天使に囲まれた天使③
とにかく、何かをしなければ不適切な言動をしてしまいそうだ。
ブライアンはそんな焦燥に駆られてあまり考えることなく口を開く。
「ここは、何なんだい?」
彼のその問いかけに、子どもたちを眺めていたアンジェリカが振り返った。
「ここは孤児院だ」
「こじいん?」
ブライアンもその言葉は聞いたことがあるが、パッとどういうものか浮かばない。確か子どもを集めて育てる場所だった気がする。となると、さっきあの少女が言っていたのは『院長先生』か。ここを取り仕切っている者のことなのだろう。
「あなたはここによく来るの?」
「ああ。月に一度、お菓子と、お客が寄付してくれたものを届けに来ている」
「寄付、かい?」
ブライアンは意外な気持ちで繰り返した。寄付で余分な収入があっても、それは屋敷や子どもたちの装いにはあまり回されていないようだ。
「その……院長先生という人は、信用できるのかい?」
「え?」
「寄付を受け取っている割には、何というか、それがあまり有効には使われていないような気がするのだけれど」
「どういう意味だ?」
眉をひそめたアンジェリカに、ブライアンは言葉を選びながら答える。
「ほら、寄付もあるなら、その分余裕ができるはずじゃないか。それなら、もう少し建物に手を加えたり子どもたちに良い格好をさせたりできるだろう? もしかしたら、寄付がちゃんと使われていないんじゃないかと」
寄付どころか、本来の運営資金だってまともに使われているのか疑問だ。
だが、アンジェリカは、そう言ったブライアンをまじまじと見つめてきた。まるで彼の言葉がよその国のものだったと言わんばかりに。
しばらくそうしていてから、彼女はその早咲きの薔薇のような唇を開く。
「ここの収入は寄付だけだ」
「え……だけど、それではやっていけないだろう」
「今は大口の寄付があるから、かなりうまくいっている。何年か前までは大きな子どもたちには仕事をしてもらっていた」
「子どもが仕事!?」
ブライアンは目を丸くした。自分の子どものころと言えば、家庭教師から逃げ回るのが日課だった。何か用を言いつけられたことなどないし、今でも仕事らしい仕事をしていない彼には、とても信じられない。
「別に珍しいことではない。平民では十を越えれば働く。ここでも、大きい子どもは小さな子どもの世話をするためにいるようなものだ」
淡々とした声には気負いや世の不条理に対する憤懣などもなく、あくまでも単なる事実を述べただけ、という口調だ。
「多少余裕があるにも拘らず彼らの装いが質素なのは、収入を寄付に頼っているからだ。頼みは個々の篤志家の厚意だけだから、逆に言えば、いつそれが失われるか判らない。その人が亡くなってしまったら次の人は現れないかもしれないから、余裕がある時にも倹約して蓄えておくんだ」
アンジェリカは背筋を真っ直ぐに伸ばしてそう語った。
「そ、うか」
かろうじてブライアンが返せたのは、それだけだ。それだけしか言えない自分が、どうしようもない愚か者に思える。
(いや、思える、ではないのか)
実際に、もの知らずの愚か者だ。
アンジェリカは、ブライアンよりも一回り以上も年下のはずなのに、その年の差よりも遥かに、自分の方が幼く感じる。
「アンジェ――」
何か言わなければ。
その何かが決まらないまま、とにかく口を開いたブライアンの呼びかけを、無邪気な声が奪い取る。
「何してるの、アンジー!」
「アンジー、はやくあそぼうよ!」
押し寄せた子どもたちが、しゃがみ込んだままのアンジェリカをグイグイと引っ張った。彼女はまたさっきのように表情を綻ばせて立ち上がる。
「アンジェリカ!」
子どもたちに引っ張られていきかけた彼女を、ブライアンはとっさに呼び止めた。追いかけようと立ち上がりかけて中腰になったところに、ドンと衝撃が。
突き転がされて地面に四つん這いになったブライアンに、幼い子どもがしがみ付く。
「おじさんもあそぼ」
「あ、こら、ジミー! ……ああ、すまない、ラザフォードさん、服が……」
アンジェリカの台詞で自分の姿を見下ろせば、子どもが触れたところが泥だらけになっていた。彼女に叱責された子どもは慌ててブライアンから離れて後ずさり、目を潤ませている。
「ごめんなさい」
