天使には守護天使がついていた⑤
ブラッドは帰っていき、ブライアンとアンジェリカは庭に出る。
庭師が丹精込めて世話をしているそこは、一分の乱れもなく整えられていて、訪れる客にも好評だ。
彼女と二人きりになって、ブライアンは最初の問題に直面した。
女性と歩くときには、紳士は必ず腕を差し出す。守りと支えの為、どんな女性が相手でも、だ。
だがしかし、アンジェリカにそれが必要なのだろうか。守りと支え、その両方、あるいはいずれかでも。
礼儀の為にすることが、彼女にはむしろ礼を失したことになるのでは。
ブライアンの深刻な迷いの末に、二人は今、ちょうど一歩分の距離を置きつつ庭を散策していた。
そして訪れた次なる問題。
(いったい、何を話したらいいのだろう)
沈黙の中、ブライアンはこれまで女性たちと交わしてきた会話の内容を思い出してみた。
内容。
ドレスが似合っているとか、髪型が良いとか。ああそうだ、香水の香りを褒めたこともある。
代わり映えのしないそれらの内容をいかに美言を駆使して伝えられるかに終始していた。
つまり、それは――
(会話というより、言葉遊びか)
アンジェリカがそんなものを喜ぶとは思えないし、ブライアンとしてもそんな幻想を抱いてはいない。
ここは、女性に対するよりも男友達に対するようにした方がいいのかもしれない。
だとすれば。
(そう、共通の人物の話題だ)
これは外れがない。
ブライアンが思いつく二人の共通の知人といえば猫の目亭の人々くらいだが、コニーのことはアンジェリカのことよりも知っているくらいだ。つまり、ネタがない。
(他に誰か……)
そう考えてふと一つの疑問がブライアンの中によみがえってきた。
「そう言えば、アンジェリカ。君は僕の妹のことを――セレスティアのことを知っていたりする?」
さきほどセレスティアがブライアンの寝室に入ってきてアンジェリカの訪れを告げた時、やけに馴染みがありそうに彼女の名前を口にしていたような気がする。
アンジェリカはクルリとブライアンに首を巡らせ、あっさりと頷いた。
「知っている。かれこれ三年ほどの付き合いになる」
「え!?」
思わずブライアンの足が止まった。
二歩進んでからアンジェリカも立ち止まり、彼を振り返る。
「あなたのことも、少しだけセレスティアから聞かされていた。初めて会ったときにすでに知っていた『ラザフォード』は、セレスティアのことだ。そして、この間、あなたが助けようとしてくれた時にいた場所は、彼女が管理している」
だから家名を聞いても何の反応も見せなかったのかと納得しつつ、ブライアンはあの場所を思い出してみた。
アンジェリカたちに気を取られて周囲の光景はあまり目に入らなかったけれど、確か、どこかの屋敷の前だったような。
「管理って、あの子の屋敷なのかい?」
何も下町に持たなくてもいいだろうが、気まぐれに建てた別宅か何かだろうか。変わり者の妹だから、充分にあり得る。
首を傾げたブライアンに、アンジェリカはかぶりを振った。
「少し違う」
そう答え、アンジェリカは何かを探るような眼差しをブライアンに注いでから、続ける。
「セレスティアは、虐げられた女子どもを助ける施設を支援している。ウィリスサイドとエイリスサイドにそれぞれ二ヵ所、彼女たちをかくまう場所を用意していて、あの屋敷はその一つだ」
「あの子が、そんなことをしているんだ?」
知らなかった。
全然。
呆気に取られているブライアンの前で、アンジェリカが微かに頭を傾けた。銀色の髪がさらりと流れる。
「人には、見ようと思ったものしか見えないものだ」
その声に含まれているのはただ事実を告げる響きだけで、ブライアンを責めたりなじったり呆れたりというものは、皆無だった。
だが、その声、言葉は彼にぐさりと突き刺さる。
「僕は、――」
ブライアンは否定しようとして、できなかった。
