天使には守護天使がついていた④
「元気そうだ」
戸口で立ち止まっていたブライアンは、そんな声を掛けられて我に返る。ジッと彼を見つめてくるアンジェリカに向けてかろうじて笑みの形を作った。
「ああ、うん、もう何ともないんだ」
そう答えながらもこの応接間にいる三人目が気になってならない。
「えぇっと、彼は――」
そこにそびえ立つのは、ずいぶんと、大柄な男だった。長身のブライアンよりも、更に頭半分ほど大きい。全体的にがっしりとしていて、アンジェリカが余裕で二人入れそうだ。何となく記憶の片隅にその顔が残っているような気がするが、判然としない。
彼はアンジェリカとよく似た空気を身にまとっていた。そして彼女と同じように背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、ブライアンにその鋭い眼差しを向ける。
「自分はブラッド・デッカーといいます」
「ブラッド……?」
その名前には、聞き覚えが。
ブライアンはブラッド・デッカーと名乗った男を凝視した。確か、以前コニーが『頼りになる』と評していた人物ではなかろうか。
茶色の髪、茶色の目をした彼は、一言で表わすならば大型の狩猟犬だった。昔領地で飼っていた犬に、雰囲気がそっくりだ。仔牛ほどの大きさをしていて猟場管理人にしか懐かず、ブライアンが手を差し出しても指先を舐めることすらしなかった。その犬と同じように、貴族であるブライアンを前にしても彼は全く憶する素振りもへつらう気配もない。
その凛とした佇まいは、アンジェリカと良く似通っていた。
だからなのか、アンジェリカとブラッド・デッカーは、そうやって並び立っても『男と女として』似合っているとは言えないが、『人として』はとてもしっくりしている。まるで二人とブライアンの間に不可視の線が引かれているかのように、彼女たちと自分とは『違う』気がしてならない。
(僕は、あちら側には立てないのか……?)
そう思うと、ブライアンの腹の底が、ジリジリとろうそくの火に晒されているような不快感を訴えた。その感覚は、どうも、アンジェリカとブラッドの両方を同時に視界に入れると強まるようだ。
彼らに目を向けないのも失礼だから不自然な態度気付かれる前に何とかやり過ごそうと、ブライアンは足を踏みかえた。けれども当然、そんなことで治まりはしない。
人前で感情や不快さを露わにすることは紳士にあるまじきことだ。
だが、このまま二人を見ていると、大声で叫び出してしまうかもしれない。
他者に対してこんなふうに感じるのは初めてで、ブライアンはそれをどう解消したらよいのか判らなかった。
だからただこっそりと、イライラを募らせていく。
そんな彼に気付いた様子もなく、ブラッド・デッカーはこれまたアンジェリカのように泰然とした口調で言う。
「先日は現場への到着が遅れ、ラザフォード様にはご迷惑をおかけしました」
堅苦しい物言いまで、アンジェリカと瓜二つだ。
ブラッド・デッカーのその口調でブライアンの中にはまた理不尽な苛立ちが湧き上がったが、それと同時に、その台詞の内容が、彼の頭の奥に隠れていた――いや、隠そうとしていた記憶を引っ張り出してきた。
コニーに教えてもらった場所へ向かってアンジェリカを見つけ、屈強な男四人と大立ち回りを始めた彼女を庇って――庇おうとして思い切り殴られた、あの時。
アンジェリカを護らなければと焦燥感に駆られる中で、ブライアンの意識は急速に失われつつあった。
彼女を護るどころか立ち上がることすらできず、彼は生まれて初めて無力感というものを知った。しよう、したい、しなければと思うのに、指をピクつかせるのがせいぜいで。
そこに突如として現れたのが、この男だった。
