天使には守護天使がついていた⑥
「ああ、ごめん。何?」
ブライアンが問い返すと、珍しく、アンジェリカが口ごもった。わずかに逡巡する素振りを見せてから、問うてくる。
「……どうして、あの時、あんなことを?」
「あの時? あんなこと?」
どれのことだろう。
首を傾げたブライアンに、アンジェリカがもう少し言葉を足してくれる。
「だから、この間、どうして、あの男と私の間に割って入った? あなたの腕っぷしが立つならともかく、ご自分が殴られることは判りきっていたはずだ。あの場を通り過ぎる者は皆、見て見ぬふりだったのは気付いていたのだろう? どうして、あなたはそうしなかった?」
別に、放っておいたら良かったのに、と彼女がつぶやくから、ブライアンは一瞬言葉を失った。
「あなたが傷つけられようとしているのを、ただ見ているだけなんてできるわけがないじゃないか」
知らずにいたなら仕方がないが、目の前で起きていることを指をくわえて見過ごすなど、言語道断だ。相手がアンジェリカだったからなおさらなりふり構わずになってしまったけれど、他の女性でもやっぱり止めには入っていただろう。
他の選択肢などなかったときっぱり言い切ったブライアンを、アンジェリカはまじまじと見つめた。
しばらく、そうしていてから。
不意に、ふわりと淡い紅色の唇が綻んだ。
「常々変な人だとは思っていたけれど、やっぱり、あなたは変な人だな」
その台詞の内容は、誉め言葉とは程遠い。『変な人』とは、普通に受け取ったら人格を否定する表現だろう。
しかし、ブライアンはポカンと目と口を見開いたまま、アンジェリカの台詞に対して何らかの反応を返すことができなかった。目から入ってくる情報だけで今の彼の脳は飽和状態となっていて、耳からの情報に意識を注ぐ余裕は全く持てなかったのだ。
これは、本当に現実に起きていることだろうか。
そう思えない。
だが、現に目の前では――
(アンジェリカが、笑っている)
それはとても微かなものだ。だが、確かに彼女の顔に浮かんでいるのは紛れもない微笑みで、ブライアンはその愛らしさに全てを奪われた。
指一本動かすこともできずにただただアンジェリカの笑顔に見惚れるしかないブライアンの前で、彼女は更に続ける。
「自分が弱いと判っているのに、ほとんど条件反射で助けようとするのだものな。最初は、ただもの知らずなだけなのかと思っていたのだけれど」
クスクスと、こうに違いないと想像していたものとは比べ物にならないくらい甘く優しい声で笑う彼女が現実離れしているほど可愛くて。
(やっぱり、これは夢か……?)
そうだ。実はセレスティアが起こしに来たことなどなくて、ブライアンはまだベッドにいて惰眠を貪っているのだ。
そうなのか。
そうかもしれない。
そうに違いない。
だったら――
ブライアンの手が脳みその支配を離れて勝手に動いた。
自分の夢の中ならば、何をしてもいいはずだ。
完璧な丸みを描くその頬に、指先が触れる。
柔らかくて温かい。
もう少し、だけ。
ブライアンは両の掌で小さな顔を包み込む。
滑らかな肌は、今まで触れてきたどの女性よりもきめ細やかだ。
こんなに確かな感触があるというのに、本当にこれは夢なのだろうか。
ふと気づくと、アンジェリカの笑みは消えていて、大きな菫色の瞳が彼を見上げている。鼻は小作りで、その下にはふっくらとした薔薇の花弁のような唇が微かに開かれて。
頬がこれほど柔らかいならば、淡い薔薇色のその場所は、どれほど心地良い手触りなのだろう。そう思ったとたん、すぐ近くに置いた彼の親指がピクリと引き攣った。
もう少しだけ、なら。
彼は親指をほんの少し浮かして、ほんの少し横に動かして――
その時。
「ラザフォードさん?」
怪訝そうな声が、その唇からこぼれ出た。生真面目この上ないその声と他人行儀なその呼び方は、紛れもなく現実のアンジェリカが発したものだ。これが彼の夢であるならば、目の前の彼女はもっと甘い声で『ブライアン』と呼んでくれるはず。
途端に、ブライアンは現実に立ち返る。まじまじと、自分の両手の中にあるものを見つめた。