現に、毎日顔を合わせている妹がしていることに、まったく気づいていなかったのだから。
ふと、男たちに対峙するアンジェリカの窮地に目もくれず通り過ぎて行った人々のことが思い出された。
あの時、ブライアンの中には彼らを責める思いが湧いた。
だが、蓋を開けてみれば自分も彼らと大差ないではないか。
「……いつから、そんなことをしているんだろう」
「確か五年ほど前だ。御祖母殿の遺産が入ったときに思い立ったとか」
祖母が亡くなったのは、七年前だ。
「じゃあ、彼女が二十一の時にはもう考えていたのか……そんなに前から……」
自分はその金をどうしただろう。
彼にとって財産はただ存在しただ消費するものだから、在り処も使い道も意識したことすらない。
立ちすくむブライアンから庭へと目を移し、アンジェリカは言葉を継ぐ。
「ブラッドは警官で、私とセレスティアを会わせてくれた人だ。近所で夫に殴られている女性がいて、彼女を助けた時にセレスティアのところのことを教えてくれた。セレスティアともブラッドとも、それ以来の付き合いになる」
「夫に殴られる――って」
つまり、男が女性を殴るということか。
そんなことはブライアンの常識の中では有り得ない。
「そんなの……そんなの、ないだろう」
愕然としている彼に、またアンジェリカが首を巡らせた。その眼差しは静謐で、強い。
「ある。確かに多くはないが、稀、ではない」
短く明瞭に、彼女は言った。
ブライアンは両手を握り締める。何か言うべきだと思ったが、言葉が見つからない。
押し黙ったままの彼にアンジェリカは静かな眼を注ぎ、銀色の睫毛をゆっくりとはためかせた。
「見えないことが存在しないというわけではない」
淡々とそう告げた後、彼女はふとその視線を下げた。
「嫌なことはできるなら見たくないし、見せたくないものだ。私も、きっと、見逃していることがたくさんある」
それは、小さな囁き声で。
不意に、アンジェリカがその姿そのものの――まだ成人すらしていない、華奢な手足しか持たないか弱き女性そのものに見えた。まるで彼女がまとっていた見えない鎧が剥ぎ取られたかのように。
女性が弱さを見せた時、男はそれを慰め癒すべきだ。
今目の前に立つのがアンジェリカでなければ、ブライアンは即座に引き寄せ抱き締めていただろう。
だが、今、彼の腕はピクリともしなかった。
とても、これ以上ないというほど、そうしたいと思っている。
男女の駆け引きとしてではなく、ブライアン自身の気持ちと欲求から、彼はアンジェリカを抱き締めたい、慰めたいと思った。
けれど、その欲求をはるかに上回り、自分にはその資格がないことを思い知らされていた。
そうしていいのは、そう、きっと、さっき会ったブラッド・デッカーのような男だ。アンジェリカのことをちゃんと支え、護れるような、男。
彼なら、そうすることが許される。
あの男ならアンジェリカの隣に立つことも、彼女を慰めることもできる。
そう思ったときに、また、あの痛みと不快感が戻ってきた。アンジェリカとブラッドが並ぶ姿を目にすると必ず込み上げてきた、あの痛みが。
唐突に、ブライアンは悟る。
(これが、嫉妬というものか)
それに苦しむ友人たちの話は、聞かされた。だが、彼自身がそれを覚えたことはなかった。
(確かにこれは、つらいな)
ブラッド・デッカーにはアンジェリカを支える力があるということよりも、自分にはその力がないのだということが。ブラッドという『持つ者』を知ったことで、自分が『持たざる者』であるという、最初から存在していたけれども見ようとしていなかった事実を、改めて目の前に突き付けられてしまった。
肩を落としたブライアンに、涼やかな声が届く。
その声に顔を上げると、もういつも通りの彼女を取り戻したアンジェリカが彼を見つめていた。どうやら、何度か声を掛けられていたらしく、彼女は少し訝しげな顔をしている。