ブラッド・デッカーはいとも簡単に残った男を片付け、そして、あろうことか、動けなくなったブライアンを抱え上げたのだ。
それも、紳士が淑女にするように、横抱きに。
菫色の瞳一杯に彼を案じる色を浮かべたアンジェリカにその様を見られて、頭以上にみぞおちの辺りが痛んだところまではかろうじて記憶にある。そんな眼差しを向けられたくはなかったのにと思った記憶も。
だが、そこで意識はふっつりと途切れ、次に目を覚ました時には自宅のベッドの上で医者に覗き込まれていた。
(思い出したくなかった……)
男に抱き上げられ、あまつさえ、アンジェリカに同情と共にその様を見られていた記憶など。
そんなふうに思いながらも、ブライアンは顔には笑顔を浮かべる。どんな時でも微笑むことができるのは、彼の特技だ。
「いや、君が僕を運んでくれたんだよね。こちらこそありがとう」
礼を言えば、精悍な顔をほんの少しも崩すことなくブラッド・デッカーはわずかに頭を傾けて会釈を返してよこした。そんな仕草もアンジェリカを思わせ、そして、ブライアン自身とはまるで違っていた。
やっぱり、この二人が並んで立つところを見るとどうしようもなく、むかつく。
今まで、ブライアンは誰が誰とイチャつこうが、目の端にすらひっかけなかった。たとえその片方が彼のその時の『恋人』であっても全く気になったことなどないのに、目の前の二人はただ互いに触れ合えそうな距離にいるというだけでも胃が焼けたようになる。
(何なんだ、これは)
みぞおちをさすってみても、効果はない。
会話に対して上の空になっていたブライアンを、ブラッド・デッカーの台詞が引き戻した。
「彼女には、いつも無茶をするなと言っているのですが」
眉間にしわを寄せてブラッドはアンジェリカを睨む。彼女は心持ち唇を尖らせて彼を見上げた。
「でも、ブラッドを待っていたら間に合わなかったかもしれないじゃないか」
言い方もその表情も、いつものアンジェリカよりも幼い感じで、可愛らしい。その可愛らしい彼女を、ブライアンは何故か今は見たくないと思った。
だが、ブライアンの心はゆさゆさと揺さぶりまくりのアンジェリカの仕草も、ブラッド・デッカーには何の効果ももたらさないらしい。彼は表情一つ変えずに続ける。
「毎度毎度、さっさと腕っぷしに物を言わせず、せめてもう少し時間稼ぎをしてくれ」
「私はそう試みても、相手が応じてくれないんだ」
「まったく……」
いかにも親し気な遣り取りだ。きっと、今まで何度も繰り返されてきたのだろう。それを見聞きしているブライアンの胃の痛みが増す。
(なんだろう、本当に何か病気かもしれない)
得体の知れない痛みにこっそり眉をしかめるブライアンには気付かぬ様子でブラッド・デッカーは諦めたようなため息を一つこぼすと、にこりともせずに彼の左のこめかみの辺りに視線を向けてきた。
「あの時はずいぶん腫れていましたが、もう引いているようですね」
その声その台詞は、ブライアンのことを心配してくれているのだということが伝わってくるのだが。
ああ、もう。
あの時の情けない姿を、もう思い出させないで欲しい。
心のうちでそう願いながら、ブライアンはブラッド・デッカーに笑みを返す。
「え? ああ、すぐにね」
「気分が悪くて寝込んでいると聞いたのだけど」
そう言って小首をかしげたのはアンジェリカだ。スタスタとブライアンとの距離を詰めた彼女は、間近から彼が暴漢に殴られたその場所を見つめてくる。いつもはなかなか彼のもとには届かない彼女が身にまとう微かな花の香りが、ふわりと彼の鼻腔をくすぐった。
息を詰めてその視線を受け止めながら、身長差があって良かったと、ブライアンはしみじみと思った。頭一つ分離れていても、その近さからのアンジェリカの凝視の破壊力は、強烈だった。銃口の前に立った鹿のように彼は身じろぎ一つできなくなる。