すでに鼻をすすりながらそう言った子どもに、ブライアンは笑いかける。
「ああ、もっと滅茶滅茶にしたこともあるから、大丈夫だよ」
「ホント?」
「泥の汚れくらい、全然平気だ」
手厳しい執事にお小言を喰らえば済むだけだ。それに、某貴婦人とふざけていて薔薇の植え込みに倒れ込み、上等なシルクの上着に大きなかぎ裂きを作った時ほどには怒られないだろう。
ブライアンが笑って見せると、子どももニパッと笑顔になった。そうして、他の子どもたちのところに駆けていく。その背中を目で追って、泣いたことなどなかったようなその切り替えの早さに現金なものだと思わず微笑みが浮かんだ。
と、ふと視線を感じて顔を巡らせるとアンジェリカが彼を見つめている。
もしかしたら、あそこは厳しく叱るべきだったのだろうか。
「ごめん――」
慌てて謝りかけたブライアンを、静かなアンジェリカの声が遮る。
「あなたの、そういうところは良いと思う」
「え?」
空耳、いや、彼の妄想だろうか。
彼女の声で、自分を褒める言葉を聞いたような気がする。
目をしばたたかせたブライアンに、アンジェリカはもう一度言った。
「あなたの、そういう無頓着なところは、良いと思う」
一部微妙な表現は加わったが、確かに、彼女は彼のことを『良い』と言ってくれた。
ただそれだけで、ふわりと身体が軽くなったような気がする。
多くの女性から甘い微笑みや親密な愛撫と共に、『素敵な方』やら『愛しています』やら、称賛賛美求愛の言葉は山ほど受け取ってきた。
だが、たった今耳にしたニコリともしないアンジェリカからの『良い』ほど快く心に響き渡った一言はない。
(いや、ちょっと待て、落ち着け、『良い』であって『好き』ではないんだ。あの花が良いねとかあのドレスが良いねとか、そういうのと同じだ)
調子に乗りそうな自分を制し、良いことだけを残しがちな脳みそに現実を思い出させた。
現実は、さっきまでの遣り取りだ。
小さく咳払いをしてから、ブライアンはアンジェリカに笑みを向ける。
「だけど、アンジェリカは、その、僕に失望しただろう? 無駄遣いばかりの放蕩者だって」
そう、それが紛れもない現実というものだ。
子どもたちの現状も知らず、意味のないことに金を浪費する愚か者。
アンジェリカはわずかに頭を傾けるようにしてブライアンを見つめてきた。間近からひたりと注がれる菫色の眼差しに、彼は息を呑む。もう何度も覗き込んでいるというのに、いつもその色に溺れてしまうのはどうしてだろう。
そんなブライアンの胸中などつゆ知らず、彼女は彼と視線を絡め合わせたまま、口を開く。
「あなたに失望するほど、私はあなたのことを知らない。それに、あなたが何もしないことには別に何も思わない。あなたは何も知らなかったのだから」
その言葉に、ブライアンは安堵するべきだった。彼女は彼の至らないところを赦してくれたのだから。だが、何故か、そんなふうに思えない。
何か言わなければいけないと思う。
だが、普段女性に対して冗長に動く舌が、凍り付いたように動かない。
アンジェリカは彼の言葉を待つようにまたしばらくブライアンを見つめた後、ふいとその目を逸らした。そうして、優雅な身ごなしで立ち上がり、まだ尻を地につけたままのブライアンを見下ろして、告げる。
「しかし、あなたが何も知ろうとしないことには、少し、腹が立つ」
最後に彼を一瞥して、アンジェリカはスカートの裾をひるがえして彼女を待つ子どもたちのもとへと駆けていく。
ブライアンは言葉もなくその背中を見送った。見送りながら、今の彼女の言葉を考えた。
内容は真逆でも、口調は、先ほど彼のことを『良い』と言ったときと同じだ。
だが、どちらも彼女の心の底からの言葉なのだということが、伝わってきた。
肯定だけでも、否定だけでもない。
肯定も、否定もある。
それはつまり、アンジェリカがブライアンの色々な面を見ようとしてくれているからではないのだろうか。
腹が立つ、という彼女の一言は、今まで肯定や称賛しか与えられてこなかった彼の胸に深々と刺さった。だが、不思議なことに、そこから感じるのは痛みだけではない。
ブライアンは無意識のうちに胸元を握り締めた。
そこには今も確かに痛みを感じる。しかし、アンジェリカの言葉は、それ以上に大きな何かをブライアンの中に刻み込んだ。