刹那。
「うわ!?」
パッと両手を上げた彼を、奇妙なものを見る目でアンジェリカが見上げてきた。
「何をしているんだ?」
「いや、その、……ナニも」
ヘラッとごまかし笑いを浮かべながらしどろもどろに答えたブライアンに、呆れたような眼差しが返される。
「やっぱり変な人だな、あなたは。私はそろそろ店に戻らないといけない」
婉曲な暇乞いの言葉に、ブライアンはやっぱり現実だったと実感する。つまり、アンジェリカは彼に笑ってくれたのだ。正確に表すならば『彼を笑った』なのかもしれないが、確かに彼女は笑顔を見せてくれた。
(なんだか、もういつ死んでもいいような気分だ)
三十三年間生きてきて、ブライアンは様々な成功体験を積み重ねてきた。基本的には望んだものを手に入れてきたし、失敗や挫折とも縁がなかった。
だが、難攻不落と言われた女性を口説き落とした時でも、今彼の胸を満たしているこの喜び、この達成感の百分の一も得られなかった。つまり、今まで手に入れてきたものの中で、ブライアンにとってアンジェリカの笑顔に匹敵するほどの価値を持ったものはなかったということなのだろう。
これまでの『満足』がとてつもなくつまらないものであったのだと、今悟った。
「ラザフォードさん?」
呼ばれて、ブライアンは我に返る。
「あ、うん、そうだね。今日は来てくれてありがとう」
ブライアンが何とか取り繕うと、アンジェリカはフッと口をつぐんだ。
そして、言う。
「急に店に来なくなったから、コニーが心配していた」
「ごめんね」
ほんの少し間が空いて。
「……私も」
小声で付け加えられたひと言に、ブライアンは我が耳を疑った。
「え?」
思わず問い返したが、その時にはもう彼女は身をひるがえしていた。
「じゃあ、また」
サッと歩き出したアンジェリカを咄嗟にブライアンは呼び止める。
「アンジェリカ!」
振り返ったアンジェリカは、どこからどう見ても冷静そのもののいつもの彼女だ。
「何だ?」
尋ねられ、ブライアンは束の間迷った後、言葉を選び出す。
「その、僕のことを『ブライアン』と呼んでくれないか?」
そのくらいは、許されて欲しい。
固唾を呑んでアンジェリカを見つめたけれど、さほど待つ必要もなく、彼女は答えてくれた。
「わかった。……ブライアン」
こくりと頷き、彼女は呼んだ。
アンジェリカの声による自分の名前を耳にした瞬間、この庭全ての花が開いたように感じたのは――どうやら錯覚だったようだ。だが、景色は何一つ変わっていないというのに、全ての色彩が違って見えるのは、きっと気のせいではない。
思わず「もう一度!」と言いそうになったブライアンの前でサッとアンジェリカは踵を返し、今度こそ本当に立ち去って行ってしまう。あまりの衝撃に呆然自失となったブライアンは、彼女を送ることすら思いつかなかった。
彼がその場に佇んだままずいぶんと経った頃。
ブライアンは止めていた息をゆるゆると吐きだした。
瞼の裏にはアンジェリカの笑顔が、鼓膜の奥には彼の名を呼んだ彼女の声が、まだ残っている。
(僕は、ブラッド・デッカーに嫉妬した)
彼が持つもの、彼が手に入れているものに。
自分が持たないものを持っているから、ブラッド・デッカーが妬ましい。
(だが、ただ妬むだけで何が変わるんだ?)
今日、アンジェリカはブライアンに向けて笑ってくれた。
そして、彼の名前を呼んでくれた。
欲しいと思っていたものを、一気に二つも手に入れた。
求めていたものを手に入れて、更に次が欲しくなるのは欲張りが過ぎるだろうか。
ブライアンは両手を見つめ、それをきつく握り締める。
(僕は、もっと欲しい)
何が、とは明言できない。
けれど、今、ブライアンはもっと多くを望んでいる。
この自分がくだらない、アンジェリカの隣に立つことに値しない男だというならば、それに値する自分になればよいのではないだろうか。そう、努力するべきではないだろうか。
彼はまたしばらくその場に佇んで、一つの決意を胸に、屋敷に向かって歩き出した。