普通、淑女はこんなに真っ直ぐに人の顔を覗き込んでこない。
彼女たちは、目当ての相手にチラリと目を走らせ、伏せ、焦らして、また目を上げる。
そんなふうにするのが彼女たちの間での流行りらしいし、男たちの間でも評判がいい。ブライアンも、少し前まで女性たちのそんなやり方を気に入っていたのだが。
今は、駆け引きの『か』の字もないようなアンジェリカの眼差しの方が、よほど動悸が速くなる。
と、不意に、アンジェリカが片手を上げた。その指先がブライアンのこめかみに触れる。
その触れ方は羽がかすめた程度であったにも拘らず痺れにも似た強烈な感覚をブライアンにもたらして、思わず彼は仰け反った。
「すまない。痛かったか?」
「いや、大丈夫、全然、平気だ」
なんてみっともない答え方だろう。
ブライアンは我ながらうんざりしたが、アンジェリカの方は何とも思っていないらしい。「そうか」と頷き、上げていた手を下ろす。
その反応の差になんとなく肩を落としたブライアンを、彼女がまた訝しげに見上げてきた。
「やっぱり、まだ調子が悪いのでは?」
「そうかもしれない」
思わずポツリとこぼれた呟きに、アンジェリカが一歩下がる。
距離が近いと息苦しくてたまらないというのに、いざ離れられたらブライアンの中に込み上げてきたのは安堵よりも落胆だった。
「じゃあ、お暇を」
言うなり身を翻しかけたアンジェリカを、ブライアンは慌てて引き留めた。
「あ、いや、違う。体調は万全だから。それよりも、――そう、君こそ怪我はなかったのかい?」
「私は、問題ない。あの程度は慣れているから」
ケロリとそんなふうに言われれば、つい、ブライアンも本音が零れる。
「僕は、そんなことに慣れて欲しくないな」
彼のその台詞に、ブラッド・デッカーがクスリと小さな笑いを漏らしたような気がした。
(あの男でも笑うのか?)
パッと目を向けても、彼は生真面目な顔のままだ。
空耳だったかと首を傾げたブライアンに、ブラッド・デッカーが言う。
「自分はもう帰ります。アンジェリカはどうする?」
「私も――」
「アンジェリカ!」
とっさに呼ばわると彼女はふわりと振り返り、仔猫のように彼を見つめてきた。軽く首をかしげたその仕草は、信じられないほど愛らしい。
あまりに愛らしくて、ブライアンの脳は活動を停止する。
呼び止めたからには、何か言わねば。
さようならとか、見舞いに来てくれてありがとうとか。
取り敢えず、これ以上そんなふうに見られると心臓が持たないので、お別れをする方向で。
だが、そんなふうにブライアンの頭は考えたにも拘らず。
「その……庭を観ていかないか?」
それは別れの台詞とは程遠く、さりとて、気の利いた誘い文句とも程遠い。
その上、数多の女性に腐るほどの誘惑の言葉を捧げてきた彼の口が吐き出したものとは思えないほど、陳腐で面白みのないものだった。
「庭?」
何を言っているんだとブライアンは己の頭をはたきたくなったが、出てしまった台詞はもう戻らない。後には引けず、笑顔を作ってさらに促す。
「そう、庭。今は薔薇が満開なんだ」
「コニーにはすぐに帰ると言ってしまったから」
明らかに断る方向のアンジェリカの返事に、ブライアンの肩が落ちた。が、予想外の方向から助け船が現れる。
「コニーには少し遅くなると伝えておこう」
ブラッドの申し出にアンジェリカは束の間迷う様子を見せ、そして頷いた。
「ありがとう」
彼女のその返事にパッと部屋の明かりが強くなったように感じられたのは、ブライアンの気のせいだろうか。
「たまにはのんびり綺麗なものを眺めるといい」
わずかに頬を緩めてアンジェリカに投げられたブラッドのその言葉に、どれほど美しいものでもこの天使に勝るものはないけれど、とブライアンは心の中で呟いた。




