね」
そのつれなさにブライアンは唇を曲げる。次いで、「ああ」と頷きにっこり笑った。
「何だよ、あんまり彼女ばかりを褒めるから面白くないのかい? もちろん、君のエイミーも可愛いよ? でも、エイミーの可愛らしさは、そうだね、スズメとか仔リスとか、こう、手の中に丸め込みたくなるような愛らしさだろう?」
ボールドウィンの新妻を褒めたはずなのに、何故か彼は余計にムッとした顔になる。
「君の口からエイミーの名を聞きたくない。彼女が穢れる。ボールドウィン夫人と呼べ」
「失敬な。女性との付き合い方は、結婚するまで僕も君もそう大差はなかったじゃないか」
「君ほど無節操じゃなかったよ」
「無節操とは人聞きの悪い。ただ、僕は美しい花を見ると愛でずにはいられないだけだよ」
悪びれもせず肩を竦めてそう返せば、諦め半分、呆れ半分の眼差しが投げてよこされた。
「で、その新しい『花』も『愛でる』のか?」
言われて、ブライアンはとんでもないとばかりに大きくかぶりを振る。
「まさか! 彼女はまだ十八か十九か……流石に僕には若過ぎるよ」
「じゃあ、せっかく探し当てたのに、それだけなのかい?」
「いいや。これから会いに行くよ。ウィリスサイドにある猫の目亭って食堂を手伝っているらしいんだ」
意外そうに眉を上げたボールドウィンに答えながら、ブライアンは時計に目を走らせた。
「おっと、いけない、そろそろ行かないと。猫の目亭が開く時間だ」
そう言って、ブライアンは慌ただしく立ち上がった。ソファに腰を下ろしたままのボールドウィンを見下ろし、先に声を掛ける。
「ああ、見送りはいいよ」
そう言い置いてブライアンは客間のドアまで足を進め、ノブに手をかけたところで彼は振り向いた。
「そう言えば、今日もエイ……ボールドウィン夫人に逢えなかったのは残念だけど、いつもどこに行ってるんだい?」
首を傾げて訊ねると、ボールドウィンはこの上ない渋面になった。
「君のところのセレスティアが連れ回しているんじゃないか。もう少し何とかならないものかな」
「妹が? それはすまないね。あの子はエイミーのことが大好きだから。でも、連れ回すって言ったって、せいぜい週に一、二度だろう? あんまり束縛すると、彼女が嫌がるんじゃないのかい? それに、嫌なら君からエ――ボールドウィン夫人に言ったらいいじゃないか。外に行かずに傍にいてくれって」
冗談めかしてそう言ったブライアンに、ボールドウィンは平然とした顔で返してくる。
「狭量な夫だとは思われたくない。それにエイミーは、何があっても私のことを嫌がったりしない」
彼女を手に入れるまで――ほんの数ヶ月前までは彼女の一挙手一投足で一喜一憂していた男とは思えない落ち着きっぷりだ。落ち着いただけでなく、余裕というものが感じられる。
ブライアンはその変化が、少し羨ましい。
元々ボールドウィンはどんな時でも冷静に対処する男だったが、隣国フランジナとの戦いから帰った後は、どこかが、何かが、変わっていた。
彼が戦いに赴いたのは、二度。
一度目の時は見るからに暗く落ち込んでいて、何か辛いことがあったのだろうということは、彼が話さなくても伝わってきた。その後すぐにボールドウィンはエイミーを屋敷に連れ帰り、それから彼の話にはしばしば彼女のことが出てくるようになった。
彼がまた明るさを取り戻していったのは、彼女の存在が大きかったのではないかと、ブライアンは思う。実の娘でもこれほど溺愛しないのではなかろうかというほどの溺愛ぶりで、ボールドウィンは彼女を慈しみ育むことで、自分自身を支えていたようだった。
二度目に戦場から戻ったときは、ボールドウィンは一見にこやかに笑っていても、常にぴんと張り詰め過ぎた弦のような危うさを漂わせるようになっていた。同時にエイミーとの間もぎくしゃくするようになり、ボールドウィンの彼女に対する執着ぶりも少々常軌を逸したものになり、ブライアンはどうなることかと陰ながら危ぶんでいたものだ。だが、エイミーを手に入れた途端に何かが吹っ切れたように、彼は落ち着きを取り戻した。
――落ち着き過ぎて、少し腹立たしくなるほどに。
エイミーと結ばれて、ボールドウィンは完全な存在になった。
ブライアンは、そんな相手を見つけ、手に入れることができた友人を羨ましく思う。
(少なくとも、僕にはまだその相手が現れていない)
だが、羨ましく思いながらも、そんな存在ができることに微かな――怯えめいた嫌悪も覚えた。
自らを縛り付ける唯一の相手ができるということは、正直、避けたい。
けれど、目の前の男を見ていると、そこから生じる想いは、少しばかり味わってみたいとも思う。
「何をボーッとしているんだ?」
矛盾する思いにふけっていたブライアンは、眉をひそめたボールドウィンにそう声を掛けられて我に返った。
「ああ、すまない。君は良い男になったよな、と思ってね」
からかい半分に言ってみれば、案の定、呆れたような眼差しが返ってくる。
「はぁ?」
そんな彼にくすりと笑い。
「じゃあ、また来るよ」
友にひらひらと手を振って、ブライアンは部屋を出た。